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【書評④】ケイト・ボーンスタイン著『 隠されたジェンダー』 [書評アーカイブ]

ケイト・ボーンスタイン著(筒井真樹子翻訳)『 隠されたジェンダー』(新水社、2007年9月)の書評。
隠されたジェンダー.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2007年12月15日号(通巻2850号)に掲載。

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本書は、アメリカの劇作家、パフォーマンス・アーティスト、ケイト・ボーンスタイン(Kate Bornstein)の評論集『Gender Outlaw:On Men,Women,and the Rest of Us』の待望久しかった邦訳である。
 
ボーンスタインは、一九四八年、アメリカ中北部ノースダコタ州で男性として生まれ、一九八六年に性別適合手術を受けたトランスセクシュアル(TS)女性であり、女性に転換した後は、ジェンダー・アクティビストとしても活躍している。
 
本書でボーンスタインは、幼時から現在に至る自らの精神と肉体の遍歴と性の転換を語るとともに、その体験から紡ぎだされたジェンダーに関する多彩な見解を展開している。その内容は多岐にわたり要約することは難しいが、そこに通底するものは、男か、女かという二元的なジェンダー制度、あるいはジェンダー論への懐疑と痛切な批判である。 
 
評者が、ボーンスタインの著述に初めて接したのは、『ユリイカ』一九九八年二月号に掲載された「ジェンダーの恐怖、ジェンダーの憤怒」という文章(本書の第八章に相当する)だった。同じ雑誌で「ヒジュラに学べ!-トランス社会の倫理と論理-」という座談会に参加しMtF(MaletoFemale 男から女へ)のトランスジェンダー(TG)として世の中に出たばかりだった評者は、MtFTSでありながらジェンダー・アウトローを自認し、二元的なジェンダー・システムの抑圧性と馬鹿馬鹿しさを指摘するボーンスタインの過激な主張に大いに刺激を受けたことを鮮明に覚えている。
 
しかし、ボーンスタインの思想の全体像が日本に紹介されるまでに、ずいぶん長い時が過ぎてしまった。原著は一九九五年に刊行されているのだから、日本語版の刊行まで実に十二年を要したことになる。なぜこれほどまでに邦訳が遅れたのだろうか?
 
その第一の理由は、ボーンスタインの語り口にあるだろう。まず示唆的な短文を掲げて、その後にそれを読み解いていくような文章構成は独特のものがある。また豊富な比喩やレトリックを正確に理解し日本語に置き換えるのは容易なことではないだろう。訳者の努力で本書の訳文はずいぶん読みやすくなっているが、それでも必ずしも読みやすいとは言い難い。しかし、それは主な理由ではないだろう。
 
第二の理由は、日本のTS/TGを取り巻く状況が、ボーンスタインの主張とはまったく逆の方向に進んでしまったことにあると思う。原著が刊行された一九九五年は、埼玉医科大学によって「性同一性障害」治療が日本で初めて提起された年だった。以後、日本では、生まれついての性別に違和感をもつ人を「性同一性障害」という精神疾患として「病理化」し、精神的・内分泌的・外科的「治療」を施すことによって、男/女どちらかに「正常化」することが、医療行為として行われるようになった。
 
その結果、性別違和感をもつ多くの人々は医療に囲い込まれ、まず「性同一性障害である」という精神科医のお墨付き(診断書)を手にすること、そしてできるだけ早く性別適合手術を受け、家庭裁判所で性別の取り扱いを変更して、マジョリティの男/女として社会に「埋没」することを、ひたすら目指すようになった。つまり、性別の男女二元制はまったく疑われることなく、望みの性別のジェンダーに適合し、新しい性に溶け込むことが最大の目標とされ、その達成度、速度を競うような風潮が蔓延してしまった。
 
日本のこのような十二年間の状況は、男か、女かという二元的なジェンダー制度の根本を疑うボーンスタインの主張とは、まったく方向性を異にするもので、彼女の主著が邦訳される環境にはなかったと言えるだろう。
 
もちろん、性器の外観を望みの性のそれに変え、戸籍の性別を変更して幸せになれる人は、それでたいへん結構なことだと思う。それを問題視するつもりはない。しかし、性別を移行しようとする誰もが、皆、そうなれるかと言えばそうではない。
 
評者のように男性ジェンダーを忌避して社会的性別を女性に移行したものの、二元的なジェンダーの枠組みへの懐疑から、女性ジェンダーにもきっちり適合できないものもいる。なんの疑問もなく新しいジェンダーにすっぽり適合できる性同一性障害者が、ある意味うらやましくさえ思える。そうしたジェンダー不適合者には、ボーンスタインが指し示すジェンダー・アウトローの道はかぎりなく魅力的に映る。
 
二〇〇七年の春、性別違和感をもつ人々の医療への囲い込みを牽引してきた埼玉医大の性同一性障害治療体勢は、提唱・推進者の教授の退任とともに、あっけなく崩壊してしまった。そんな年に本書が邦訳出版されたことは実に示唆的である。とは言え、男女二元制への適合しか視野にない多くの性同一性障害者の意識や「治療」システムが、本書の出版によって影響され、改善に向かうとは、残念ながら思えない。
 
むしろ、本書は、TS/TGに限定されることなく、二元的なジェンダーの枠組みに不適合感や疑いをもつ人々に広く読まれるべきものだと思う。先日、評者の友人の女性が「ああ、お嫁さんが欲しい!」と叫ぶのを聞いた。彼女は、レズビアンでも、トランスジェンダーでもない、セクシュアリティ的にも外観的にはごく普通の女性であり、二元論的には「お婿さんが欲しい!」と言うべき立場にある。しかし、彼女の叫びは冗談ではなく切実だった。彼女もまた部分的なジェンダー不適合者なのだと思う。そういう人たちにこそ、本書は有益な示唆を与えるのではないだろうか。
 
ところで、本書の最大の問題点は、書名だろう。『隠されたジェンダー』は第十五章に収録されている戯曲「隠されたもの・ひとつのジェンダー」から採ったものである。しかし、それが本書全体の主張にふさわしい書名であるかというと、評者は大いに首を傾げざるを得ない。なぜこんな穏便な書名にしてしまったのだろうか?
 
『隠されたジェンダー』では、原書名が端的に示しているボーンスタインの主張の最大の魅力である「アウトロー」性、挑発性、そして副題で「男、女、その残余としての私たち」と言い切る良い意味での開き直り(クィア性)が、まったく隠されてしまって、伝わってこないからだ。
 
仄聞するところでは、訳者の第一希望は『性別無頼』だったらしい。そのほうがずっと本書の内容を表していたと思う。いろいろ事情はあったのだろうが、その点だけは大いに惜しまれる。
 
最後に付け加えると、この書評は、著者、訳者、そして評者もMtFである。日本もやっとここまで来たのか・・・・。いささか感慨深い。
 
(三橋 順子:性社会史研究者・国際日本文化研究センター共同研究員)




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【書評③】パトリック・カリフィア『 セックス・チェンジズ -トランスジェンダーの政治学-』 [書評アーカイブ]

パトリック・カリフィア著(石倉 由・吉池 祥子翻訳) 『 セックス・チェンジズ -トランスジェンダーの政治学-』(作品社、2005年7月)の書評。
セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2005年10月8日(2745号)に掲載。

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人が生まれもった性別を人生の途中で「変える」ということは簡単なことではない。本人のとって難事なだけでなく、家族やパートナーなどの親しい人々や取り巻く社会関係(職場・学校・友人など)にも大きな影響を与える。性別移行とはそれだけ壮大な試みなのである。
 
新しい性別で社会を生きていこうとする時、望みの性別を生きる幸福と同時に、まともな批判力をもった人ならば、今まで気づかなかった性別に伴うさまざまな社会的抑圧や障壁を実感することになる。それは、一つの性別しか生きない人たちには経験できない、性別という視点から人と社会への認識を深める上できわめて有益な体験であると、私は思う。
 
本書は、アメリカの思想家・アクティビスト、パトリック・カリフィアの論集『Sex changes and Other Essays on Transgender』(1997年初版、2003年第2版)の邦訳である。カリフィアはレズビアンSMフェミニストとして、1980年代から検閲に反対しポルノやセックス・ワークを擁護する立場で論陣を張ってきた人である。本書の初版執筆時にはレズビアンの立場を取っていたが、第2版刊行までの間に男性ホルモンを服用して男性アイデンティティに移行した。
 
第2版序文に始まる序論と8つの章は、それぞれが十分に読みごたえのある分量と内容になっている。ジェンダー・アイデンティの多様性の承認を求め、社会的性役割の基準概念に異を唱えるカリフィア主張は一見ラディカルである。しかし、アメリカ最初の「性転換者」であるクリスチーナ・ヨルゲンセンとイギリスの著名なジャーナリストで女性に転換したジャン・モリスの自伝などを比較分析した第1章「トランスセクシュアルの自伝」、ハリー・ベンジャミンやジョン・マネーら「性転換」の科学的権威たちの業績を批判的に検証した第2章「父親的存在」などは、きわめて分析で学究的ですらある。
 
続く、1979年に始まるレズビアン・フェミニストによるトランスセクシュアルへの激しい攻撃と排除運動を振り返った第3章「バックラッシュ」、欧米社会のゲイパラダイムから非欧米社会や前近代社会の第3ジェンダーを見ることの問題点を指摘した第4章「ベルダーシュ戦争と『パッシング・ウーマン』の愚行」、男性から女性に転換して全米女子テニス選手権の予選を勝ち上がったレニー・リチャーズらの語りをヨルゲンセンらの自伝と比較した第5章「現代トランスセクシュアルの自伝」、ほとんど存在を無視されてきたトランスジェンダーのパートナーに照明をあてた第6章「見えないジェンダー・アウトロー」などでも、こうした冷静な筆致に変わりはなく、本書の説得力を高めている。
 
トランスフォビックな社会に対してトランスジェンダーがどのような実力行使をしたかを紹介する第7章「クリニックを打ち壊し、ビューティ・パーラーを焼き払う」、今なお続く医療者やフェミニストとの軋轢の中でトランスジェンダー行動主義の今後を考える第8章「ジェンダーとトランスジェンダリズムの未来」など、1950年代から現代までの半世紀余の間に、アメリカのトランスジェンダーをめぐって、どのような議論が展開され、何が為されたかを丹念に掘り返し再検討しており、まさに「トランスジェンダーの政治学」という副題にふさわしい内容になっている。それはまた、性別をめぐるアメリカ社会の現代史としても高い資料性をもっている。
 
こうした豊かな内容をもつ著作を、翻訳者の石倉由と吉池祥子が、複雑な専門用語を丹念に日本語に置き換え、関係部分だけで500頁に近い分量であるにもかかわらず、読みやすいものにしている。特に文中に挿入されている用語解説は的確で、類書の水準を抜いている。
 
また、本書の特色のひとつは、付載されている論考の充実である。野宮亜紀の「日本における『性同一性障害』をめぐる動きとトランスジェンダーの当事者運動」を収録したことは、この種の翻訳本が日本の状況を無視する傾向が強い中にあって貴重な試みであり、本書を単なる外国思想の紹介に終わらせたくないという訳者たちの意志が伝わってくる。石倉の「訳者あとがき」も短文ながら、男女二元制への「同化主義」と、第三極としての「トランスジェンダー派」との深刻な対立という日本のトランスジェンダーの問題点をしっかり把握し、その相対化をはかることで解決への道筋を示している。
 
巻末に解説として付されている竹村和子「『セックス・チェンジズ』は、性転換でも、性別適合でもない」は、今までなぜか少なかった日本のフェミニストのトランスセクシュアル(TS)に対する評論として注目される。「TSを性の二分法のなかに閉じこめること、TSの問題をTSだけの問題として扱うことは」、TSを「再差別化し」、TSが「社会に対して投げかけている問題系をふたたび閉じてしまうことになる」という指摘は、常に当事者を中心とした閉じた系で問題処理がはかられてきた日本の現状を考えた時、たいへん示唆的である。
 
1996年ごろに始まる日本における「性同一性障害」問題の展開の中で、もっとも欠けていたのは、そもそも性別を変えるとはどういうことなのか、社会の中で性別を変えて生きるということはどういうことなのかという議論だったと思う。議論が当事者とそれに直接かかわった専門家(一部の医師や法学者)という狭い範囲で行われ、問題関心が身体(性器の外形)を外科的手術で変える段取りと、戸籍の続柄(性別)を変更する方法に集中してしまった感がある。
 
つまり、ジェンダー(社会的性別)の視点がほとんど欠落しており、本書でカリフィアが行っているような性別移行と社会についての本質的な論議がほとんど存在しなかったと言ってよい。 結果として、性器や戸籍を変えることなく社会的性別を移行したい人や、性別を変える当事者の家族の問題、さらには性別を変えた人を受け入れる社会の側の問題などが置き去りにされてしまった。
 
また、医療体制の拡充や法的整備が進んだ反面、当事者の間に医療依存ともいうべき状況が生まれている。性別の移行は本人の自己決定によってなされるべきもので、医療はそれをサポートし技術的サービスを提供するはずなのに、医師の承認がなければ性別移行はできない、だから医師の言うことを聞いて早く許可をもらおう、というような他者決定的な認識が広がってしまった。
 
政府や行政も、性別を移行して生きようとする人を「性同一性障害」という「障害者」として囲い込み、医療福祉的な見地から特例的に対処すればよいという認識しかなく、そこに性的少数者の人権という観点はきわめて希薄である。
 
ところで、本書の解説で竹村は「TS」という表記・概念を使っているが、実は現在、日本にはTSを自称する人はほとんどいなくなってしまった。かってTSをアイデンティティにしていた人たちの多くは「性同一性障害者」を称するようになってしまったからだ。
 
国際学会に出席すると、外国の研究者はトランスジェンダー(TG)/トランスセクシュアル(TS)という言葉を使っている。「性同一性障害」という言葉を聞くことは稀である。ところが、日本では「性同一性障害」という精神疾患カテゴリー名称が、医学の世界だけでなく、マスコミを通じて一般社会でも、TGやTSに比して圧倒的なシェアをもってしまった。こうした「性同一性障害」という医学用語が突出した日本の現状は、欧米だけでなくアジア諸国の状況と比較しても、実はかなり特異なのである。
 
そうした点で、本書で「セックス・チェンジ」「トランスジェンダー」と言っても、「それは誰のこと? 性同一性障害のことなら知っているけど」と思われてしまう危険性はある。しかし、性別の移行に関する世界の新しい潮流は、性器形成至上主義や、男・女どちらかに組み込めばそれで問題は解決するという従来の考え方を次第に過去のものにしようとしている。性別を移行して生きることは、「病気」ではなく、人権に根差した生き方の選択の問題であるという認識が一般化する時代がやがて来ると信じたい。日本の現状はそうした世界的な動きと未だ遠いところにあるが、状況を改善していくヒントは、本書におけるカリフィアの主張の中に数多く散りばめられている。
 
本書が性別の移行をめざす当事者と、それにかかわる専門家、そして「性別」という問題に関心をもつ多くの人たちに広く読まれることを、当事者の一人として願ってやまない。
 
(国際日本文化研究センター共同研究員・お茶の水女子大学非常勤講師)
 



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【書評②】青山まり『 ブラジャーをする男たちとしない女』 [書評アーカイブ]

青山まり『 ブラジャーをする男たちとしない女』(新水社、 2005年3月)の書評。
青山まり『ブラジャーをする男たちとしない女』.jpg
『図書新聞』(図書新聞社)2005年6月18日号(通巻2730号)に掲載。

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肩凝らしの私にとってブラジャーのストラップは大敵である。だから外から帰ってくると、真っ先にブラを外してしまう。バストの形を整えるために外出時には着けるが、家に一人でいるときは外す。時には色柄が「かわいいな」と思う商品もあるけれど、取り立てて愛着も執着もない。多くの女性にとってブラジャーと はそんなものだろう。
 
だから、数年前、Yシャツなど男物の衣服の下にブラジャーをしている男性がいる、しかも四六時中つけているほどの愛着をブラに抱いている男性がいることを、雑誌やテレビの報道で知った時、多くの女性は驚き、不可解に思ったのは無理もなかった。
 
本書は、4年前「ブラジャーをする男たち」(『Yomiuri Weekly』2001年11月4日号)を初めて世に知らしめたブラジャー研究家の青山まりがさらに取材と考察を進め、「ブラジャーをしない女」にも視野を広げてまとめたルポルタージュである。
 
ここで語られているブラジャーをする七人の男たちは、人生もブラをする理由も様々である。年齢的には36歳から57歳、既婚者も独身者もいる。ある男性は過労死しかねないような仕事のストレスをブラをすることで救われたと語り、またある男性は心の中の女性がブラを着けた瞬間に目覚めたと感じる。女性下着のやさしい皮膚感覚に魅せられてブラをする男性もいる。いずれにしてもブラジャーをすることで心の癒し、快適さ、抑圧からの解放を感じている。
 
こうした嗜好をフェティシズム(物品や身体の一部への性的嗜好)という言葉で表現してしまうことは簡単だ。しかし、もう少し考えてみよう。
 
彼らはなぜブラジャーに固着したのだろうか? 彼らの語りを読むと、ブラジャーという女性下着に、その機能性を超えた様々な意味を与えていることがわかる。それを一言で表せば、女性性の象徴という意味付けである。女性性の象徴としての乳房を包む物としてのブラジャーもまた女性性の象徴となり、それを身につけることにより、自らの女性性の欠落(内在的な欠落であるにしろ、対人的な欠落であるにしろ)を補おうとしているという解釈ができるだろう。
 
そして彼らの背景には、本来ただの「乳あて」「乳支え」に過ぎない布に、過剰なまでに女性性を象徴する意味を付与してしまった、この何十年間かの日本の性文化の有り様が見えてくる。
 
こうした男性の気持ちを、ブラジャーによるバストの寄せ上げなどのように女性性を過剰に表現することを社会的に期待され、それにいささか嫌気がさしている女性に理解させることはなかなか難しい。本書には女性サイトに寄せられた意見が付載されているが、中には「吐き気すら覚え」るという強烈な反感も表明されている。
 
しかし、著者のブラジャーをする男たちへの視線はかぎりなく優しい。男性でもブラジャーを試着して買える店のリストや周囲の人にブラ着用を気づかれない方法など、ブラジャー愛好男性のためのノウハウが親切に提示されている。ブラジャーをする男たちと著者の深い信頼関係がそこにある。
 
