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【書評④】ケイト・ボーンスタイン著『 隠されたジェンダー』 [書評アーカイブ]

ケイト・ボーンスタイン著(筒井真樹子翻訳)『 隠されたジェンダー』(新水社、2007年9月)の書評。
隠されたジェンダー.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2007年12月15日号(通巻2850号)に掲載。

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本書は、アメリカの劇作家、パフォーマンス・アーティスト、ケイト・ボーンスタイン(Kate Bornstein)の評論集『Gender Outlaw:On Men,Women,and the Rest of Us』の待望久しかった邦訳である。
 
ボーンスタインは、一九四八年、アメリカ中北部ノースダコタ州で男性として生まれ、一九八六年に性別適合手術を受けたトランスセクシュアル(TS)女性であり、女性に転換した後は、ジェンダー・アクティビストとしても活躍している。
 
本書でボーンスタインは、幼時から現在に至る自らの精神と肉体の遍歴と性の転換を語るとともに、その体験から紡ぎだされたジェンダーに関する多彩な見解を展開している。その内容は多岐にわたり要約することは難しいが、そこに通底するものは、男か、女かという二元的なジェンダー制度、あるいはジェンダー論への懐疑と痛切な批判である。 
 
評者が、ボーンスタインの著述に初めて接したのは、『ユリイカ』一九九八年二月号に掲載された「ジェンダーの恐怖、ジェンダーの憤怒」という文章(本書の第八章に相当する)だった。同じ雑誌で「ヒジュラに学べ!-トランス社会の倫理と論理-」という座談会に参加しMtF(MaletoFemale 男から女へ)のトランスジェンダー(TG)として世の中に出たばかりだった評者は、MtFTSでありながらジェンダー・アウトローを自認し、二元的なジェンダー・システムの抑圧性と馬鹿馬鹿しさを指摘するボーンスタインの過激な主張に大いに刺激を受けたことを鮮明に覚えている。
 
しかし、ボーンスタインの思想の全体像が日本に紹介されるまでに、ずいぶん長い時が過ぎてしまった。原著は一九九五年に刊行されているのだから、日本語版の刊行まで実に十二年を要したことになる。なぜこれほどまでに邦訳が遅れたのだろうか?
 
その第一の理由は、ボーンスタインの語り口にあるだろう。まず示唆的な短文を掲げて、その後にそれを読み解いていくような文章構成は独特のものがある。また豊富な比喩やレトリックを正確に理解し日本語に置き換えるのは容易なことではないだろう。訳者の努力で本書の訳文はずいぶん読みやすくなっているが、それでも必ずしも読みやすいとは言い難い。しかし、それは主な理由ではないだろう。
 
第二の理由は、日本のTS/TGを取り巻く状況が、ボーンスタインの主張とはまったく逆の方向に進んでしまったことにあると思う。原著が刊行された一九九五年は、埼玉医科大学によって「性同一性障害」治療が日本で初めて提起された年だった。以後、日本では、生まれついての性別に違和感をもつ人を「性同一性障害」という精神疾患として「病理化」し、精神的・内分泌的・外科的「治療」を施すことによって、男/女どちらかに「正常化」することが、医療行為として行われるようになった。
 
その結果、性別違和感をもつ多くの人々は医療に囲い込まれ、まず「性同一性障害である」という精神科医のお墨付き(診断書)を手にすること、そしてできるだけ早く性別適合手術を受け、家庭裁判所で性別の取り扱いを変更して、マジョリティの男/女として社会に「埋没」することを、ひたすら目指すようになった。つまり、性別の男女二元制はまったく疑われることなく、望みの性別のジェンダーに適合し、新しい性に溶け込むことが最大の目標とされ、その達成度、速度を競うような風潮が蔓延してしまった。
 
日本のこのような十二年間の状況は、男か、女かという二元的なジェンダー制度の根本を疑うボーンスタインの主張とは、まったく方向性を異にするもので、彼女の主著が邦訳される環境にはなかったと言えるだろう。
 
もちろん、性器の外観を望みの性のそれに変え、戸籍の性別を変更して幸せになれる人は、それでたいへん結構なことだと思う。それを問題視するつもりはない。しかし、性別を移行しようとする誰もが、皆、そうなれるかと言えばそうではない。
 
評者のように男性ジェンダーを忌避して社会的性別を女性に移行したものの、二元的なジェンダーの枠組みへの懐疑から、女性ジェンダーにもきっちり適合できないものもいる。なんの疑問もなく新しいジェンダーにすっぽり適合できる性同一性障害者が、ある意味うらやましくさえ思える。そうしたジェンダー不適合者には、ボーンスタインが指し示すジェンダー・アウトローの道はかぎりなく魅力的に映る。
 
二〇〇七年の春、性別違和感をもつ人々の医療への囲い込みを牽引してきた埼玉医大の性同一性障害治療体勢は、提唱・推進者の教授の退任とともに、あっけなく崩壊してしまった。そんな年に本書が邦訳出版されたことは実に示唆的である。とは言え、男女二元制への適合しか視野にない多くの性同一性障害者の意識や「治療」システムが、本書の出版によって影響され、改善に向かうとは、残念ながら思えない。
 
むしろ、本書は、TS/TGに限定されることなく、二元的なジェンダーの枠組みに不適合感や疑いをもつ人々に広く読まれるべきものだと思う。先日、評者の友人の女性が「ああ、お嫁さんが欲しい!」と叫ぶのを聞いた。彼女は、レズビアンでも、トランスジェンダーでもない、セクシュアリティ的にも外観的にはごく普通の女性であり、二元論的には「お婿さんが欲しい!」と言うべき立場にある。しかし、彼女の叫びは冗談ではなく切実だった。彼女もまた部分的なジェンダー不適合者なのだと思う。そういう人たちにこそ、本書は有益な示唆を与えるのではないだろうか。
 
ところで、本書の最大の問題点は、書名だろう。『隠されたジェンダー』は第十五章に収録されている戯曲「隠されたもの・ひとつのジェンダー」から採ったものである。しかし、それが本書全体の主張にふさわしい書名であるかというと、評者は大いに首を傾げざるを得ない。なぜこんな穏便な書名にしてしまったのだろうか?
 
『隠されたジェンダー』では、原書名が端的に示しているボーンスタインの主張の最大の魅力である「アウトロー」性、挑発性、そして副題で「男、女、その残余としての私たち」と言い切る良い意味での開き直り(クィア性)が、まったく隠されてしまって、伝わってこないからだ。
 
仄聞するところでは、訳者の第一希望は『性別無頼』だったらしい。そのほうがずっと本書の内容を表していたと思う。いろいろ事情はあったのだろうが、その点だけは大いに惜しまれる。
 
最後に付け加えると、この書評は、著者、訳者、そして評者もMtFである。日本もやっとここまで来たのか・・・・。いささか感慨深い。
 
(三橋 順子:性社会史研究者・国際日本文化研究センター共同研究員)




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