そして著者は「『男の人はブラジャーを着けてはいけない』といったルールが世の中にあるということは、実はとても暴力的なことなのではないでしょうか」とまで言う。その賛否はともかく、「男らしさ」を強要された結果、自殺に追い込まれるような状況で、ブラジャーをすることで心のバランスを取り戻せるのならそれでいいのでは、という提案にはうなずく人も多いのではないだろうか。
 
ところで、本書でいう「ブラジャーをする男」とはあくまでも男の服装の下にブラをしている男性のことで、私のように男の身体を持ちながら長年「女」として社会活動を行っている者や、以前、私が手伝いをしていた新宿歌舞伎町のニューハーフ・パブのお姐さんたち、あるいは最近「流行」のMtF(Male to Female 男から女へ)の性同一性障害の人たちは、その範疇に入らないらしい。私を含めてたぶんほとんどの人が、少なくとも外出時にはブラをしていると思うのだが。性別認識のあり方という点でも、なかなか興味深い。

欲を言えば「ブラジャーをしない女」についても、もっと取材を深めてほしかった。人間の多様な「性」について考えてみようとする人にはお薦めの一冊である。
 
(国際日本文化研究センター共同研究員・性社会史)




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【書評①】谷 甲州『 エリコ 』ートランスジェンダーの視点からー [書評アーカイブ]

『SFマガジン』(早川書房)2005年2月号(586号)谷甲州特集に掲載された『 エリコ 』の作品論。
『エリコ』の 単行本は、早川書房から 1999年4月の刊行。
谷甲州『エリコ』.jpg
文庫本は、 上・下巻で 2002年1月(ハヤカワ文庫 JA 686・687)の刊行。
谷甲州『エリコ』(上).jpg谷甲州『エリコ』(下).jpg
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(谷 甲州作品論)トランスジェンダーの視点から

『エリコ』は、22世紀、美貌の性転換娼婦北沢エリコが、国家レベルの遺伝子変換プロジェクトをめぐる陰謀に巻き込まれるバイオサスペンス長編SFである。大阪、上海、東京、そして月面とめまぐるしいまでに舞台を移すエロスとバイオレンスに満ちたストーリー展開と、降りかかる危機に立ち向かうエリコの人物造形が多くの読者に支持され、1997年度「SFマガジン読者賞」、2000年度「ベストSF国内篇3位」に選ばれた。
 
しかし、『エリコ』は谷甲州ファンや関係者には、かなり意外な作品として受け止められたらしい。著者が「あとがき」で明かしているように「お前、あんな小説も書くのか」という反響がかなり多かったようだ。たしかに書店に並んでいる谷甲州作品を見ると「終わりなき索敵」「最後の戦闘航海」「覇者の戦塵 ラングーン侵攻」など軍事(ミニタリー)色が強い「男らしい」ものばかりで、娼婦、しかもよりによって男性から女性に性転換したような「女々しい」主人公とは、かなり距離がある。他の作品をほとんど読んでいない私(申し訳ありません)は、違和感なく『エリコ』に入っていけたが、固定的な読者が驚いたのも無理はないかもしれない。
 
ところで、世の中には、まったく遠いようで案外合う意外な組み合わせというものがある。アボガドと海苔&ワサビ醤油とか、女性SFファンと着物とか。武器・軍事趣味とMtFトランスジェンダー(Male to Female Transgender、 女装もしくは男から女への性転換)も実はそのひとつである。
 
私が主催していた新宿の女装者たちの親睦グループ「クラブ・フェイクレディ」のパーティでは、きれいに着飾った女装娘たちが武器や軍事ネタで盛り上がっていたし、精巧なモデルガンを持ち込んで披露しあったりもしていた。なにしろ私が「ぶとう会」と言うと「舞踏会」じゃなく「武闘会」という字を頭にうかべる「娘」たちなのだ。列車砲の研究では世界レベル(らしい)「娘」や、中華料理を食べに行くときにわざわざ人民解放軍の女性将校の軍服を着てきて、私に「ここは台湾料理屋よ!」と怒られた「娘」もいた。私が寵愛していた妹分の一人は、対ソ最前線の最強師団、北海道千歳の戦車部隊にいた「娘」で、「あのね、お姉さん、榴弾砲って、こうやってね」とかわいらしい女声でレクチャーしてくれた。
 
武器・軍事マニアは、女装の「娘」たちだけではない。女装娘が好きな男性(女装しない)にもなぜか多い。彼らや「彼女」たちは、連れ立ってお台場近辺の草深い公園でモデルガンを撃ち合い戦闘ゴッコに興じてたりする。もちろん「娘」たちは迷彩模様のミニスカート姿で。
 
知らない人には嘘のような話だろう。MtFのトランスジェンダーにとって、武器・軍事趣味は、鉄道(鉄ちゃん)、バイクと共に三大趣味なのだ。両者がなぜ組み合さるのか、その理由はわからないが、事実は事実なのである。地球を東へ東へと進むといつの間にか出発点の西側に着てしまう。「男らしさ」の方向にどんどん進むといつの間にか「女らしさ」にたどり着く、そんなことなのかもしれない。
 
だから、私には、軍事小説の書き手である谷甲州が、エリコのような性転換女性がお好みで、それを主人公にした作品を書いたとしても、けっこううなずける。

『エリコ』を読んで感心したことは、性転換女性の心理が実にリアルに描かれていることである。男性であることに耐えられないほどの不安を感じ、苦労して女の身体を手に入れたにもかかわらず、それでもなお女としての自分に自信がもてず、常に不安にさいなまれる心理である。
 
冒頭第1章の身体検査のシーンで、エリコは服を脱ぐ際に過剰にセクシーな演技する。そしてそれに反応しない男性(ごきぶり男)にいらだちと怒りを覚える。男性の欲情によってしか自分の女性性を確認できないのである。また、エリコは服の汚れや化粧の崩れに過敏なまでに神経質である。自分の女性性を、作り上げ磨き上げた女性的な容姿だけに依存しているからである。その一方で、生まれつきの女性に対しては過度に身構えたり萎縮したりしてしまう。身体的には女性になったにもかかわらず、心理的に女性への仲間入りができないのである。
 
こうした行動や心理は、女性の身体を手に入れても、なお女性としてのアイデンティティを確立できない現代の性転換女性にもしばしば見られる。以前、性同一性障害者の集会に出席した時、隣席の性転換女性が、30分に一度くらいの頻度でバッグから大きな手鏡を出して顔(化粧)をチェックしていた。そうやって自分が女であることを確認しないと不安でいられないのだろう。また、女性に転換した直後に過剰に性的なファッションをしたり、身体的にはすっかり女性になっているのに、女性の集団に融和できなかったりすることもよく観察される現象だ。
 
このように男性の欲情による女性性の証明、女性的な美しい容姿への過度の依存から脱却できず、ほんとうの意味での女性自我が確立できないと、加齢によって容姿が衰えてくる時に自我が崩壊してしまう。美貌の盛りを過ぎた30~40代のニューハーフに自殺者が目立つのはそのためなのだ。
 
エリコも彼女たちと同類であり、事件に巻き込まれなかったら同じ道筋をたどった可能性がある。エリコにとっての無条件の救い(甘えの対象)である男らしい女友達胡蝶蘭の存在もまた「依存」以外の何ものでもない。
 
しかし、 エリコは、陰謀に巻き込まれ、何度も死に向き合うような修羅場をくぐり抜けることで、精神を鍛えられ次第に変化していく。第9章でエリコが敵の男たちを返り討ちにするシーンは、エリコが本来持っていたはずの知力と勇気が、女になった身体の中に蘇る印象的な場面である。胡蝶蘭との関係も、第11章で彼女を「殺す」ことで、「依存」から脱却して真の友情へと変わっていく。また、獣姦ショーの女性芸人小青との出会いを通じて、生まれながらの女性とも交流できるようになる。

このように『エリコ』は、美貌ではあるが自立できない一人の弱々しい性転換女性が、女性としての自我を確立し、しなやかでたくましい真の美しさをもった女性に変貌していく成長物語として、読むことができるだろう。
 
最後に『エリコ』批判をひとつ。『エリコ』の22世紀日本は、合法的な性転換手術も性転換後の戸籍の変更もできない社会である。エリコがそうであるように、非合法な性の転換をとげた女性は、一般の職業に就労できず、セックスワーク(娼婦)でしか生活の糧を得ることができない。たしかにそれは、20世紀日本の姿の投影である。
 
しかし、日本でも1997年に性転換手術(実態的には、外性器を異性のそれに似せて形成する手術で、エリコのように十分な機能はもたない)が事実上合法化され、2003年7月には「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が公布された。この法律には様々な問題点があるのだが、ともかく翌2004年7月から戸籍の性別変更が可能になった。こうした21世紀日本の現実を踏まえた時、『エリコ』作品世界は、あまりに性的マイノリティにとって暗すぎる世界である。
 
私は、「SFセミナー2001」で「SFにおけるトランスジェンダー(性別越境)」という話をさせていただいたが、その時、『エリコ』を例に、日本SFのジェンダー/セクシュアリティ設定は、必ずしも未来的ではなく現代的で、未来の「性と社会」のイメージとしては、あまりに貧しい、という批判をした。
 
その思いは、再読した今回ますます強くなった。日本SFがそうしたジェンダー/セクシュアリティに関する保守性を打ち破り、大胆な「性と社会」の未来像を提示した作品を生み出すことを期待したい。



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【ブックレビュー】「LGBTをめぐる出版状況」(『ジェンダー研究21』第7号) [論文・講演アーカイブ]

2018年3月13日(火)

早稲田大学ジェンダー研究所の紀要『ジェンダー研究21』第7号(2018年1月)に寄稿したLGBTについての定期刊行物と学術書のレビューです。
ジェンダー研究21 7.jpg
日本でLGBTムーブメントが起こった2012年以降、2017年秋までを範囲として、できるだけ網羅的に記述したつもりです。
LGBTについて学ぼうとする方のご参考になれば幸いです。

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LGBTをめぐる出版状況
                    三橋 順子

はじめにーLGBTとはー
 LGBTとは性的に非典型な主な4つのカテゴリーの英語の頭文字を合成したものである。Lはレズビアン(Lesbian:女性同性愛者)、Gはゲイ(Gay:男性同性愛者)、Bはバイセクシュアル(Bisexual:両性愛者)、Tはトランスジェンダー(Transgender:性別越境者)を表す。
 本来、性的に非典型な人々が共通の政治・社会的課題に立ち向かう際の連帯を示す概念で、最初からLGBTというカテゴリーやコミュニティがあるわけではない。ところが、この言葉が日本に輸入されたときに、意味が微妙にずれてしまい、LGBTという人がいるかのような使い方がされるようになってしまった。たとえば、マスメディアに見られる「LGBT男性」「LGBT女性」という用法はあきらかに誤りだ。また「LGBT活動家」というのも首を傾げる。なぜなら1人の人間がL・G・Bを兼ねることは不可能だからだ(L・G・BとTは兼ねられる)。
 それはともかく、近年、日本社会でLGBTへの注目が急速に高まっていることは間違いない。それにともなってLGBTに関連する出版が急増している。本稿は、そうした状況を概観することで、LGBTをめぐる諸問題に関心をもつ人たちへのささやかな案内になればと思う。 
 最初に定期刊行物の「LGBT特集」の状況について分析し、次にLGBT関連の学術系書籍を紹介する。

1 定期刊行物の「LGBT特集」
 近年の定期刊行物の「LGBT特集」を、国立国会図書館の検索機能(NDL-OPAC)で拾い出して、分野別に分類して時系列的に並べてみた。もちろん、拾い漏れはあると思うし、特集になっていない重要な論考もあると思うが、一応の傾向は見えてくると思う。

2012年(2)経済2
2013年(0)
2014年(2)人権1 報道1
2015年(10)労働3 経済2 人権2 労務管理1 教育1 思想1
2016年(16)法律・司法5 経営3 医療・心理3 金融2 労働1 教育1 文芸1
2017年(11)労働2 法律・司法2 総合2 労務管理1 教育1 生活1 女性運動1 社会問題1

 まず、指摘しておかなければならないのは、2012年夏に今回の「LGBTブーム」に火を着けたのが『週刊ダイヤモンド』(「国内市場5.7兆円 『LGBT市場』を攻略せよ!」)と『東洋経済』(「知られざる巨大市場 日本のLGBT」)の2つの経済誌だったということだ。つまり、今回の「LGBTブーム」は人権意識(社会的平等)に根差して始まったものではなく、経済的需要・思惑が先行して始まったということである。ライバル関係にある二大経済誌がまったく同時に特集を組んだのは偶然とは思えない。背後に何か大きな意図があった(誰かが仕掛けている)ことを思わせる。
 しかし、経済誌が着火したものの、すぐには燃え上がらず、2013年は特集を組んだ定期刊行物は皆無、2014年も報道系、人権系各1誌だけで、火は燻(くすぶ)った状態だった。
 それが、2015年夏から一気に燃え上がり、10誌が特集を組む。これは明らかに同年6月にアメリカ連邦最高裁が同性婚を認めないのは違法という決定を下したことがきっかけになっている。注目すべきは、2015年に特集を組んだのは、労働、労務管理関係の定期刊行物が多かったことだ(計4誌)。たとえば労務行政研究所の『労政時報』3892号(「新たな人事課題として認識され始める LGBT」)や労働開発研究会の『季刊労働法』251号(「LGBTと労働法」)などが出た。
 これは、経済誌の『日経ビジネス』が「究極のダイバーシティー:LGBTあなたの会社も無視できない」という特集を組んだことでわかるように、これまで長い間、LGBTの存在を無視してきた日本企業が、LGBTの顕在化に「危機感」を抱き始めた結果だと思う。2000年代初頭の「性同一性障害ブーム」の時に、労務管理系の刊行物の動きが意外に早かったことを思い出す。
 学術的には、『現代思想』(青土社)10月号が「LGBT―日本と世界のリアル」という特集を組み、L・G・B・T全分野にわたって、ほとんどが当事者性をもつ執筆者による24本の論考が並ぶさまはまさに壮観だった。『現代思想』がこの分野の特集を組むのは、1997年5月臨時増刊号(レズビアン/ゲイ・スタディーズ)以来18年ぶりのことだった。その18年の空白は1990年代の「クィア・ムーブメント」が頓挫して以降、日本の性的マイノリティの運動の長い停滞を表していると思う。
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 2016年になると、火はますます盛大に燃え盛り、なんと16誌が特集を組む。まず、春から夏にかけて経営誌・金融誌の特集が続く(計5誌)。たとえば、経営倫理実践研究センターの『経営倫理』82号(「LGBTと経営倫理」)や金融財政事情研究会の『ファイナンシャル・プラン』7月号(「知らないではすまされない LGBTの話」)などがある。正直言って、LGBTと金融がどう関わるのか、よくわからない。Tには優秀なトレーダーが何人かいるのは知っているが、金融トレードの場では別にLBGTだからといって特別扱いされるわけはないだろう。
 夏になると法律・司法系誌の特集が連続する(計5誌)。日本司法書士会連合会の『月報司法書士』7月号(「セクシュアル・マイノリティ~その先の多様化社会を見つめて~」)、『法律のひろば』(ぎょうせい)7月号(「セクシュアル・マイノリティへの現状と課題解決に向けて」)、日本司法書士会連合会の『月報司法書士』7月号(「セクシュアル・マイノリティ : その先の多様化社会を見つめて」)、日本弁護士連合会の『自由と正義』8月号(「LGBTと弁護士業務」)などが出て、先行していた経済的視点にようやく人権的な視点が追いついてきた。
 さらに注目すべきは、これまでなかった医療・心理系誌の特集が現われることだ(計3誌)。まず『精神療法』(金剛出版)2月号(「セクシュアル・マイノリティ(LGBT)への理解と支援」)、続いて『精神科治療学』(星和出版)8月号(「LGBTを正しく理解し、適切に対応するために」)、そして『こころの科学』(日本評論社)9月号(「LGBTと性別違和」)が出た。
とくに精神医学の専門誌がLGBTを特集することには、かつて同性愛が精神病として抑圧され、そこからの脱却(脱病理化)に長く苦しい闘いを強いられたこと、性別の移行を望む人たちは今なお精神疾患の軛(くびき)のもとにあることなどを考えるといささか危惧もあった。しかし、結果的には、それらの経緯を踏まえた有益な論考が多かった。
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 2017年は11誌で、10月までの途中集計ではあるが、2016年に比べてやや勢いが落ちたように見える。また、特集の内容にはかなり変化が見られる。それは、これまで注目されていなかったLGBTブームの「影」の部分への着目だ。まず、そのものズバリの『世界』(岩波書店)5月号(「〈LGBT〉ブームの光と影」が出て、アジア女性資料センターの『女たちの21世紀』90号(「LGBT主流化の影で」)、『AERA』2017年6月12日号(「LGBTブームという幻想:虹のふもとにある現実」)と続いた。さらに青少年問題研究会の『青少年問題』668号(「LGBTとは」)が社会問題の視点で特集を組んだ。華やかなブームの「影」で、LGBTをとりまく厳しい現実への注目は、LGBTの問題の本質が経済需要ではなく人権・社会問題であることを改めて確認する意味で重要だと思う。
 法律・司法系誌は前年に引き続き活発で、『刑事弁護』(現代人文社)89号(「セクシュアルマイノリティの刑事弁護」)、『法学セミナー』(日本評論社)10月号(「LGBTと法」)が出た。とりわけ後者は14本の論考が並ぶ重厚な特集になっている。
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 このほか、印刷媒体でないインターネット・マガジンにもLGBT関係の記事が増えている。とりわけ「BuzzFeed Japan」「ハフィントンポスト(日本版)」「ニューズウィーク(日本版)」など外資系にその傾向が顕著だ(と言うか、本体ではそれが当然)。
 通時的に見ると、中には内容が伴わないブーム便乗の特集もあるように思うが、これだけ多くの定期刊行物がLGBTを特集した意味は大きい。一過性のブームではなく、日本社会にLGBT問題への関心をしっかり根付かせることができるかどうか、今がまさに正念場だと思う。

2 LGBT関連の学術系書籍
 LGBTブームが起こった2012年頃以降、数多くのLGBT関連の書籍が出版されている。ここでは学術系の書籍を中心に概観してみたい。

(1)L(レズビアン)
 明治から昭和戦前期の女性間性愛の歴史をまとめた赤枝香奈子の大著『近代日本における女同士の親密な関係』(角川学芸出版、2011年)以来、社会史研究にはあまり目立った進展がない。当事者性に乏しい私が「日本におけるレズビアンの隠蔽とその影響」(小林富久子ほか編『ジェンダー研究/教育の深化のためにー早稲田からの発信』彩流社、2016年)を書いたのも、そうした研究状況が背景にある。
 「日本におけるレズビアン・ミニコミ誌の言説分析 ―1970年代から1980年代前半まで」(『和光大学現代人間学部紀要』10号、2017年)など昭和戦後期以降のレズビアン・コミュニティの形成過程の分析を積み重ねている杉浦郁子の研究が一書にまとまるのが待たれる。
 堀江有里『レズビアン・アイデンティティーズ』(洛北出版、2015年)レズビアンであることをベースに思索を深める。とりわけ「『反婚』思想/実践の可能性」は、「家族」制の拡大が新たな排除につながらないか、単純な同性婚推進論に疑問を提起する。
 パリで国際同性婚をした牧村朝子の『百合のリアル』 (星海社新書 2013年) はレズビアンの現実を語る。
 また、レズビアン活動家たちのトークを収録した『日本Lばなしー日本のレズビアンの過去・現在・未来をつなぐ』(パフスクール、2017年)は私家版ながら資料として貴重だ。

(2)G(ゲイ)
 2000年代に入って、風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(岩波新書、2010年)がある程度で長らく停滞が続いていたが、近年、一気に活況を呈してきた。とりわけゲイ・コミュニティの本格的な分析がようやく現れたことは、うれしい。
 森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房、2012年)は、ゲイ・コミュニティにおける「つながり」に着目し、「ついていけなさ」=「つながりの困難」を社会学的に分析する。かなり難解だが、一般的にはコミュニティを形成する力であるはずの「つながり」を、逆機能的にとらえた点で画期的。
 新ケ江章友『日本の『ゲイ』とエイズーコミュニティ・国家・アイデンティティ』は、1980年代以降、ゲイ世界の深刻な課題であったHIV感染/エイズ問題研究の到達点を示す。
 砂川秀樹『新宿二丁目の文化人類学 ―ゲイ・コミュニティから都市をまなざす』(太郎次郎社エディタ、2015年)は、文化人類学の手法で新宿二丁目のゲイ・コミュニティを分析していて都市論に結び付けた点も興味深い。ただ、2008年提出の博士論文ほぼそのままで、その後の研究の進展が参照されていないのが惜しまれる。
 三成美保編著『同性愛をめぐる歴史と法 ―尊厳としてのセクシュアリティ』 (明石書店、2015年)は、性的指向の自由は人間の尊厳にかかわる人権という観点に立った多角的な8本の論考からなる論集。
 フレデリック・マルテル『現地レポート 世界LGBT事情 ―変わりつつある人権と文化の地政学』(岩波書店、2016年)は、フランスのジャーナリストによる2013年に刊行された大著『Global Gay』の全訳で、約8年にわたって世界52カ国を取材したリアリティと情報量は圧倒的。日本版では2016年前半までを視野に入れた増補がなされていて、世界各地の「ゲイ革命」の現状を知ることができる。と同時に日本のゲイ運動が世界の潮流から取り残されている状況もわかる。
 前川直哉『〈男性同性愛者〉の社会史―アイデンティティの受容/クローゼットへの解放』(作品社、2017年)は、昭和期、とりわけ戦後の同性愛者の歩みを収資料に基づいて丁寧にたどった力作。資料として収集したいわゆる「変態雑誌」、「男性同性愛同人誌」の書誌研究としても有益。前著『男の絆―明治の学生からボーイズ・ラブまでー』 (筑摩書房、2011年)と合わせて、男性同性愛者の社会史研究を大きく進展させた。
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 このほか、クレア・マリィ『「おネエことば」論』(青土社、2013年)は、男性同性愛者に特徴的な「おネエことば」のジェンダー言語学的な分析だが、対象がテレビ・メディアを中心としており、ゲイ・コミュニティにおける一次的な使用例の分析に乏しいのが残念だが、ゲイ・コミュニティの深部に入れない女性研究者にそれを望むのは酷か。牧村朝子『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』 (星海社新書、2016年) は同性愛の病理化の歴史をわかりやすくたどる。
 また「いわゆる淫乱旅館について」(井上章一・三橋順子編著『性欲の研究・東京のエロ地理編』平凡社、2015年)、「戦後釜ヶ崎の周縁的セクシュアリティ」(『薔薇窗』26号、2015年、鹿野由行との共著)など、男性同性愛者の性愛の場である「ハッテン場」の歴史研究を精力的に進めている石田仁の研究が早く一書にまとまることを期待している。

(3)B(バイセクシュアル)
 LGBTブームであるにもかかわらずバイセクシュアルの研究書は刊行されず、研究の真空地帯になっている。針間克己・平田俊明編著『セクシュアル・マイノリティへの心理的支援 ―同性愛、性同一性障害を理解する』(岩崎学術出版社 2014年)が言及している程度。
 そんな状況の中で、青山薫「「『バイセクシュアル』である」と、いうこと」再考―「バイセクシュアル・アイデンティティ」の不可能性と可能性」(『現代思想』2015年10月号)は当事者性のある著者による貴重な成果。
 バイセクシュアル研究の不振は世界的な傾向のようだが、日本においてはさらにその傾向が著しい。

(4)T(トランスジェンダー)
 異性装の文化論は、三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)、佐伯順子『「女装と男装」の文化史』(講談社新書メチエ、2009年)以降、停滞気味だったが、総合芸術誌の『ユリイカ』(青土社)2015年9月号が「男の娘ー”かわいい”ボクたちの現在」を特集した。さまざまな分野から数多くの論考が集まり、女装文化が現代日本にもしっかり受け継がれていることが確認できた。
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 服藤早苗・新實五穂『(アジア遊学)歴史のなかの異性装』 (勉誠出版、2017年)は、古今東西の異性装についての論考18本を収録し、トランスジェンダー文化の普遍性と多様性を知る上で有益。
 長島淳子『江戸の異性装者(クロスドレッサー)たち―セクシュアルマイノリティの理解のために―』(勉誠出版、2017年)は近世史家による本格的な江戸時代の異性装研究。従来、日本の歴史学界はセクシュアル・マイノリティ的な存在に目を向けてこなかった傾向があるだけに画期的な著作。今後、さらなる異性装についての史料発掘が期待される。
 佐々木掌子『トランスジェンダーの心理学―多様な性同一性の発達メカニズムと形成』(晃洋書房、2017年)は、臨床心理学の立場から性別移行とジェンダー・アイデンティティ(性同一性)の関係を、独自のスケールを用いて分析する。私のように数字に弱い者には歯ごたえがある内容だが、世界的な研究動向もしっかり把握していて得るものは大きい。また、これまで「性同一性障害」を論文名にすることが多かった著者が、書名を「トランスジェンダー」としたことも注目。「性同一性障害」に限定せずより広い範囲(たとえば「Xジェンダー」など)を包摂する概念として「トランスジェンダー」を選んだとのことだが、やはり時代の流れ(世界の潮流)を感じる。内分泌系の医学専門雑誌『ホルモンと臨床』(医学の世界社)が2017年秋に「内分泌科医が理解すべきトランスジェンダー」という特集を組んだのも、そうした流れだ。
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 その「性同一性障害」だが、2018年のWHO(世界保健機関)の疾患リストの改訂(ICD-11の施行)により、病名(疾患名)として完全に消えることがほぼ確定的となっている。同時に今まで性別の移行を望むことは精神疾患とされてきたが、その軛がようやく外れることになりそうだ(性別移行の脱精神疾患化)。
 子どもの「性同一性障害」の第一人者である康純『性別に違和感がある子どもたちートランスジェンダー・SOGI・性の多様性』(合同出版、2017年)も、すでに「性同一性障害」を使っていない。「性同一性障害」を書名に掲げた学術書としては、エスノメソドロジーの手法で分析した鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ―性現象の社会学』 (ハーベスト社 2009年)が最後になるかもしれない。

(5)その他
 近年、「Xジェンダー」という言葉をしばしば聞くようになった。一見、英語のように思えるが、外国では通用しない和製英語で、gender queerに近い概念と言われていた。
LABELX編著『Xジェンダーって何? ―日本における多様な性のあり方』(緑風出版 2016年)は、初めてのXジェンダーの専論書。読んでみると、gender queerだけでなく、海外で言うgender-neutral(中性)、bi-gender(両性) A-gender(無性)、gender-fluid(不定性)、 Questioning(未確定)などを含み、内実はきわめて多様でとらえどころがない。
 とらえどころがないのが「Xジェンダー」の特質という説もあるが、私は「こうあらねばならない」という規範性が強い「性同一性障害」概念から自分は外れていると感じている人たちが作りだした居場所だと考えている。世界でも稀なほど「性同一性障害」概念が広くかつ強く流布した日本で「Xジェンダー」概念が生まれた理由もそれで説明できる。

(6)LGBT
 最後に、LGBT全体について。原ミナ汰・土肥いつき編著『にじ色の本棚 ―LGBTブックガイド』(三一書房、2016年)は、本稿では触れられなかった「古典」を数多く紹介している。ただ、紹介のレベルにばらつきがあるのが惜しまれる。
 森山至貴『LGBTを読みとくークィア・スタディーズ入門』(ちくま新書 2017年3月)は、クィア・スタディーズの入門書。基礎的な理論から最近のLGBTの状況まで幅広く、そしてバランス良く論じていて、LGBTを学ぶのに最適・最新の書籍だと思う。ただ、Tの分野についてはやや感覚が古い気がする。日本のLGBTをめぐる状況の変化は早い。それを反映しながら改訂・増補をしていってほしい。

おわりに
 1990年代の「クィア・スタディーズ」が挫折した後、2000年代の原野に1人立っているような寂々寥々たる状況を知る者にとっては、この数年のLGBT関連書籍の活況はまさに隔世の感がある。それでも、レズビアンやバイセクシュアルの研究は明らかに不足している。さらにはL・G・B・T以外のセクシュアリティ、たとえばAセクシュアル(無性愛)やパンセクシュアル(汎性愛)などはほとんど未開拓に近い。
 私は非才に加えて研究者としてのスタートが遅く、日本におけるトランスジェンダー・スタディーズの細い道筋を切り拓くのが精一杯だった。今後、より才能に富んだ後進たちが豊かな学術研究の花を咲かせてくれることを心から期待している。


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【対談】「変わるものと、かわらないもの。女装文化への語らい。」 [論文・講演アーカイブ]

8月11日(金・祝)

『女装と思想』第6号(テクノコスプレ研究会、2015年12月31日刊行)に「巻頭特別対談」として掲載されたロングインタビュー「変わるものと、かわらないもの。女装文化への語らい。」。
聞き手は、あしやまひろこさん。
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【目次】
1.女装者と男。女装者と女。
2.女装世界の変遷と媒体。ネット以前の出会い。
3.性同一性障害と女装世界
4.男の存在しない女装世界の登場
5.口コミと草の根の時代への回想
6.女装と容姿
7.「場」の変化。変わらぬ根底。
8.女装とテクノロジー、発達障害
9.女装の力。変化と連続の文化。

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対談「変わるものと、かわらないもの。女装文化への語らい。」
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↑ 「ネオンが似合う女」になれた頃(1997年4月)。
『週刊Spa!』に掲載された写真。

聞き手:あしやまひろこ
語り手:三橋順子
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↑ 対談時(2015年10月17日:下北沢)

1.女装者と男。女装者と女。

あしやま 女装者は男性が好きって誤解されがちなのですが、私もですが、三橋先生も女性がお好きでしたよね。

三橋 かなりの女好きです(断言)。ただね、90年代の六本木や新宿歌舞伎町を女装で歩いていると、男性が寄ってくるんですよ。最初は誘われても断っていたのですが、だんだん面倒になってくるし、自分がヘテロセクシュアル(異性愛)の男性に、女として見られ、誘われ、扱われることで、承認欲求が満たされるということがあって、そのうち場合によってはOKするようになりました。
私は性行為的には男性もOKで、男性とのプレイには性的な快感は十分にありました。請われるままにセックスフレンドとして長く関係をもった人もいましたが、心理的に惚れたことはありません。相手の男性も色恋を求めないさばけた人が多かったので、うまくいってたように思います。

あしやま 僕も共感します。相手ではなく、相手と接触している自分自身を見ているという。自分自身が女としての立場であるために、相手としての男を利用している。

三橋 自分を女にしてくれる道具のように男性を思っていましたね。私を女として扱い、女として気持良くしてくれる男が望ましい。それで、ホテルの部屋に大きな鏡があればなおいい。女として扱われる自分を鏡に映して自分で見たい、そういう欲望は強くありました。そこに相手の男が映る必要はないのです。そこらへん、ゲイの人たちとは感覚がかなり違うと思います。

あしやま その感覚はヘテロセクシャルな女装者にもかなりあると思います。男性相手にそういう感情を抱かなくとも、女として扱われたいと。

三橋 性的な関係が長く続いた相手が何人もいたのは、早い話、相手も気持ち良かったのだと思うのですね。
『性的なことば』(講談社現代新書)に書きましたが、ある経験豊富な男性に「あんたみたいな尻を、金の茶釜というんや。覚えとき」って教えられたことがありました。「金の茶釜」とは、おしりの名器のことです、女性の名器と同じで、相手にしか分からない、自分ではわからないのですけど、「フィット感が抜群だ」とよく言われました。

あしやま そのような体を作るための訓練は必要ではなかったのですか。

三橋 訓練はほとんどしてないです。かなり先天的なものだと思います。筋肉の質というか伸縮性がすごくあって、かつ丈夫。今にしてみると、ある種の才能なのだろうと思いますが、当時は、それほど自覚はなかったです。
で、繰り返しになりますが、本質的には男好きじゃないんですね。女装していても、寄ってくる女性もいます。しかも、けっこう「いい女」が。でも、相手の女性は私に男を求めてくるわけではないし、私も男性として接する気はない。レズビアン・ファンタジーなんですね。
何度もデートした女性とは、お互い好意を抱いていたわけですが、行為にうつれない。互いの手と手をずっと握りあっているだけ。後になって「どうしてあの時、押し倒してくれなかったの?」と言われましたが、それは、私も同じ気持ちで(笑)。レズビアン・ラブの経験がないから、お互いどういう手順を踏んだらいいのか分からなかったのです。

あしやま 女性として振舞っているわけですから、どう振る舞うかは難しいですよね。でも、三橋先生はすごいなとも思うところで、僕がそのようなシチュエーションにあったら男性として振る舞うだろうなと思います。

三橋 そう簡単には切り替われないし、そこで男になっちゃうのはなんか違うと思うのですよ。
歌舞伎町の「ジュネ」というお店でお手伝いホステスしていた頃、まだ「キャバクラ」なんていう言葉ができる前の話です。女性が接客する飲み屋は深夜営業できないわけですが、女装者が接客するお店は、法的には男性なので風営法の適用外で深夜営業ができるんです。
だから、六本木のクラブ・ホステスさんが、自分の店が終わった後に、タクシーに乗って飲みに来てくれます。でも、自分の店や、アフター(閉店後のお客さんとの付き合い)で飲んでるから、かなり酔っぱらっていて、会うなりいきなり「順子さ~ん」と抱きついてくる。危ないからしっかり抱き止めるわけですが、なにしろ六本木の高級クラブのナンバーワンクラスですから、胸も大きいし、腰のクビレもしっかりあって、すごい身体してるわけです。
そんな女性に密着されても、私は勃たない。もったいないなという気持ちと、自分が女というロール(役割)をちゃんとやっているんだという自己満足の両方がありました。

あしやま 自分はそういうシチュエーションはオイシイと思ってしまって。学生時代に他大学を交えた懇親コンパみたいなところで、女の子が可愛いでね、なんて言いながらハグをしてきたりしたときは嬉しかったりして。まあ、途中でそいつは男だからって止めが入るんですけれど。

三橋 女性が女装者を女性として認識しているから距離が近くなるんです。逆に女装者と男性とは対人距離が遠くなる。一般的に、男同士の距離は遠いですが、女性同士の距離は近いですね。

あしやま 女装しているとその基準になりますね。自分の女装を男性は遠巻きに見るんですが、女性はグイグイ寄ってきて。見た目は大きい感じがします。

三橋 女性の身体距離がすごく近いです。心理的には女同士という感覚であっても、もし体が反応してしまうと相手を裏切ることになる。女として近づいておきながら、男を出すというのは、とてもフェアーじゃない気がする。そういう可能性がある自分が嫌というか、恐怖感を抱いていましたね。

あしやま 僕は女性と女装者を描いた、例えば糸杉柾宏さんの作品を読むと、時には「生えている」女の子を求めている場合もあったりしないかなと思うこともあれば、男と前置きはしますが女装で仲良くなって男として……というのも良いのではないかという感覚もあって。好きな漫画に『ゆびさきミルクティー』というものがあるのですが、主人公は女装をしているけれども、色々と女性関係もあり彼女もいるというか、すごい都合がいい話だなとも思いますが。

三橋 私の世代にも、シメシメと思っていた人もいたかもしれませんけれど、私は嫌でした。だから、とても素敵な女性と共寝して、上半身はしっかり抱き合っていても、下半身は離すようにしていました。男相手の時は徹底的に女を演じ、女相手の時は男を出さないというのが、私の原則。
私が妻と良好な関係なのは、相手があまり私に男を求めてきていないからということがあるのかもしれません。女性との関係は精神的には深いわけですが、肉体的なものはほとんどなく、男性との関係は、その逆で、肉体的には深かったけど、精神的にはまったく浅いという感じでした。

あしやま トラニーチェイサーのような、女装が好きな人というのは何を求めてきていたのでしょうかね。

三橋 私は、ホステス倫理としてお店のお客さんとは寝ない主義だったので、一度もしたことはありません。お付き合いした男性は、全部、店の外の人です。だから、トラニーチェイサー的な人との付き合いは多くなくて、中には女装者が好きな男性もいましたが、長くお付き合いした方はそうではなかったですね。
声を掛けてくる男性には、自分が女装者であることを告げるわけですが、「自分はあなたみたいな女装の人は初めてだけど、それでもいいから付き合ってくれ」と言われたときは、うれしかったです。その男性、材木商の若旦那とはいちばん長く続きました。松本侑子さんの小説「女装夢変化」(『性遍歴』収録)のモデルになった出会いです。

あしやま 歌舞伎町は男性向けのキャバクラのようなイメージがありますが、当時は違うものもあったのでしょうか。

三橋 私が、男遊びが面白くてしかたがなかった時期は、九四年から九七年くらいですが、声を掛けられるのは、新宿では歌舞伎町エリアより、新宿駅周辺が多かったです。二丁目はゲイの世界ですから近づきません。六本木は、路上でも、ゲームセンターでも、酒場でもどこでもナンパされるという感じ。不思議なのは渋谷で、声を掛けられたことがほとんどなく、やっぱり性的な雰囲気が薄いのだと思います。
性的快楽に積極的な、濃い人が多かったから、その4年間で色々なことをやり尽くした感じがあって、その後は性的なものに執着しなくなりました。

あしやま 濃い人といえば、両性的なな……「生えてる」女の子こそ最高という人もいますよね。

三橋 『女装と日本人』にも書きましたが、乳房もペニスもどちらもある「娘」が大好き、ペニスのついた女の子を射精させるのが最高という男性もがいますよね。女装者は変態なって言われるけど、そっちの方がよっぽど変態じゃない、って言いたくなるような男性。
でも、そういう人が女装文化を裏から支えてきた部分があるわけで、江戸時代の陰間茶屋から現代のニューハーフや女装の飲み屋まで、そうした女装者大好きの男性が連綿と続いてきたんじゃないかと思います。性にも歌舞伎の女形にキャーキャー言っている人が途絶えることなく続いている。それが、日本文化の特質のひとつなんだと思います。

あしやま 自分自身は、バイセクシャルやパンセクシャルな女性とお付き合いした経験があって、女性同士だと入れるものもないし、みたいな話をされた事があって。

三橋 一種のレズビアン・ファンタジーを持っている女性はけっこういますよ。『女装と日本人』にも書いた通り、日本人の「曖昧な性」への嗜好は、近代化の中で上部構造は男女二元的に変わっても、ベーシックな部分では変わっていないというのが私の感覚ですね。
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↑ 六本木で遊び始めた頃(1994年11月)

2.女装世界の変遷と媒体。ネット以前の出会い。

あしやま 自分自身が今こうして女装しているのは、コスプレを含めてインターネットとの関わりが深いのかなと。

三橋 インターネットの登場は、大きな転換点でした。普及は1997~98年ごろに若い男性から始まり、最後に到達したのが中年女性でした。たとえば着物趣味の女性のコミュニティの成立が2001年ごろです。女装世界は、男性の世界なのでインターネットの普及が早く、97年にはもういくつかのサイトが立ち上がっていました。
その前に90年代前半からパソコン通信が広まって、東京中心の「EON」、大阪中心の「スワンの夢」の東西二大ネットが成立していました。パソコン通信からインターネットへの転換がだいたい98年くらいです。
これは偶然なのですが、性同一性障害の概念が流布しはじめたのもその時期でした。そして、00年代になると、直接的な対人コミュニティで成立していた新宿の女装世界が衰えていき、『くいーん』『ひまわり』『ニューハーフ倶楽部』といった雑誌媒体も次々に廃刊になりました。雑誌媒体の衰退理由は、端的に言えば、インターネット上で無修正のシーメールポルノが簡単に見られるようになったからですね。
『くいーん』は「女装交際誌」を名乗っていたように雑誌が仲介する「文通」がメインだったわけですが、90年代半ばに、パソコン通信や、ポケベル、PHSが普及していくと、時代遅れになって衰退していきました。
私が遊んでいたのは、ちょうどポケベルからPHSの時代で、NTTの伝言ダイヤルの全盛期でした。伝言ダイヤルには「02134649(オニイサンヨロシク)」という女装系のボードがあって、パスワードは「1919(イクイク)」でした(笑)。どこに書いてあるわけでなく、コミュニティ内の口コミで広がっていましたね。
伝言ダイヤルですから、声を録音するわけですが、私は声が絶対の強みだったので、週末にセクシーボイスで伝言を入れておくと、一時間に五~六本というペースで掛かってきます。それを聞いてPHSや公衆電話からかけ直して、この人は大丈夫そうだなと判断すると、待ち合わせ場所と時間を決めて、実際に会うわけです。

あしやま 相手は女装者の場合もあったのですか。

三橋 女装者はほとんどありません。もっぱら相手は男性でした。ゲイ系の人は感性が合わないので避けて、女装者好きで、私を女性として見立ててくれる人とだけ会いました。いきなりホテルへということもありましたけど、いっしょに食事をして軽く飲んで、それから・・・という普通のデートが多かったです。
バブルの余韻が残っていた時代ですから、たとえばサラ金業界の幹部とのデートは、必ず「かに道楽」。すごい量の蟹を食べさせてもらってからラブホテルに行くのですが、セックスの方はからきし弱い方で、こんなに奢ってもらっているのに申し訳ないなぁ、という感じでした。
逆に、東京出張の度に赤坂や西新宿の高級ホテルに呼んでくれる関西の社長さんは、セックスがとても強い人で、まず大東京の夜景眺めながら窓辺で立ちバックで一回、ベッドでもう一回、一眠りして朝日の中でもう一回。相手は「じゃあ、またな」って感じで、そのまま仕事へ。
私が化粧を直して、キーを返しにフロントに行くと、フロントマンから「ご伝言です」と封筒を渡されて、中には1万円札3枚のお小遣いと朝食券なんてこともありました。3000円の朝食って、後にも先にも、その時だけです。まあ、良い時代って言えば、そうでしたね。

3.性同一性障害と女装世界

あしやま 九〇年代末の変化は媒体以外にもありましたか。

三橋 「性同一性障害」(GID)の概念の普及が大きかったですね。それまでは、女になりたいと思う人は、まずは女装やニューハーフの世界に足を踏み入れていたわけです。店が入口だったのです。ところが、メディアがGIDをしきりに報道するようになると、性別に違和感を持っている人は、病院を入口にしてしまうわけですね。そうなると、お店に新人が来なくなってしまう。
00年代前半のGID概念の広がりは、人材を奪われるという意味で女装業界にとって大打撃でした。それと、ほぼ同時にインターネットが普及するわけですが、今にして思うと「ジュネ」をはじめとして新宿のお店はネット対応が遅れていましたね。

あしやま 口コミで構築されていたコミュニティを敢えてネットに出すというのも違うということでしょうか。

三橋 そうですね。「ジュネ」のママは株取引をネットでやっていましたから、ネットができないわけではなかったけど、お店の宣伝をネットでやろうという発想はまったくなかったです。「女装なんて、わざわざ宣伝して広めるもんじゃない」という考え方でした。そんなこともあって、女装系のお店の最大の危機は00年代でした。
ですから06年から07年にかけて『女装と日本人』を書いた頃の私には、女装の世界がもう無くなってしまうという危機感が強くありました。ともかくこの世界のことを書き残しておこうという、ある種の遺言のようなつもりで、かなりの悲壮感をもって執筆しました。
ところが、原稿を出版社に入れた08年頃に、何か様子がおかしいと気づきはじめました。街頭で、見た目は女性同士だけど、片方は女装者らしいカップルを立て続けに目撃したことがきっかけでした。九七年に私が女性と同伴出勤したら、「女装者なのに、女性とデートするなんて変態!」だって言われましたから、10年の間になにかが大きく変わりつつあることに気づいたのです。

あしやま オネエ系タレントがメディアに登場することも増えましたし関係性が変わったのでしょうか。女装者はただの変態ではないという認識が広まったのでしょうか。

三橋 日本テレビの「おネエ★MANS!」は06年秋からです。関係性が変わってきた理由について思うのは、97年ごろに「性同一性障害」の概念が登場してから10年の間に、性別越境の病理化がどんどん浸透していき、病気としての性別移行という形態に、息苦しさを感じるようになった人が増えてきたのだと思います。

4.男の存在しない女装世界の登場

三橋 『女装と日本人』執筆以降の変化についてまとめた「変容する女装文化」という論文を2009年に『『コスプレする社会 -サブカルチャーの身体文化-』(せりか書房)という論集に発表しました。
そこでのポイントは関係性の変化です。それまで、女装することと男性と性的関係をもつことは表裏一体でした。私は男から店で声を掛けられても断る第一世代だったので、ずいぶんで「生意気だ」と言われましたけれど、そうした男性との関係性から女性との関係性に移行してきたことに注目したわけです。

あしやま 男と寝ることと表裏一体であった女装文化が、ここ最近変化してきたということですよね。

三橋 昔(90年代半ば頃)の女装者は男性からの誘いはまず拒否しなかったです。どれだけたくさんの男と寝たかが女装者の勲章という雰囲気がありましたからね。

あしやま 当時も居たと思うのですが、男と関係を持ちたくないという女装者はどのようにしていたのでしょうか。

三橋 そうした人たちが、最初に集団を成したのが「エリザベス会館」です。「エリザベス」ができたのが78年ですが、かなり初期の段階(1980年代初頭)で男性とのセクシャリティを切りました。
60~70年代が全盛だった女装秘密結社「富貴クラブ」では、男性が圧倒的な力を持っていたのとは対照的ですね、新宿で男を相手にしてきた女装者の中には、年をとってモテなくなって、「エリザベス」に「隠居」する人もいました。
若いころモテた中高年女装者には二パターンがあり、モテなくなった段階でいっさい男性との性的関係を断ち切って、例えば「エリザベス」へ隠居しちゃうようなプライドの高い人。もう一方は60、70歳になっても、なんとか男を捕まえようとあがく人。どちらも大先輩で、その姿を間近でみていました。
後者の方は、着物女装なんですけど、店に来る若い男性客の隣に座ると、男の手をとって(女性着物の脇の下に開いている)身八つ口に引き込んで、乳房に触らせるんです。でも、若い男性にしてみたら、老女のおっぱいなんて触りたくないわけで、トイレに行くふりをして、チーママや私のところに「席、変えてくれ」って苦情を言ってくる。業が深いというか、もう完全に悪あがきですよ。いろいろお世話になった先輩ですけど、正直「自分は、絶対にああはなりたくない」と思いましたね。
加齢は、女装者だれでも避けられないことですから、やはり歳をとったときの身の処し方は、店に迷惑をかけないように、ちゃんと考えるべきです。

あしやま 今の女装者は、必ずしも男性との関係性を前提としていなかったり、異性愛者も多いように感じますから、この場の文化は今にも影響を与えているようにも思います。

三橋 「プロパガンダ」は、もっと男性中心なのかなと思いながら行ったら、おじさんたちは隅で小さくなっていて全然勢いがない。元気よく女装者に声を掛けているのは女の子ばかりで、つくづく時代も変わったんだなと思いました。

あしやま 女の子も女装者に近づきたい欲が開放されたんでしょうかね。

5.口コミと草の根の時代への回想

あしやま 八〇年代ごろからそのように文化にも幅が出てきたわけですね。しかし、今の若い女装者はエリザベスに行くわけでもないですし、先ほどのお話にあったように媒体の変遷もありました。今は、よりポップな、もっとファッション感覚の女装が生まれたのかなと思うところがありまして。 

三橋 おそらく同人誌の活動やコスプレ文化が影響して、新しい女装文化が誕生したのだと思います。「性同一性障害」的なものに嫌気のさした若い世代と、コスプレ系の感覚がマッチしたのではないでしょうか。
90年代にも、コスプレ系の女装者も居なくはなかったのすよ。コスプレ系女装は、新宿でも「エリザベス」でもなく、やはりキャンディ・ミルキィさん(現在キャンディ・H・ミルキィと改名)の雑誌『ひまわり』に集まっていましたね。キャンディさん自身がああだから、コスプレ系女装の人にとっては、とても居心地の良い場所だったと思います。

あしやま 僕よりも一世代上のコスプレ女装関係の人は、みなさん必ずキャンディさんのお名前を出されますよね。

三橋 「向日葵学園女子高等学校」という誌上企画があって、制服女装も『ひまわり』が中心でした。
『ひまわり』の創刊は87年で最初はキャンディさんの個人誌です。キャンディさんがメディアに登場して有名になるにつれて徐々に雑誌としての体裁が整って、93年に季刊になり、98年には隔月になり…。90年代半ばが、一番活気があったと思います。
ただし、当時もコスプレ女装に一定の需要はあったと思いますが、コミケも大規模でなく、そこで『ひまわり』を頒布ということもなかったわけで、キャンディさん自身があの格好でバイクで配達していたわけで、最後まで個人発行の同人誌という色彩が濃厚でした。
そういう意味では、現代のコスプレ女装に通じる淵源ではあると思いますが、やはり、相当の世代差があると思います。文化的に論じる場合、現代のコスプレ女装の隆盛とは、ある程度、切り分けた方がいいかもしれません。
現代のコスプレ女装には、いろいろな系統があると思います。コスプレから入る人、性同一性障害的なところから入ってくる人。そして、女装ができる場が昔よりずっと多様になっている。それは、とても良いことだと思います。
話がずれましたが、女装するという行為が男性との関係性から抜け出して、むしろ女性との関係性の比重が増していく、その転換の意味はすごく大きいと思います。

あしやま それが00年代の転換というわけですね。

三橋 女装者好きの女性は、いつ、どこから出現してきたのか、いわゆる腐女子的な世界からなのか、それとも違うのか、まだリサーチしていないのでわかりませんが、もともとそうした嗜好をもった女性は一定数いて、それが表に出やすくなったのだと思います。
やはり「場」の問題で、「プロパガンダ」みたいにそこに行けば女装者に会えるという場所があること、その情報に容易にアクセスできるようになったことが、何より大きいと思います。私たちの時代にはそれがまったくと言っていいほどなかった。稀にお店にくる女性は水商売や風俗産業の方がほとんどでした。
「場」の設定、そこへのアクセスという点で、90年代と00年代とでは根本的に違っていると思うのです。

あしやま 古代から日本人の中にあった根源的欲求のようなものが、アクセスできる手段と場所が設定されたことで、表出したという。

三橋 そうですね。『女装と日本人』に書いたように、日本人は男女を問わず、基本的に女装者が好きなのですよ。ただ、現実にはそこになかなかたどり着けなかった。新宿のゴールデン街に女装の店があるという話が、週刊誌やスポーツ新聞の隅っこに小さく載っている。情報っていってもその程度なんですね。
私の友人は、そういう記事を見て、ポケットに札束を入れて、ゴールデン街の店を一軒一軒、片端から飲み歩いて、10万円くらい飲んだところで、やっと店主から「ジュネ」の場所を教えてもらい、「ジュネ」にたどり着きました。おそらく他の店でも知っていたのでしょうが、教えてくれなかったのでしょうね。執念に加えて偶然、それに相当な根性とお金がないと、たどり着けない世界だったのです、女装の世界は。

6.女装と容姿

三橋 そうやって、やっと新宿女装世界にたどり着いても、ママから「あなたは(女装に)向いていないから止めなさい」なんて言われることもあります。傍から見ていてもむごい話だと思いますが、きれいになる素質に恵まれていない人が女装しても、辛いだけの世界なんですよね。
「エリザベス会館」は純粋アマチュアの世界なので、どんな容姿レベルでも「来るな」とは言いません。だから、10年通って、たくさんのお金を使っても、毎年開催される女装コンテストで、一度もノミネートされない人もいるわけです。逆に、入ってきてすぐに新人賞、翌年には準グランプリを獲って、店の「看板娘」に駆け上がっていく人もいます。私ですが(笑)。残酷と言えば残酷な世界なのですけど、それでも自分が我慢しさえすれば、そこにいられるわけです。
新宿の女装世界は酒場を拠点にした客商売ですからもっと露骨で、スタッフならお客が呼べる容姿かどうかがシビアに問われます。スタッフでない女装会員でも、とりあえずソファーに座って「枯れ木も山の賑わい」になるレベルならOKだけど、シビアな男性客に「お前、もっとどうにかしたらどうだ」なんて言われたら、ほんとうにどうしようもなくなってしまうわけですね。つまり、容姿的な適性で淘汰が起きるわけです。
一方、「性同一性障害」の場合は、お医者さんは「あなたはきれいにならないから、女になるのは止めなさい」とは絶対に言わない、言えないですから、診察・治療段階では容姿適性による淘汰は起きません。

あしやま コスプレの世界でも同じで、男女問わず見た目で判断されますよね。そして悪あがきではないのですが、パソコン上で写真を補正してなんとか、という人も多いわけです。実際会うと、誰?となる人も多くて。

三橋 コスプレ趣味であっても、美形とそうでない人とでは、周りに集まるカメラの数は明らかに違うでしょうし、更にいろいろ言われるわけでしょう。いくら写真で補正していても、いざ実際に会うと「写真とぜんぜん違う」という問題も出てきてしまうわけですよね。

あしやま 似合うかの問題はどうしようもなくて……。

三橋 「そんな醜い女装者は見たくない、勘弁してくれ」と思う権利も一般人にはあるわけです。そして、中にはそれを口に出しちゃう人もいる。少なくともなんでもアリかといえばそうではなく、容姿が問われてしまうわけです。
けれども、「性同一性障害」というレッテルを貼ると、医療福祉の問題になりますから、容姿をあれこれ言うことはできなくなる。「病気じゃあ、仕方がないだろう」ということです。そういう意味で「性同一性障害」という概念は「救い」であったわけです。
でも、そういう「性同一性障害」というレッテルを貼った「かわいそうな病気の人たち」が10年近くメディアに出ていたところに、病気ではないカワイイ女装者が「男の娘」というレッテルで出てくれば、メディアも一般の人の視線も一斉にそちらに行ってしまうのは仕方がないと思います。
「医療福祉」より「カワイイ」が受けるのが現実です。それを容姿主義、ルッキズム(lookism)だとの批判する人もいますけど、人間社会はおそらく有史以来ずっとルッキズムなんですね。良い悪いはともかく、現実にルッキズムがなくなるとは近未来的には思えません。
女装の世界は昔から完全にルッキズムで、ブサイクが生意気なこと言うと内容にかかわらずボコボコに批判される。美人は生意気を言っても許される。酷い世界と言えば酷い世界です。
「エリザベス会館」も新宿の女装世界も、見た目、容姿によって扱いが全然違うんですね。「人権」とか「平等」とかいう話とはまったく別の価値基準です。でもそういう「場」しかなかったんです。
そういう世界に身を置いて認められる、そしてその世界でのし上がるには、容姿を磨くしかないんです。ですから、女装と「性同一性障害」はまったく別の論理で成り立っているわけで、一緒にするのはもちろん、同列に論じるのも意味がありません。
女装の世界はルッキズムによる実力世界ですから、どれだけの人が淘汰されていったか、それこそ振り返れば死屍累々です。「性同一性障害」は医療福祉の世界ですから、淘汰が機能しちゃあいけないのです。少なくとも建前上は「かわいそうな病気の人たち」は皆、救われなければならない。
でも、この世界の現実は違う。だから「性同一性障害」の人たちもたいへんなのです。
今日は、ある自治体の主催の講座で「服装は自由である」というテーマで講演してきたのですが、それは論理的な話であって、現実は厳しいです。

あしやま 似つかわしいかどうかは大きな問題だと思っていまして、例えば僕が男姿でスカートを履いたら気持ちが悪いと思うんです。それはどうしようもないといいますか。

三橋 「気持ち悪い」と思う人に、「その感情を止めろ」と言うのは難しいし、実際にできませんよね。現実には、こちらが気持ち悪いと思われないようになるしかないのです。
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↑ 新宿歌舞伎町区役所通り「ジュネ」にて(1999年11月)

7.「場」の変化。変わらぬ根底。

三橋 飲み屋を拠点に成り立っている新宿の女装世界は、店自体が女装者と女装者を好む男性(女装者愛好男性)の出会いの場という要素があるわけですが、新宿の店育ちが一番で、次がエリザベス会館、一番下が上野などのハッテン映画館育ちという序列感覚がはっきりありました。
パソコン通信からネット掲示板時代の大スターで、一時期、フェミニズム系の活動の方にも評価されて、しきりに講演活動をされていた宮崎留美子先生という方がいらっしゃいます。ハッテン場育ちでも、上手に愛嬌を振り撒いて新宿で受け入れられる人もいるわけですけど、宮崎先生はそういうタイプじゃなく、弁が立つ分、反発も強かったわけです。
「最近、留美子って生意気な奴がいるようだけど、どこの出なの?」、「どこかのハッテン映画館の出らしいですよ」、「新宿の作法を教えてやるから、夜中の2時に花園神社の裏に呼び出しな」なんて話になったことがありました。留美子先生は終電車で帰るから、そんな時間にはもう新宿にいないのですけどね。
そんなエピソードが語るように新宿の女装世界は、よく言えば体育会系なんです。各店に古手の姐さんがいて、その世界に入るには、ママはもちろん、そうした姐さんたちにも挨拶しないといけない、悪く言えば、任侠世界的なノリがありました。
私は「エリザベス会館」から新宿に流れてきた新参者だったわけですが、新宿女装世界のドン(元締め)だった「ジュネ」の薫ママに仁義を切って、「ジュネ」のナンバーワン(若頭)の麻衣子姐さんと五分の杯を交わした客分ということになると、もう誰も文句を言えないんですね。
逆に留美子先生みたいなフリーの女装者が遊ぶのはけっこう難しい。意地悪そうな姐さんに「あんた、見ない顔ね、どこの娘?」みたいなことを言われて、いじめられかねない。でもそこで、ちゃんと挨拶して「あなた見込みがあるわね」という話になると、「ウチにいらっしゃいよ」ということで、店の支度部屋(着替えや化粧をしたり、仮眠したりする部屋)に所属することになる。そうなると「○○(店名)の〇〇子です」って名乗れて、女装コミュニティの他の店に飲みに行っても「あの子は〇〇の娘だから」ということで、飲み代が千円割引になるわけです。

あしやま お客さんがお店の更衣室で着替えるんですね。

三橋 店の中に更衣室があるところもありましたけど、「ジュネ」は店から十分程のマンションの一室が支度部屋でした。そこで着替える人が圧倒的に多くて、私みたいに家から女装して電車に乗って新宿に来る人は少なかったですね。
「ジュネ」の場合、そこで着替えたら一度は店に顔を出すのがルールで、その後はどこで遊んでも構いません。当時、月会費は1万5000円だったと思います。会員さんは店が忙しい時には接客を手伝ったりもしますが、「ジュネ」で飲んでる限り、いくら飲んでも飲み代はタダでした。フリーの女装者の料金は4000円なので、毎週末、店に来るなら会員になった方が安かったんです。

あしやま そういう世界に一度行ってみたいなと思います。

三橋 もうそういう世界はなくなっちゃったかな。もともと支度部屋は店に付属していたものだったのですが、ある時、大きなロッカールームを構えて、そちらをメインにして固定費を稼ぎ、店は遊び場という業態が現れました。それが「グッピー」&「アクトレス」で、「グッピー」が支度部屋機能、「アクトレス」がスナックでした。90年代末の最盛期には100人くらい会員がいましたね。
「ジュネ」のような、女装者と女装者が好きな男性が酒場で出会って仲良くなるという機能をもつ店は、67年に新宿の「花園五番街」に開店した「ふき」(後に「梢(こずえ)」に改称)が最初でした。「ジュネ」の閉店が03年ですから、一つのシステムが35年間機能したということです。35年続いたら立派なもので、GIDの影響もありましたが、店、さらにシステム自体の寿命もあったと思います。
女装文化のひとつの形態が終わったということですが、その後に残ったのが性別越境を病理化したGIDだけというのは、文化的にあまりにも貧しい。GIDは「医療福祉」であって「文化」じゃないですから。00年代前半には、もう日本の女装文化は終わりかなと思いましたが、00年代後半から新しい形お店が出てきました。
新宿では浜野さつきさんが「花園三番街」で「JAN JUNE」というお店をやっているし、湯島天神下(上野広小路)には井上魅夜さんが「化粧男子」(現在は閉店)を開店したり。魅夜ちゃんの店は、江戸時代に湯島天神界隈に栄えた陰間茶屋へのあこがれが詰まっていますね。

あしやま 井上さんは内心が女性の方を採るって言っていましたね。そういう方が生きられる場所を提供したいって。

三橋 魅夜ちゃんの店の子は、みんなすぐに女になっちゃうから長続きしないらしいです。「プロパガンダ」を始めたモカさんも女になりましたけど、今、30代くらいの人たちが、みなさんそれぞれ違う形でやりたいことをやっていて、それで女装文化がつながっていくと思っています。まったく同じ形態でやっても意味がないわけで、新宿の女装世界のシステムは35年も続いたわけですから、新しい形態にリニューアルしていくのは当然のことですよね。
女装者と女装者が好きな男性が酒場で出会って仲良くなるという、60年代に画期的で90年代まで機能したシステムが、新しい世紀になってその役目を終わったということです。でも、完全になくなったわけではなくて、お酒を飲みながら、女装者と重くない話をしたいみたい人には「JANE JUNE」に行けばいいわけです。

あしやま 今度行ってみたいと思います。

三橋 あなたは男姿で行ってもバレますよ。カウンターに座るなり、ママに「あなた女装するでしょう」って言われますよ。行きにくかったら初めは男姿で行って「今度は女装してきます」って言えば喜ばれます。

あしやま フレンドリーなのですね。より行ってみたい気持ちになりました。 

三橋 『ユリイカ』の「男の娘」特集(2015年9月号)に載せた「トランスジェンダー文化の原理 ー双性のシャーマンの末裔たちへー」にも書いたのですが、性別越境への親和性は、ずっと日本人の感性や文化に組み込まれていて不変だろうと思います。ただ、それが表出する形態や商業システムは変わっていく。でも、トランスジェンダー的なものへの親和性という基本は変わらない。
欧米にはトランスジェンダー的なものと相いれない宗教的規範があるけれども、日本にはそうした宗教規範がない。それどころか、むしろ性別越境的存在にある種の神性を見、その魅力を賛美してきた歴史がある。そうした感覚は、現代にも生きています。人々が美輪明宏さんに感じるオーラなどがその典型です。
世代や時代によって形は変わるけれど、根本にある伝統、性別越境の文化への親和性は変わらない。

あしやま 三橋先生の目から見ても、00年代以降の、一見すると新しくみえる女装者たちも、根っこの部分では全く変わらないということですね。

三橋 「女をする」という根っこは同じですよ。社会環境やインターネットの普及のように媒体は大きく変化しているだけで、それはメディア論的に捉えるならば大変化かもしれませんが、文化として捉えるならば本質ではなく手段・手法の問題ですね。
そこらへんのことは「(講演録)『男の娘(おとこのこ)』なるもの―その今と昔・性別認識を考える―」(駒沢女子大学・日本文化研究所『日本文化研究』10号 2013年 http://zoku-tasogare-2.blog.so-net.ne.jp/2015-08-08)で語ってます。

8.女装とテクノロジー、発達障害

あしやま テクノロジーといえば、一つ気になることがありまして。女装者はパソコンもそうですが、電車や機械などが好きな人が多く感じます。

三橋 女装の世界は、パソコン通信でも、インターネットでも、時代時代で最先端のものをすぐに取り込んできました。女装系のパソコン通信は90年に東西ほぼ同時に始まり、95年頃には全盛期を迎えました。隣村であるゲイ世界と比べるとテクノロジーの取り入れが圧倒的に早かったです。
実際、パソコン関連の仕事をしている女装者は多かったです。その理由については、パソコン業界が急速に拡大しソフトウェア需要が一気に高まった勃興期には、技術者が不足したため、容姿に関係なく、能力で採用したからという説があります。それは部分的には正解かもしれません。
でも、どうもそれだけではないような気がします。女装者には、鉄道オタクや軍事(ミリタリ)オタクがけっこう多い。それにバイクオタクも。なぜなのだろうと、ずっと疑問に思っていましたが、最近になって有力な仮説が浮上してきました。それは発達障害との関連。

あしやま あはは(笑)。それは、くとの先生も言っていて。女装者と発達障害は相関しているんじゃないかって。

三橋 オタク世界の住人と発達障害とはけっこう重なるわけですが、それと同じなのではないかということです。根っこに発達障害があって、なにか特定の分野に著しく入れ込む傾向がある。それが、鉄道だったり、ミリタリだったり、バイクだったり、そして女装だったり……。一見、遠いように思えるけど、根っこは同じ。だから、それらがしばしば重なって現れるという仮説です。
実は、性同一性障害と発達障害との関連、性同一性障害の人で性別の移行が難しいケースでは発達障害との重複が疑われるということは、臨床系の精神科医はかなり早い時期から気づいていたようです、ただ、性同一性障害の当事者が嫌がるので、公の場でなかなか言いにくかった。
ところが、2014年6月に横浜で開催された日本精神神経学会シンポジウムで、岡山大学の松本洋輔先生(精神科)が「広汎性発達障害と gender dysphoria の合併をめぐる臨床的問題」という題で発達障害と性別違和が合併した症例を報告しました。おそらく、これが公の場で発達障害と性別違和の重なりを指摘した初めての報告だと思います。私もパネラーとしてその場にいたのですが、堰を切ったように、臨床系の精神科の先生が賛同して、一年も経たずに性同一性障害と発達障害とはかなり重なるという認識が一気に広がりました。

あしやま 女装の世界にもいずれ普及してきそうですね。

三橋 以前、日本近代思想史研究の大家で鉄道趣味の原武史先生が、鉄道趣味はなぜ男性に偏っているのかという問題提起をしていた時に、「先生、実は、鉄道趣味は女装者や性同一性障害の人にも多いんですよ」という話をしました。
原先生、最初は信じてくれなかったのですが、お調べになると『ひまわり』の「向日葵学園女子高等学校」に鉄道サークルがあって、車両や駅で撮った女装写真がたくさん並んでいる。それで、現象としては納得されて、二人で何故なのかを議論したのですけど、当時は納得できる結論に至らなかった。
でも、発達障害と性同一性障害との重複が見えてくると、鉄道趣味と女装もしくは性同一性障害の重なりも単なる趣味の問題、文化的な傾向ではなく、より根源的なもの、つまり共通の根源としての発達障害ということで、解釈ができると思います。私もそうですけど、あしやまさんも鉄道も女装も好きという話で、他人事じゃあないですよね。

あしやま そうですね。僕は生活に支障も無いですし、病気ではないのですが、大学の保健管理センターで受けた正確な心理検査の結果は、分野間での開きが相当ありましたね。

三橋 まあ、私もあしやまさんもその傾向はあると思います。この相関は完全に立証されているわけではないのですが、おそらくそうでしょう。有名な女装者で、とても注意力散漫な方がいたり、ともかく思い当たるところが多いのです。発達障害の傾向がある人が一つの事に集中するという意味では、学者、研究者向きかもしれませんね。

9.女装の力。変化と連続の文化。

三橋 学者といえば、先日のニコニコ学会βでお会いした、くとの先生もお元気そうですし、小林秀章さん(セーラー服おじさん)も国際的に大活躍ですごいですよね。

あしやま セーラー服おじさんのすごいところは、ヨーロッパでもアジアでも通じるところですよね。

三橋 ニコニコ学会βでも語ったことですが、異形のダブル・ジェンダーが最強である、という理論は世界共通なのかなと思います。お人形みたいに綺麗じゃなく、あの風体だからこそ許されているのかなと思いますね。

あしやま 工学で言う不気味の谷のような話で、谷に落ちるまえのピークじゃないかなと思うんですね。

三橋 『女装と日本人』の段階で双性(ダブル・ジェンダー)の人は神に近くなるという「双性原理」の話を書きました。その後、神は本来異形であるという仮説を立てました。日本には異形の神がたくさんいるわけです。それを合わせると、ダブル・ジェンダーでかつ異形の人が、いちばん神性が強いということになります。
今や「セーラー服おじさんに出会ってツーショットを撮ると幸せになれる」という都市伝説が流れているわけで、セーラー服おじさんは「幸せを運ぶ都市神」的存在になっています。「双性&異形=最強」という私の理論は、セーラー服おじさんによって証明されたことになります。

あしやま でも、それは妖怪みたいな女装やコスプレとは違うという。

三橋 妖怪は零落した神なので、最初から零落していては駄目なんですね。セーラー服おじさんには、何だかよく分からないけどパワーがある。あのパワーがセーラー服おじさんを双性&異形の都市神として成立させているわけで、それをもう少し考えてみたいと思ってます。

あしやま パワーといえば、女装一般においても見た目と同じで、それ以上のプラスアルファの価値が必要ではないかというのは、過去の本誌でも度々話題になりました。

三橋 若い女性と同じで、よほど超越した美しさを持っている人以外は、外見だけでは持たない。他の魅力が必要ですね。女装でも、お人形さんみたいな女装ではすぐに飽きられる。当たり前のことですけど、容姿的な美しさに加えてタレント、つまり才能や魅力が必要です。
たとえば、はるな愛さんは、とてもクレバーな頭の回転の早い方で、実業家としても成功されているわけで、そういう人でないと長続きはしないのです。プロはもちろん、アマチュア女装やコスプレイヤーでも同じではないかと思います。

あしやま 川本直は前回の本誌で、一度女装界は落ちるところまで落ちたものもあったから上に伸びるのではなんて仰っていましたが。

三橋 どんな世界にも、上があれば下もある。しょうもない人はたくさんいます。しょうもない、というのは容姿に限らず、人格的なものも含めての話ですが。逆に、綺麗な人は昔からいるわけです。「富貴クラブ」のトップクラスはさすがに綺麗ですよ。ただ、そういうレベルの人は数人しかいない。現代はそのレベルが沢山いるという違いですね。

あしやま タレントの話で言えば、普通の人、のような人は少ないようにも感じます。たまに、女装者は知的水準が高いなんて言う人がいますが、おそらく上澄みしか見ていなくて、平均すると普通になるのではと思います。これも今も昔も何も変わっていないと思います。大きく変わっているところもあるけれど、変わっていないと言えば全く変わっていない。

三橋 時代(世代)とともに変わった部分はあるけど、変わらない部分もある。端的に言えば、どの時代にも女装したい人がいて、そうした女装者を愛でる人がいる。そうした人たちが作ってきた女装文化は、日本においては前近代以来脈々と連なる伝統がある。女装(異性装)への強い親和性が日本文化の伝統の一部になっている。現代のコスプレ要素の強い女装も、そこから外れるものではないと思います。
変わらない部分も大事だし、変わっていく部分も大切。つまりは、松尾芭蕉が言った「不易と流行」だと思うのです。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」「その本は一つなり」、つまり、不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない。両者の根本は一つである、ということです。
それが、「エリザベス会館」、新宿女装コミュニティ、そしてGIDの三つの世界を渡り歩いて、いろいろ見聞きし、今は若い女装の人たちの活動を観察している私の結論ですね。

あしやま 今の女装の世界は、昔から脈々と続いてきているけれど、多様な文化が花開いていると。今日はとても貴重なお話が聞けました、ありがとうございました。

三橋 こんな老人の昔話みたいなインタビューを載せて、コミケで売るわけでしょう。やっぱり続いているし、変化している。面白いですね。

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↑ 対談風景(あしやまさんは風邪を引いていたため「B面」)
2015年10月17日 下北沢にて

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【論文】和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―/ [論文・講演アーカイブ]

この論考は、2014年7月11日に京都女子大学で開催されたデザイン史学研究会第13回シンポジウ「スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」での研究報告「和装のモダンガールはいなかったのか?―モダン・ファッションとしての銘仙」をもとに論文化し、『デザイン史学』第14号(デザイン史学研究会、2016年7月)に日本文(123~128頁)と英文(151~158頁:Did Modern Girls wear Kimonos? -Meisen Silk as Modern Fashion-)で掲載されたものである。
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なお、『デザイン史学』第14号では紙幅の関係で図5・6は割愛したが、ここでは成稿時の形に復元した。

【追記】報告レジュメはこちら(↓)。
画像がたくさん入っています。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-07-12
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和装のモダンガールはいなかったのか?
    ―モダン・ファッションとしての銘仙―

三橋 順子(明治大学非常勤講師:着物文化論・性社会文化史)

1 「和装のモダンガールはいなかったのですか?」
2004年9月、東京「ウィメンズプラザ」で開催された「シンポジウム アジアのモダンガール」に出席した私は「和装のモダンガールはいなかったのですか?」と質問した。その瞬間、会場の温度が3度くらい下がったような気がした。報告者からは「いる」とも「いない」とも返答はなかった。つまり、ほとんど無視されたのである。私は、そんなにとんでもないことを言ってしまったのだろうか?

そんな質問をしたのは、1枚の写真が頭にあったからだ。それは「帝都東京」がもっとも華やいだ時代、昭和7年(1932)、老若男女、和装・洋装の人たちが行き交う東京銀座4丁目交差点を写したものだ(石川光陽1987)。とくに注目したのは、若い女性の二人連れだ(図1)。右側の洋装の女性は「モダンガール」で、左側の振袖姿の女性は「旧弊な」あるいは「伝統的な」女性なのだろうか?
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(図1)

私にはそうは思えない。仲良く語らいながら銀座を闊歩する2人は、どちらも昭和7年における近代的(モダン)な女性なのだと思う。

「モダンガール」の洋装に目を奪われがちだが、昭和戦前期(1926~1936)は大衆絹織物(銘仙・お召)の大流行期であり、大衆レベルで見て日本の和装文化の全盛期と言っていい時代だった(三橋2010、同2014)。

考現学の創始者、今和次郎の調査によれば、大正14年(1925)の銀座には、洋装の女性は1%しかいなかった。その後、徐々に増えたかもしれないが、昭和戦前期の女性ファッションは和装が圧倒的に主流である。和装の女性の内訳は、銘仙が50.5%で半数を超え、お召と合わせると先染の織物は62.8%と3分の2に近くなる(今和次郎1925)。

こうした和装の主流を占めた銘仙には、人工染料の強い鮮やかな色味を用いたものがかなりあった。図1の左側の女性の振袖は、地色を部分的に変えながら、大きな「破れ麻の葉」柄を織り出した銘仙のように思われる。現在、残っている類似の品から想像して、濃い地色はおそらく臙脂で、そこに明るい薄鼠色で「破れ麻の葉」を織り出し、薄い地色の部分はその反対の色使いではないかと思う。いずれにしても、強いコントラストの大柄で、伝統的な(明治時代以前の)着物にはあり得ない、大胆でモダンな色使いである。

現代の私たちは、昭和戦前期に対して「モノクロームの昭和」というイメージを持っている。しかし今に残る大柄で色鮮やかな多色使いの銘仙やお召からして、少なくとも、日中戦争が始まる昭和12年(1937)以前の昭和初期については、そのイメージは間違いであり、むしろ「多彩・多色の昭和」とイメージすべきだと思う。

2 「モダン着物」としての銘仙
「多彩・多色の昭和」を演出した銘仙とは、どのような織物だったのだろうか。

銘仙とは、糸の段階で染めた(先染)絹糸を経糸と緯糸の直交組織(平織)で織り上げた絹織物である。養蚕地帯(生糸産地)である北関東の風土から生まれた織物で、もともとは玉繭などから取った節糸を天然染料で染めた堅牢な自家生産品だった。江戸時代には「目千」「太織(ふとり)」などと表記されたが、明治中期になって「銘仙」の字が当てられるようになった。たとえば、「伊勢崎太織」が「伊勢崎銘仙」と改称したのは明治21年(1888)のことだった。

明治末期~大正時代前期(1910年代)に工場生産化され、人工染料で経糸に着色し、絹紡糸を緯糸に使い、力織機で織りあげる技術が完成した。

大正~昭和戦前期に銘仙が大流行するには、いくつかの要素があった。
第一は、人工(化学)染料の導入である。これによって染色効率が飛躍的に向上し、多彩で鮮やかな(強い)色味を染められるようになった。

第二は、動力織機の普及である。従来の手動織機に比べて生産効率は格段に向上し、織物は工場生産による大量生産品となり、コストが大幅に低下し大量流通が可能になった。それにより、それまで経済的に絹織物を着られなかった(木綿を着ていた)階層にも銘仙は普及していった。

第三は、新技術「解し織り(ほぐしおり)」の開発である。「解し織り」とは 経糸をざっくりと仮織りした上で型染め捺染し、織機にかけた後で仮糸を解しながら緯糸を入れて本織をしていく技法である。明治42年(1909)に、群馬県伊勢崎で開発された技術で、たちまち他の生産地(埼玉県秩父、栃木県足利など)に広まった。「解し織り」の導入によって、多彩な色柄を精密かつ効率的に織り出すことが可能になった。

第四は、華麗・斬新な色柄である。伝統的な縞銘仙、絣(かすり)銘仙に加えて「解し織り」による模様銘仙の登場により色柄がきわめて豊富になった。麻の葉、石畳、折鶴、傘などの伝統的な意匠をリニューアルしたものに加えて、アール・ヌーボー、アール・デコなどヨーロッパ美術界の先端的デザインが積極的に導入された(図2,3,4)。主要生産地だった埼玉県秩父では、上野の美術学校(現:東京芸術大学)の卒業生・学生などに基本デザインを依頼していた。そうした最新デザインを直交組織の織物で表現することが職人の腕の見せ所だった。
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(図2)アール・ヌーボー系の銘仙
巨大なチューリップ。黒の地に、白、黄、緑で花を、緑とショッキング・ピンクで葉を織り出す
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(図3)アール・デコ系の銘仙
黒、白、赤で折れ線模様を織り出す。 薄鼠色に見える部分は、白地に細い黒の格子柄。
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(図4)伝統的意匠のリニューアル
群青の地に、大きな椿の花を赤で、葉を青緑で織り出す。花や葉の縁には白を入れて雪椿であることを表現している。

第五は、流行の演出である。大正末期~昭和初期の大都市に新たな商業施設としてデパートが出現する。たとえば、東京銀座の松坂屋(1924年)、松屋(1925年)、三越(1930年)、新興の「盛り場」として台頭しつつあった新宿の三越(1929年)、伊勢丹(1933年)などである。そうしたデパートが都市大衆消費文化の目玉商品として注目したのが銘仙であり、産地と提携した展示会などを開催して「流行」を積極的に演出していった。

当時の新聞の婦人欄には、「色は濃めに 柄は横段、格子風 生地も変化ある新物 夏物の流行」(『読売新聞』1928年5月4日朝刊)とか、「この秋・流行の王座を飾るもの 銘仙オンパレード? 模様は平面から立体へ 色は渋好みになりました」(『同』1931年9月16日朝刊)のように、その年の銘仙の流行が報じられている。

第六は、都市中産階層の成長による新たな着用層の増加である。消費活動を活発化していった中産階層の女性たちにとって、銘仙は格好の消費対象だった。たとえば、昭和8年(1933)秩父産の模様銘仙は5円80銭~6円50銭だった。当時の6円は、現代の21000~24000円ほどと思われるので、都市中産階層ならシーズン1着の購入は十分に可能な値段である。

こうした銘仙の大流行を支えた諸要素は、いずれもそれまでの伝統的な着物には見られなかった特質である。銘仙は、形態的にはともかく、デザイン的には明治以前の着物とは明らかに異なる「モダン着物」(化学染料+力織機+新柄+流行演出)だった。旧癖な人たちの目からすれば、「モダン着物」である銘仙は、「最近の若い娘は・・・」と眉をひそめるという点で、洋装とそれほど異なるものではなかったと思う。

そして、生産・流通という視点で重要なことは、銘仙は、日本における最初の工業的デザインによる大量生産品であり、生産地とバイヤーの連携によって流行が演出された大量流通品であるということだ。

つまり、銘仙はプレタポルテ(既製服)的である。その点で、高価な手工業少量生産品でオートクチュール(注文服)的だった明治時代以前の友禅染などの絹の着物と異なり、むしろ現代の大衆的な洋服に近い。また当時の「モダンガール」が着ていた洋服がオートクチュール的であったことを考えれば、プレタポルテ的な銘仙は、ファッションの流れの中で、より先行的・現代的であると言える。

3 日本近代ファッション史における銘仙
昭和戦前期、洋装の「モダンガール」と同じ時代に、銘仙を着た娘たちがいた。彼女たちが着ていた銘仙は、旧来の着物とはデザイン的にも、生産・流通的にも大きく異なる「モダン着物」だった。そして、「モダンガール」よりも銘仙を着た「モダン着物娘」の方が圧倒的に多数だった。「モダン着物(銘仙)」と 「モダン着物娘」の存在を無視して日本近代ファッション史、デザイン史を語るのはまったく実態にそぐわないし、誤りである。

図5(2).jpg
(図5) 日本近代ファッション史の単線的なイメージ

従来の日本近代ファッション史は、和装から洋装へという変化を単線的に考え、その接続点に「モダンガール」を位置させることが多い。しかし、そうした単線的な図式(図5)は明らかに誤りだ。
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(図6) 日本近代ファッション史の複線的なイメージ

実際には、「モダン着物娘」と「モダンガール」は、昭和戦前期において同時併存していたのであり、この時期には和装、洋装の2つの流れが相互に影響しあっていたと、複線的にイメージすべきなのだ(図6)。

おわりに
銘仙は、日本人女性の日常衣料の洋装化の進展にともない、昭和40年(1965)頃から急速に衰退し、生産がほぼ途絶する。工場生産品だったために伝統工芸として認められることもなく、ファッション史だけでなく、着物の歴史においてさえ、長らく忘れ去られた存在だった。しかし、2000年代に入ってようやくその魅力が再認識され、コレクションの紹介や研究が進みつつある(須坂クラシック美術館1996、三橋2002、別冊太陽2004、日本きもの文化美術館2010)。2015年には東京六本木の「泉屋博古館」で大規模な展覧会が行われた(須坂クラシック美術館2015)。

今後、銘仙を日本近代ファッション史、デザイン史に正しく位置づける研究が望まれる。本稿がその端緒になれば幸いに思う。

【文献】
今和次郎1925「東京銀座街風俗記録」(『婦人公論』1925年7月号)
石川光陽1987『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』朝日新聞社)
須坂クラシック美術館1996『岡信孝コレクション 華やかな美―大正の着物モード―』(須坂クラシック美術館)
三橋順子2002「艶やかなる銘仙」
(『KIMONO道』2号、祥伝社。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
別冊太陽2004『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着―』(平凡社)
日本きもの文化美術館2010『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』(日本きもの文化美術館)
三橋順子2010「銘仙とその時代」(『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』日本きもの文化美術館)
三橋順子2014「『着物趣味』の成立」(『現代風俗学研究』15号 現代風俗研究会 東京の会)
須坂クラシック美術館2015『きものモダニズムー須坂クラッシック美術館 銘仙コレクションー』(須坂クラシック美術館)

【インタビュー】「わたしの光になった表現」(聞き手:外山雄太) [論文・講演アーカイブ]

集英社の文芸誌『すばる』2016年8月号は「特集・LGBT-海の向こうから-」。
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虹色の表紙が目印。
インタビュー記事「わたしの光になった表現」(聞き手:外山雄太)は、牧村朝子・杉山文野・中村キヨ・マーガレット・田亀源五郎・橋口亮輔という豪華なメンバーが「人生の大切な局面をともにした三つの作品」を語る。

その他、海外のLGBT関係の評論・エッセイ8本を掲載。
東京の主要書店では、7月6日発売(税込950円)。

インタビューは、5月31日(火)。
明治大学(駿河台)での講義の後、17時少し前、神田神保町三丁目の「集英社」へ。

インタビュアーは外山雄太さん。
昨年3月、『朝日新聞』の原田朱美記者の紹介で知り合った方。
ご縁が形になってうれしい。

最初に撮影。
簡単な撮影かと思ったら、ちゃんとプロのカメラマンが待機していて、まず室内で、さらに、屋外に出て撮影。
着物、着てきてよかった。
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↑ 撮影:隼田大輔氏

その後、2時間半ほど、「わたしの光となった表現」というテーマであれこれしゃべる。
まず、1980年代までに青年期を過ごした私の世代は、そもそも世の中に性別越境についての情報が乏しく、それを見つける(実際には、偶然、出会う)ことがたいへんだったことを話す。
「性別違和」という自分の状況を説明する言葉も、「性同一性障害」という概念も日本には入っていなかった。
そんな状況の中で「自分を見つける」導きになった書籍として、
(1)存在への気づき、(2)「成りたい」自己イメージの形成、(3)自己肯定化の理論、という観点で3冊を挙げた。
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今回、豪華なメンバーの驥尾に付して出していただいたが、いろいろな意味で、トランスジェンダーとしての私の社会的な役割は終わったのかなと思う、今日この頃。
たくさんの方に「まだまだ」と言っていただけるのは励みにはなるけど、もう表舞台に出るのは心身ともに辛くなってきた。
あと何年生きられるかわからないが、残りの人生は研究生活、とりわけ、自分の著述のまとめに専念しようと思う。

『すばる』は創刊(1970年)から数年間、高校生の頃に購読していた思い出のある雑誌で、そこに出られたのは、そういう意味で良い記念になった。
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わたしの光となった表現

「あなたはどのような表現に影響を受け、また、支えられてきましたか?」
セクシュアリティー/世代/職業の異なる七名に、
人生の大切な局面をともにした三つの作品との出会いと、
その魅力についてうかがった。

探すものではなく、出会うもの
             三橋順子

「二〇〇〇年、初めて大学の教壇に立った最初の講義の日、忘れもしません。週刊誌が三誌も取材に来たんです。日本で最初の、トランスジェンダーの大学教員。いったいそれ何? というまったく興味本位な反応でした」
 三橋順子さんは、日本における性別越境、トランスジェンダーの社会・文化史研究家だ。歴史学的な手法で調査対象に取り組み、トランスジェンダーおよびセクシャルマイノリティーの歴史を探求してきた。
「自分が〝ふつう〟の男子と違うかも? と気づいたのは遅かったです。高校生のころ、おぼろげにそうかもしれない……と思ったくらいで、それ以前はとくになにも感じていませんでした。少なくとも、自分としては気づていないことになってました。のちのち専門の精神科医の先生にカウンセリングしてもらうと、どうも〝ふつう〟でない、記憶に蓋をしていたエピソードがたくさん出てきましたが。
 自分のなかに別の人格がいて、それが女性だったと気づいたのは二十一歳のころ。性同一性障害とか、性別違和とか、そういう概念がない時代です。すてきな女性に対して、『付き合いたい』よりも、『ああいうふうになりたい』という気持ちを抱きました。
 そんな自分が不可解で、図書館で精神分析学の本を読んだけど、答えは見つかりません。二十代後半が、自分がなぜこうなのか、よく分からず、つらかった時期でした。
 そんな田舎から東京に出てきた青年が、いちばん最初に共鳴したのが『別冊SMスナイパー』一九八〇年十一月号に掲載されていた館淳一さんの「ナイロンの罠」という小説。一九八三年に単行本が刊行されますが、雑誌掲載時に読んで、これだ……! と思いました。自分の姉と義兄の手によって女性化されていく男子予備校生のお話。 女装の道に引き摺りこまれる美少年に自分を重ねたんですね。この作品は、二十五歳だったわたしのセクシュアル・ファンタジーの形成に多大な影響を与えました。三十数年後、著者の館淳一さんにお会いしたときは、大感激でした。
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↑ 館 淳一『ナイロンの罠』(ミリオン出版 1983年)
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↑ 初出の『別冊SMスナイパー』1980年11月号。

 ほぼ時期を同じくして存在を知ったのが、土田ヒロミ撮影『青い花――東京ドール――』(世文社、一九八一年)でした。これは、一九七〇年代の東京のゲイボーイを主題にした写真集です。ゲイボーイというのは、当時は女装した男性のことを指しました。いまのゲイということばと、、八〇年代までのゲイとでは意味のズレがあるんです。
 トランスジェンダー的な人物をテーマに撮影した日本初の写真集の存在は、スポーツ新聞で見て知っていましたが、当時二八〇〇円もする本なんて手が出ませんでした。あるとき、たまたま立ち寄った神保町の古本屋さんでめぐり会ったんです。店の前側には真面目な古本が、奥にSMやポルノ雑誌が置かれているような、お堅い本でエロをカムフラージュした本屋さんでした。そこで、『青い花』をやっと手に入れました。当時は、今のように情報が流通していませんから、こういった本は、探してもなかなか見つかるものではありません。存在が隠されているから探しようがなく、偶然出会うものだったんです。
 写真集を見て、それまでぼんやりとしたイメージでしかなかった〝女装〟というものが、明確に可視化されました。「東京のどこかに、こうやって美しく着飾ったゲイボーイがいるんだ!」という強い実感。見えること、視覚的にイメージ化できることはそれだけ重要なんです。被写体になっていた〝お姉さん〟たちは、たぶん、赤坂、六本木あたりでお勤めの方々だったと思います。記載がないから、確かではないけれど。でも、自分と似たような感じの人がこれだけいるということを知って、なりたいわたしのイメージはより強固なものになっていきました」
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↑ 土田ヒロミ撮影『青い花ー東京ドールー』(世文社 1981年)

 しかし、そんなイメージを頼りに女装をし始めた八〇年代の終わりごろ、また別の問題が浮上したのだという。
「自己イメージは定まってきたけれど、それを言語化することがなかなかできませんでした。そんなときに出会ったのが、渡辺恒夫先生の『脱男性の時代――アンドロジナスを目指す文明学――』(勁草書房、一九八六年)でした。女装、性転換、アンドロジナス(両性具有)の世界を探求した評論集で、 女装者としての私の形成に際して、理論的な面で大きな影響を受けました。
 評論として高く評価された『脱男性の時代』以外にも、二冊ほど同じような内容の本を書かれていて、『精神科治療か服装革命か』なんて、いまにも通じる問いを投じられました。〝トランスジェンダー〟というワードを書名にした日本最初の本の著者は、渡辺先生なんです(『トランス・ジェンダーの文化―異世界へ越境する知―』勁草書房、一九八九年)。
 でも、その後はトランスジェンダーについては事実上、筆を折っちゃったんです。詳しい事情はよくわかりませんが、「おかしな研究をしている」というような社会的な圧力があったのではないでしょうか。いずれにせよ、日本にトランスジェンダリズムの原点をつくった重要な研究者であることは間違いありません」

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↑ 渡辺恒夫『脱男性の時代ーアンドロジナスを目指す文明学ー』(勁草書房 1986年)

 九〇年代に入り、一九七九年創業の女装メイクルーム&サロン「エリザベス会館」に所属、自己流の女装から、本格的な技術を学んで女装をするようになった。のちに新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」でホステスとして働きはじめる。現在につながる〝研究〟を本格的に始められたきっかけは、何だったんだろう。
「九六、七年くらいに、〝性同一性障害〟ということばが一気に広まりました。「性同一性障害のあとに、トランスジェンダーということばが入ってきた」と言う人もいるけど、それは事実誤認です。トランスジェンダーが先にあって、その概念こそが性別を越えて生きようというわたしたちの自己肯定の出発点になっていたんです。
 〝性同一性障害〟という概念の登場によって、新宿の女装世界はものすごく影響を受けました。分かりやすく言うと、いままでお店のドアを叩いていた女の子になりたい願望を持つ子たちが、みんな病院に行くようになってしまったんです。性別を越えて生きたいと思うのは障害であり、治療すべき病気だという考えが広まるにつれて、ずいぶんお客さんが減りました。
ある常連さんからは、「おまえたちが病気ってことは、俺は病気の人間と、病気をネタに酒を飲んでいるのか? そんなことする俺って人でなしじゃないか」と言われて。「そうじゃないのよ。楽しく飲めばいいじゃない」となだめても、一度落ちた気分は直りません。
 そんななか、ママや古いお客さんからお店の昔話を聞くのが好きだったわたしに、先輩ホステスがこんなふうに言いました。
「わたしたちが作ってきた女装世界は、近い将来になくなっちゃうかもしれない。こんな世界があったことを、記録して残すことが、歴史学を勉強した順ちゃんの役目よ」
 それ以来、研究者というよりは当事者として、調べて記録しなくてはならないという強い意識を持つようになりました。「ジュネ」という店の歴史、それを中核とした新宿の女装世界の成り立ちを遡って調べていきました。そんな調査をより社会史的な研究にしていこうと思い始めた時期に、中央大学の矢島正見先生(社会学)から声をかけられて、一九九九年に「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」を立ち上げ、歴史学と社会学の二つの手法で研究をしていくことになりました」
 二〇〇〇年代初頭から、「性別を越えて生きることは病ではない」と一貫して性別越境の病理化を批判しつづけ、性同一性障害という病理概念に絡めとられることを拒否してきた三橋さん。ようやく時代の流れが変わりつつあるようだ。
「来年か、再来年かに実施されるWHOの国際疾病分類(ICD)の改訂にともなって、性別越境が精神疾患でなくなる見通しなんです。性同一性障害という病名も国際的には消えることになります。同性愛の脱病理化に遅れること二十七、八年、自分が唱えてきたことが実現することへ期待と喜びはもちろんあります。
「研究ができる女装者がいたんだ!」と驚かれたり、「病気と認められて良かったですね」と善意の人に言われた時代もありました。当時とくらべれば、ずいぶんトランスジェンダーが生きやすい世の中になったと思います。でも、まだまだ調べて記録しなければならないことはたくさんあります」
 着物の襟を正しながら、まっすぐ前を見据える三橋さん。
「トランスジェンダー研究をきちんと引き継いでくれるひとが現われるまで、わたしもがんばりますよ」

【論文】「日本におけるレズビアンの隠蔽とその影響」 [論文・講演アーカイブ]

2016年3月末に刊行された「早稲田大学ジェンダー研究所」の創立15周年記念論集
小林 富久子・村田 晶子・弓削 尚子編
『ジェンダー研究/教育の深化のために― 早稲田からの発信』
早稲田からの発信.jpg
彩流社、2016年3月、474頁、定価4300円+税
ISBN-13: 978-4779121968

これからの「ジェンダー研究/教育」に向けて、文学、表象・メディア、歴史、法・社会などの専門領域の「ジェンダー研究の展開」と、教育実践をもとにした「ジェンダー教育のあり方」の二本立てで、計24編の論考を収録している。

私は、論文「日本におけるレズビアンの隠蔽とその影響」を執筆。
日本における女性同士の性愛の歴史をトピック的にたどり、その隠蔽の在り様を明らかにした上で、その現代における影響、具体的には「なぜ日本では女性から男性への性別移行者(Female to Male=FtM)が(国際比較で)突出的に多いのか?」を考えてみた。

論集では割愛した、図版を加えた。

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日本におけるレズビアンの隠蔽とその影響
              三橋順子(性社会・文化史研究者)

はじめに
 「日本にもレズビアンがいると知って驚きました。テレビなどに出てこないのでいないものだと思っていました」
 「今までレズビアンは性同一性障害の一種だと思っていましたが、今日の講義でレズビアンと性同一性障害は違うものだとわかりました」
 いずれも、私の「ジェンダー論」の受講生のコメント票の記述である。読んで私は愕然とした。レズビアンへの認識不足は実感していたが、まさかこれほどとは……。しかし、学生の無知と笑って済ますことはできない。前者は教員養成で長い実績がある公立大学、後者は日本有数の私立大学の学生だ。つまり、レズビアンへの同様の認識不足は若者たち、いや世間に広く存在することを示しているからだ。
 現代日本におけるレズビアン(Lesbian 女性同性愛)への認識と理解は、トランスジェンダー(Transgender性別越境者)の病理化概念である性同一性障害(Gender Identity Disorder=GID)や、同じ同性愛であるゲイ(Gay 男性同性愛)と比べて格段に低い。
 その原因としては、学生が「テレビなどに出てこないので」と言っているように、一般の人が目にするところにレズビアンが存在しない(ように見える)ことが大きい。もちろん、現実には日本社会にはたくさんのレズビアンが生活している。その数は男性同性愛者とそれほど大きくは変わらないだろうし、性同一性障害の人よりずっと(おそらく2桁)多いはずだ。概数的に言えば、100人に2~3人いてもおかしくない。なのに、なぜ、目に見えないのか? それは隠されているからにほかならない。
 日本におけるレズビアン差別については、杉浦郁子「レズビアンの欲望/主体/排除を不可視にする社会について―現代日本におけるレズビアン差別の特徴と現状―」(杉浦2010b)という優れた研究がある。男性ホモソーシャル体制を堅持するために、ホモフォビアを伴う異性愛主義を浸透させた、「女同士の絆」が未分化で曖昧なものとして構築されている現代日本社会の中で「男を望まない欲望」「男に望まれたくない欲望」を表出することは困難であり、それがレズビアンの不可視化、差別を招いているという杉浦の社会構造的な分析にほとんど異論はない。
 しかし、杉浦はレズビアンが隠蔽されてきた個々の事例についてはあまり触れていない。そこで本稿では、不十分ながらレズビアンが隠蔽されてきた歴史をトピック的にたどり、それが現代日本社会にどんな影響を与えているかを考えてみたい。

1 レズビアンの前史 ―先行概念がない―
 実態として、平安時代の後宮、江戸時代の将軍家大奥や大名家の奥向き、遊廓の妓楼など、女性が多く集まり暮らす場で、女性同士の性愛はあったと思われる。しかし、文献的に明確な例としては、『我身にたどる姫君』(鎌倉時代中期、1259~1278年頃)第6巻の主人公「前斎宮」(嵯峨院上皇の娘)が周囲の女性たちと次々に関係をもつ話があるくらいで数少ない。あるいは、江戸時代の性具の中に「互形(たがいがた)」と呼ばれた双頭の張形が残っていること(田中2004)や、同時期の春画の中に僅かながら女性同士の性愛を描いたものがあることなどからうかがえるに過ぎない。
 このように女性同士の性愛を示す資料は、男と女の関係はもちろん、男と男(正確には男と若衆)の関係に比べても圧倒的に少ない。そもそも、女性同士の性愛を示す概念、言葉がなかった。「互形」を用いた女性同士の擬似性交を「互先(たがいせん)」と言い(田中2004)、女性同士の性愛を示す「貝合せ」とか「合淫(ともぐい)」という言葉があった(白倉2002)。あるいは、「といちはいち(ト一ハ一?)」という語源不詳(「上」「下」の意か?)の言い方もあった。これらは、いずれも卑語、隠語の類であり、世間に広く通用した言葉ではなかった。
 これは江戸時代の「色」の概念が、男性から遊女に向かうものを「女色」、男性から若衆に向かうものを「男色」と言い、「色」の発信は常に男性が主体であるとされていたことによる(三橋2013)。つまり、女性が発信主体となることは想定されていないので、女と女の関係は概念として存在しないのだ。さらに、当時の著述・出版事業が圧倒的に男性支配下にあり、女性が自らの性愛を記録し刊行することが困難な事情もあった。
 ところで、同性の間の性愛、あるいは性的指向(sexual orientation)が同性に向いていることを意味するhomosexualityという概念は、明治時代の末、1910年頃にドイツの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの学説が日本に輸入され、「同性的情慾」「顚倒的同性間性慾」などの訳語で、精神疾患である「変態性慾」のひとつとして概念化された(古川1994)。日本において最初に「女性間の顚倒性慾」が「発見」されたのもこの時期だった(肥留間2003)。その後、訳語は「同性愛」に定着するが、同性愛という言葉が新聞・雑誌などで使用され、倒錯的な性愛として一般に広く知られるようになるのは、1920年代、大正末期から昭和初期のことである。
 同性愛概念が導入される以前(明治時代以前)の日本では、同性愛という概念は存在しない。男性同士の性愛は「男色」として概念化されていたが、それは成人した男性と元服前の少年、あるいは年長の少年と年少の少年との関係に限定されていて、成人男性同士の性愛を含む「男性同性愛」とはかなり異なる(三橋2015a、2015b)。とはいえ、それでも類似の先行概念があるだけ男性同性愛という概念を受容しやすかっただろう。
 これに対して、女性同士の性愛は、同性愛概念が導入される以前には概念化されていなかった。つまり、女性同性愛は類似の先行概念がなく、(前近代)「男色」→(近代)「男性同性愛」のような概念の継承、読み替えが成り立たず、大正~昭和初期にいきなり世の中に出てくることになる。
 このことが、日本近代における女性同性愛の受容に大きく影響しているように思う。大衆は、よくわからないものには警戒的になる。女性同性愛が男性同性愛よりもさらに社会的に警戒されたのは、基本的には男尊女卑の社会構造が大きいが、先行概念の欠落にも理由があったのではないだろうか。

2 「富美子・エリ子事件」―「同性心中」と女性同性愛の危険視―
 日本で女性同性愛が注目されたきっかけは、1911年(明治44)7月に新潟で起こった「令嬢風の二美人」の入水心中事件だった。東京の第二高等女学校(都立竹早高校の前身)の同級生だった二人は在学中から「非常の仲よし」だったが、卒業後は交際を控えるよう父親から注意されたのを悲観しての自殺だった。この事件に注目して日本最初の女性同性愛に関する論文、桑谷定逸「戦慄す可き女性間の顚倒性慾」が書かれる(桑谷1911)。日本における女性同性愛は最初から「戦慄すべき」ものだったのだ。
 これ以降、昭和戦前期の新聞で、女性同士の「同性心中」がしばしば新聞報道されるようになり、女性同性愛のイメージを「危険」なものにしていった。「同性心中」なのだから男性同士の心中(自殺)もあるはずだが、実際に報道されたもののほとんどは女性同士の心中だった。また、女性同士の自殺だからといって、その二人が同性愛関係だったとは限らないのだが、イメージとして同性心中と女性同性愛が結び付けられ、ことさらに危険視されたことは間違いない。「同性心中」への注目と問題視は戦後期まで継続し、「危険な女性同性愛」のイメージを再生産していくことになる(小峰・南1985)。
 ところで、日本で女学校が開設され、女学生が増えるとともに、女学生同士の親密な関係が社会的に浮上してくる。こうした一種の疑似恋愛関係は「エス」(Sisterの頭文字)と呼ばれ、1920年代には女学校文化として定着するようになった(赤枝2011)。それを危険視する見解がある一方で、親にしてみれば女学生の娘が男性と恋愛関係におちいるより、女学生同士の疑似恋愛に没頭している方が安全であり、「エス」の関係は卒業とともに終え、男性と結婚し良妻賢母になってくれればそれでいいという容認的な考えもあったようだ。
 もちろん、親の思惑通りに行かない場合もあり、先の新潟の入水心中事件はその典型である。「エス」と女性同性愛の間に明確な線引きができるわけではないにもかかわらず、女学生同士の親密な関係である「エス」は許容され、女性同性愛は危険視されるというダブルスタンダードが生じていく。
 一方、1933年(昭和8)に清朝皇室の粛親王善耆の第十四王女である川島芳子(愛新覺羅顯玗)をモデルにした小説、村松梢風『男装の麗人』が出版されたことをきっかけに「男装の麗人」ブームが起こる。その中心は、川島芳子と松竹歌劇団の男役スター「ターキー」こと水の江瀧子だった。当時の新聞は、川島とターキーの動静をしばしば伝えている。
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(左)水の江瀧子(右)川島芳子

 そんな時代を背景に、1935年(昭和10)1月末、「富美子・エリ子事件」が起こる。増田富美子は大阪の銀行頭取の令嬢ながら増田夷希(やすまれ)と名乗る「男装の麗人」で当時28歳、その恋人西條エリ子は「松竹少女歌劇」の女役トップスターだった人気映画女優で当時23歳。その二人の「女性同士の愛の逃避行」が新聞で大きく報道された。二人は「愛の逃避行」の末に1月28日夜、東京麹町区平河町の「万平ホテル」に同宿する。その夜、富美子はエリ子への遺書を残して睡眠薬自殺をはかり昏睡状態になってしまう。
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↑ 増田夷希(やすまれ)と名乗った増田登美子(『読売新聞』1935年1月30日)

 まるで犯罪者のように富美子たちの動向を追跡していた『読売新聞』は「『男装の麗人』富美子さん 萬平ホテルで服毒す 西條エリ子と共に投宿 遂に『死』への逃避行」という大見出しのもとに、男姿の富美子の写真と「本当いへば一緒に死んでほしかった」と記された遺書を掲載するなど、連日のようにセンセーショナルに伝えた。
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↑ 『読売新聞』1935年1月29日

 結局、富美子は一命をとりとめ、エリ子との関係を解消して大阪に帰り一件落着となった。この事件は「同性心中」としては不完全なものだったが、登場人物が著名人だっただけに大きな評判になり、「危険な女性同性愛」を世間にいっそう印象づける「事件」になってしまった。
 「富美子・エリ子事件」が印象付けた女性同性愛の危険性とはなんだろう。それは第一に、本来、男性の性愛の対象になるべき女性が(富美子のように)「男を望まない欲望」「男に望まれたくない欲望」を抱くことで、男性の性愛対象から離脱してしまうことである。第二に「男を望まない欲望」が「女を望む欲望」に転化することで、男性の性愛の対象になるべき女性が(エリ子のように)女性同性愛者に奪われてしまうことである。そして、第三はそれらによって男性を主体として築かれた異性愛秩序が崩されかねない危険性を男性たちが感じるからである。
 男性たちの女性同性愛への危険視には、本来自分たちのものであるべき女性が奪われることへの怒りが裏打ちされていると思う。

3 「佐良直美事件」―芸能界におけるレズビアン追放―
 敗戦(1945年8月)直後の日本は、旧来の社会体制と倫理観の崩壊で、百花繚乱的に多様なセクシュアリティが展開していく。中でも男性同性愛(ゲイ)の顕在化は目覚しく、1950年代後半にはシスターボーイやゲイバーが話題になり、「第1次ゲイブーム」というべき現象が起こる。しかし、そうした社会状況の中でも、レズビアンの顕在化は進まなかった。
 この時期の性風俗雑誌には、レズビアンについての記事が散見されるが、男性の興味本位の視点からのものがほとんどで、当事者性のある「語り」はきわめて少ない。そして、「男を望まない」「男に望まれたくない」はずのレズビアンに対して、男性の性的欲望の視線が向けられるようになる。こうして1950年代から60年代にかけて「危険な女性同性愛」は「ポルノグラフィーとしてのレズビアン」へと変化していく。
 なぜ、男性の性的欲望を拒絶しているレズビアンに男性の性的視線が向けられるのだろうか。それはレズビアンが「性的快楽を貪欲に追求する」「性的に奔放な」女性としてイメージされたからである(杉浦2010b)。先に述べたように江戸時代において性的欲望の発信は男性に限定されてきた。近代以降の性慾学でも、性的欲望を抱き、性的快楽を追求する女性は「色情狂」であり、変態性慾のカテゴリーだった。同性愛の女性は、単に性愛対象が同性に向いているだけでなく、性的欲望を発信することにおいても変態とされたのだった。
 こうした誤った認識がベースになり、性的に奔放な女性なら、男性の性的欲望にも応じるだろう、「レズビアンなんて俺(のペニス)が直してやる」というようなまったくお門違いの妄想がはびこることになる。そこまで愚かでなくても「レズビアン・ポルノビデオは、女性が2人出てくるので2倍おいしい」と言う男性は数多く実在した。
 そうした性的奔放というイメージを付与されたレズビアンをめぐって、芸能界の大スキャンダルが勃発する。1980年(昭和55)5月19日、テレビ朝日のワイドショー番組『アフタヌーンショー』が「キャッシー涙の告白!! 佐良直美との愛の破局」と題して、女性歌手佐良直美と女性タレント、キャッシーのレズビアン関係を暴露した「佐良直美事件」である。
 佐良直美は、1967年、デビュー曲「世界は二人のために」が120万枚の大ヒットとなり第9回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、1969年には「いいじゃないの幸せならば」で第11回日本レコード大賞を受賞した。ショートヘアでスカートよりもパンタロンなどのスラックス姿を好み、若い女性にしては低音のハスキーボイスというマニッシュなイメージで、テレビのホームドラマ「ありがとう」(TBS、1970~74年)に出演するなど、歌手だけでなく女優や司会者など多方面で活躍する、押しも押されもせぬ一流歌手で、事件当時35歳だった。
それに対して、キャッシーは大阪弁でまくしたてるハーフのタレントとして注目され、テレビドラマにチョイ役で出演していた。佐良より6歳年下で事件当時は29歳だった。
 佐良は、1972年、1974年~1977年と紅白歌合戦の紅組司会を5回も担当しているように、NHK好みの「お茶の間」好感度が高い、スキャンダルとは縁遠い人物と思われていた。それだけにキャッシーの告発は衝撃的だった。
 キャッシーの告白は、2人の馴れ初めから佐良家の「嫁」としての同居生活、「姑」(佐良の母)との関係の拗れが原因となった破局まで、3年間の愛情生活を詳細に語った上に、10数通の佐良からの手紙を証拠として添えたものだった(『週刊現代』1980年6月5日号)。
 これに対して佐良は同性愛関係を全面否定し、手紙も偽造と決めつけた。両者それぞれ弁護士を立てての泥沼的な訴訟合戦になるかと思われたが、一転して5月末に和解となった。佐良本人は現在に至るまでレズビアン関係を完全に否定しているが、真相は「藪の中」である。
 性的スキャンダル、しかもレズビアン・スキャンダルの影響は、両者の芸能界のポジションに格段の差があった分、佐良の方がずっと大きかった。それまでの優等生的なタレントイメージは大きく損なわれてしまった。その年の暮、佐良はデビュー以来13回連続出場を続けていたNHK紅白歌合戦に落選してしまう。確かにヒット曲には恵まれていなかったが、それまでの功績を考えれば唐突な感は否めず、やはりスキャンダルが理由と受け取る人が多かった。それ以降、佐良は徐々に芸能活動から遠ざかりテレビから消えて行った。
 後年になって、佐良は芸能界から引退した理由を(レズビアン・スキャンダルではなく)恩師水島早苗の死(1978年)や声帯ポリープの手術(1987年)であると語っている(『東京スポーツ』2010年11月7日号「佐良直美が30年前のレズ騒動を語る」http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/2238/)。おそらく事実はそうなのだろう。
 しかし、同時代の多くの人は、私も含めそうは受け取らなかった。佐良直美ほどの一流歌手であってもレズビアンであることが世間に知られたら、芸能界から追放されてしまうのだ、と思った。
 レズビアンの社会的隠蔽という現象を考える時、事実関係よりも、そうしたイメージが視聴者やテレビ業界に広まってしまったことの方が重要である。「佐良直美事件」によって、日本の芸能界においてレズビアンは絶対的なタブー(禁忌)と認識され、その後のテレビ業界のレズビアン忌避・隠蔽姿勢が決定づけられてしまった。
 なお、1970~80年代は、日本でレズビアン・コミュニティが形成されていく時代である。その主体的な歴史については、杉浦郁子の一連の研究を参照されたい(杉浦2006、2008、2010a)。

4 『ラスト・フレンズ』問題 ―なぜレズビアンではいけないのか―
 『ラスト・フレンズ』は、2008年(平成20)4月10日から6月19日まで全11回、毎週木曜22時台にフジテレビ系列で放送されたテレビドラマである。
 あらすじは、児童虐待(ネグレクト、性的虐待)のトラウマに由来する自我の未確立が影響して家や職場でも居場所が得られず、区役所の児童福祉課で働く恋人宗佑(錦戸亮)からドメスティック・ヴァイオレンス(DV)を受けている藍田美知留(長澤まさみ)、モトクロス選手として全日本選手権優勝を目指す一方、自分の性別に悩みを抱える岸本瑠可(上野樹里)、女性たちの良き相談相手でありながら、過去のトラウマからセックス恐怖症に悩む水島タケル(瑛太)、恋多き女性である滝川えり(水川あさみ)の4人が、シェアハウスで共同生活を始めることで人と人との関わりの大切さを知り、前向きに生きようとする、というものだった。
 DV、性同一性障害、セックス恐怖症など当時の社会の若者たちの間で社会問題化しつつあったテーマを取り入れ、主要キャストに旬な若手俳優を起用したこともあって若者たちの間で話題を呼び、高視聴率を記録した(最終回22.8%)。私が大学の講義で当時15~19歳だった受講生を対象に調査したところでは、その世代に限定すれば、視聴率は50%に迫っていたと思われる。また「第57回(2008年春クール)ドラマアカデミー賞」(テレビ雑誌『ザテレビジョン』主催)において、作品賞・助演男優賞(錦戸亮)・助演女優賞(上野樹里)など6冠を達成し、テレビ業界では高く評価された。その一方で、DV男性の美化、レズビアン(女性同性愛)とGIDの混乱などをめぐって、放送時から批判も多かった。
 世間的にはハードなDVシーンが注目を集めたが、ここで問題にしたいのは、岸本瑠可の描かれ方である。瑠可は中学校時代の同級生であった美知留にずっと思いを寄せている。第1回のラスト、美知留が初めてシェアハウスに泊まった翌朝、ソファーで眠っている美知留の唇に瑠可がそっと唇を寄せるシーンは、瑠可がレズビアンである可能性を想起させるものだった。しかし、ドラマの中では、「レズビアン」という言葉は一度も使われない。さらに瑠可の性的指向は「男性を好きになれない」という形で表現され、より積極的な「女性が好き」という表現は意識して避けられている。このドラマでは女性が好きな女性を描きながら、レズビアン的なものが隠蔽されているのは明らかだろう。なぜ瑠可はレズビアンではいけないのだろうか。そこに「佐良直美事件」以来のテレビ業界のレズビアン忌避が影を落としているように思われる。
 レズビアンが隠蔽される一方で、瑠可がインターネットで病院のサイトを密かに見ているシーンが伏線として描かれ、少し時を置いて瑠可が性同一性障害の診断を求めてメンタルクリニックを受診するシーンが出てくる。その場面にかぶせられた瑠可のモノローグは典型的な性同一性障害の語りであり、ここに至って、瑠可がFtM(Female to Male)の性同一性障害である可能性が視聴者に強く示唆される。
 しかし、瑠可の場合、ジェンダー・アイデンティティ(性自認・性同一性)と深く結びついている自称(第一人称)は、ほぼ一貫して「私(わたし)」であり、時に「あたし」と聞こえる箇所もある。FtMは、女性性と関連づけられる「私」を自称として使うことを避ける傾向があり、まして女性性が明確な「あたし」と称することはまずない。FtMの自称としては「自分」「僕」「俺」が用いられることが多いが、瑠可はそうではない。
 また、映像表現では、瑠可が女性的なジェンダー表現を好まないこと、男性を愛せないことは強調されているが、FtMに特徴的な女性としての身体に対する違和感は、メンタルクリニックのシーンで語りとして表現されるだけで、映像ではあまり表現されていない。
 『ラスト・フレンズ』の脚本家、浅野妙子は、脚本をFtMの当事者にみせたところ、「これってレズビアンじゃん(笑)。レズビアンだと何でいけないの?」と即答されたことを語っている(Yuki Keiser2008)。まさにその通りで、FtMの性同一性障害者をよく知る者からしたら、瑠可がFtMであることはかなり疑問で、ボーイッシュなレズビアンにしか見えない。
 ボーイッシュなレズビアンを思わせる瑠可に対して、性同一性障害のレッテルを無理やり貼り付けているのではないか、という疑問に答える場面がやってくる。それは瑠可の父親に対するカミングアウト・シーンだ。瑠可は「私は男の人を好きにならない。なれないんだ」と父親に告白する。ここで問題にされているのは性的指向であり、これは典型的なレズビアンのカミングアウトである。FtMのカミングアウトなら「自分(の心)は男なんだ。女じゃないんだ」というように性自認が問題にされるはずだからだ。
 ところが、瑠可のレズビアン的なカミングアウトに対する父親の述懐シーンでは、男の子に混じって活発に遊んでいた瑠可の子供時代が語られる。これは、FtMの子供時代の典型的な語りである。
 ここに至って、重大なことに気づく。脚本家が性的指向の問題であるレズビアンと性自認の問題である性同一性障害(FtM)とを混同している、あるいは意図的に混乱させていることに。
 実際、脚本家の浅野妙子は、「性同一性障害という設定が最初に決まっていた」こと、その上で「FtMとレズビアンの間」の「グレーゾーン」として瑠可を設定したこと、「どっちともはっきりは言えないけれど」「性同一性障害のほうがレズビアンよりそういった面(「悩み」を連想するという点)で共感を得やすい」と思い、「まずは性同一性障害にしておこう」と考えたことを語っている(Yuki Keiser2008)。レズビアンが悩まないとでも思っているのだろうか。性的マイノリティに対する歪んだ思い込みに基づく安易なドラマ設定があったことがわかる。
 「FtMとレズビアンの間」の「グレーゾーン」を描こうとした脚本家の意図が視聴者に伝わったとは思えない。むしろ、瑠可のような、女の子が好きな男っぽい女性は、性同一性障害(FtM)という病気で、メンタルクリニックに通院する必要がある、という誤った情報が視聴者に与えられた可能性が高いと思う。
 そうであるならば、このドラマはレズビアンを隠蔽しただけでなく、FtMの性同一性障害のイメージをも歪めて流布し、現実世界に誤った印象・知識を与えたミスリードの事例ということになる。
 実際、『ラスト・フレンズ』の放送があった2008年以降、全国のジェンダー・クリニックで10代~20代の若い女性の受診者が急増したことが報告されている。それについては第7節で詳しく述べるが、そこに「ラスフレを見て、自分もそうだと確信しました」というようなミスリードが作用している可能性は十分に考えられる。

5 1990年代以降のレズビアンをめぐる動向
 1990年代になると欧米のゲイ・レボリューションの波がようやく日本にも到達する。そうした中で1992年に出版された掛札悠子『「レズビアン」である、ということ』(掛札1992)は、長らく沈黙を強いられてきたレズビアンが初めて堂々と自らの生き方を語ったものとして画期的なものだった。
 しかし、それによってレズビアンを取り巻く状況が大きく改善されたかといえば、必ずしもそうとは言えない。掛札に続いてカミングアウトした人は少なく(笹野1995、池田1999)、掛札自身が筆を折ってしまったこともあり、レズビアン・ムーブメントは90年代末に始まる「性同一性障害」の大流行の波に埋もれてしまう(杉浦2010b)。
 1990年代末から2000年代前半にマス・メディアによって流布された「性同一性障害」についての情報量は、同性愛のそれと比較できないほど多かった。同性愛の中でも、ゲイはすでに独自のコミュニティを確立し、専門の商業雑誌をもっていたが、コミュニティの規模が小さく商業雑誌がなかなか続かないレズビアンの情報量はさらに少なかった。インターネット時代になって若干改善されたものの、まだ十分と言うには程遠い。
 一方、レズビアンの学術的研究としては、性意識調査グループ編の『310人の性意識―異性愛者ではない女たちのアンケート調査』(性意識調査1998)や、中央大学の矢島正見研究室がまとめた『女性同性愛者のライフヒストリー』(矢島1999)がひとつの方向性を示している。それは、ともかくレズビアンの話を聞き記録することで、その存在を顕在化することである。隠蔽されてきた日本のレズビアンを学問的な舞台に載せたという意味で、両書の意味は大きかったと思う。
 しかし、同性愛の学術研究全体でみると、杉浦郁子や堀江有里の仕事はあるものの、まだまだ男性主導でアンバランスであることは否めない。たとえば、2010年に岩波書店から出版された風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』は、同性愛の当事者が同性愛を書名に掲げて専論した初めての新書として注目されたが、共著者が当事者でないことを理由にレズビアンについてはほとんど触れていない。当事者主義にこだわるのなら、レズビアンの執筆者を招いて章を設けるべきだし、それができないのならば、書名は『男性同性愛と異性愛』にすべきだろう。書名に「同性愛」と銘打ちながらレズビアンについてほとんど記述をしないのは、単にアンバランスなだけでなく、レズビアンの疎外であり、結果的にレズビアンの隠蔽に加担していると言えなくもない。『同性愛と異性愛』という書名にひかれて手に取ったレズビアンが目次を通覧した時の疎外感と落胆を著者や編集者は想像しただろうか。
 同性愛者の歴史的な歩みや現在直面している問題が、いつの間にか男性同性愛者(ゲイ)のそれにすり替えられてしまう現象は、この本だけではないように思う。
 2005年、大阪府議会議員だった尾辻かな子がレズビアンであることをカミングアウトした(尾辻)。尾辻は2007年の参議院選挙(比例区)に民主党公認として立候補したものの当選ラインに遠く及ばず落選したが、2013年5月、繰り上げ当選によって参議院議員(民主党)となった。任期が僅か一カ月余だったこともあり、残念ながら十分な実績は残せなかったが、尾辻が日本初の性的マイノリティであることを公言した国会議員であることはまぎれもない事実である。
 しかし、東京都豊島区議会議員で男性同性愛者(ゲイ)であることを公表している石川大我が2014年の衆議院総選挙で社会民主党の東京比例区名簿1位に登載されると、複数のネット・メディアが「日本初の同性愛者の国会議員を目指す」と報じ、尾辻の存在は「なかったこと」にされた。無知と言えばそれまでだが、石川事務所も「日本初のオープンリーゲイの国会議員」を目指すことをプロフィールに記していて、「日本初のオープンリー同性愛者国会議員」である尾辻への配慮に欠けていたことは否めない。
 2000年代後半になると、レズビアン関係の出版も徐々に増えていく(堀江2006、飯野2008、牧村2013)。2013年には世界的な同性婚承認の流れの中で、レズビアン・カップルの東京ディズニーランドでの挙式が話題になった(東小雪+増原裕子2014)。
 しかし、レズビアンの存在が日本社会の中で十分に認知され、レズビアンに関する情報が十分に流通し、レズビアンを取り巻く様々な困難な状況について地に足が着いた議論がなされる状況には、残念ながら至っていない。

6 レズビアン・ロールモデルの不在
 レズビアンをめぐる現状を考えたとき、情報量の不足もだが、最大の問題はレズビアンのロールモデルの不在だと思う。その原因は、テレビをはじめとするマス・メディアがレズビアンの存在を徹底的に隠蔽してきたことにある。
 2010年代になってさえ、日本のマス・メディアは「レズビアン疑惑」という言い方をしてはばからない。「疑惑」という言葉は「覚醒剤使用疑惑」など社会的に問題のある行為を疑う言葉だ。いったいなぜレズビアンであることが問題行為なのだろう。そうした「疑惑」をかけられた女優、女性歌手あるいは女性タレントは、必死に「疑惑」を否定しようとする。本人が沈黙していても事務所が否定に動く。なぜなら、現在の日本のテレビ業界では「レズビアン」であることは仕事を失うことにつながりかねず、デメリットが大きいからだ。その点で、レズビアンをカミングアウトした女優や女性アーティストが活躍する欧米と著しい違いがある。佐良直美事件の呪縛は30年以上たってもまだ解けていないのだ。
 なぜ、これほどまでにテレビ・メディアはレズビアンの存在を忌避するのだろうか。その理由を端的に指摘すれば、すべての女性は男性の性的視線を受け止める存在でなければならないという、男性中心のヘテロセクシュアル原理がいまだに貫徹しているのがテレビ業界だということだ。そうした姿勢の背景にはスポンサーとしてテレビ番組を支えている日本の企業社会の男性中心のヘテロセクシャリズムがある。
 このように、マス・メディアの隠蔽姿勢がレズビアンのvisibility(目に見えること)を著しく低下させ、魅力的なレズビアン・ロールモデルの出現を阻んでいる。そして、レズビアン・ロールモデルの不在が、レズビアンの自己肯定をいっそう困難にしている。
 ところで、レストランでメニューにない料理を注文できる人はごく少ない。ほとんどの人はメニューの中から料理を選ぶ。それと同じで、人は目の前に並んでいる概念にしかアイデンティファイ(カテゴリーへの同一化)できない。私はこれを「メニュー理論」と言っている。
 たとえば、20代の私の前に置かれていたメニューには、トランスジェンダーも性同一性障害も無く、ゲイボーイという概念しかなかった。「これは違う」と思ったから、それをつかまなかった。アマチュアの女装者という概念があることを知ったのは30代の初めで、やっとその言葉をつかむことができたが、トランスジェンダーという言葉を知って最終的にアイデンティファイできたのは40歳を過ぎてからだった。
 レズビアンを抑圧し、存在を隠蔽してきた結果、レズビアンのロールモデルが提示されず、逆に性同一性障害(FtM)の情報が多く流布されている現状は、メニューに「今月のおすすめ」として「性同一性障害(FtM)」と大書されているのに対し、「レズビアン」は見えるか見えないかの小さい文字でしか書かれていない状態にたとえられる。自分の性的指向(Sexual Orientation)が典型的でないことに気づいた女性がメニューを見たとき、本来ならつかむべきレズビアンではなく、性同一性障害(FtM)をつかんでしまうのも無理からぬ状況がそこにある。

7 なぜ日本はFtM(Female to Male)が多いのか?
 性同一性障害の性別比、つまりMtFとFtMの比率は、世界標準的には、2対1くらいでMtFが多いとされている。日本では1990年代末から2000年代中頃までは、MtFがやや多い状態からMtFとFtMの比率が拮抗する状況へと緩やかに推移していた。ところが、2008年以降、全国の複数の病院、クリニックで、若年(10代後半~20代前半)FtMの受診者が急増し、世界標準とは逆に、ほぼ1対2の比率でFtMの受診者が多くなった(2009年2月の第11回GID学会での報告。「関西医大病院ジェンダー・クリニック」MtF134、FtM270=33対67、「札幌医大GIDクリニック」MtF94、FtM220=30対70、「はりまメンタルクリニック」MtF229、FtM409=36対64)。
 かつて私は、この現象をテレビドラマ『ラスト・フレンズ』の影響で、本来は、男性っぽいレズビアンの範疇でおさまるはずの(瑠可のような)女性が、性同一性障害(FtM)と自己認識して、ジェンダー・クリニックを受診している結果ではないかと考えていた。しかし、その後もFtMの増加傾向は止まらず、現在では1対3からさらに1対4に近づく状態になっている。
 FtMの増加傾向は、受診者レベルではなく、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」による戸籍の性別変更においても著しい。全国の家庭裁判所に提出される戸籍変更の診断書の約15%を書いている(2012~2014年平均)針間克己医師(はりまメンタルクリニック)によれば、2012年から2015年の戸籍変更診断書の累計はMtF119、FtM464≒1対4だった(「Anno job Log」2015年12月27日 http://d.hatena.ne.jp/annojo/20151227)。日本は世界で最も、そして格段にFtMの比率が高い国になっている。
 こうなると、テレビドラマの影響だけとは言えず、それをきっかけとした、もっと大きな構造的な原因があると考えなければならない。生得的な体質、遺伝子的に日本人の女性がFtMになりやすいということはなさそうなので、その原因は社会的なものと考えられる。
 そこで考えなければならないのは、世界標準より多い分のFtMがどこから来ているのか?ということだ。その際、ヘテロセクシュアルの女性がFtM化するということは考えにくい。女性に課せられた社会的制約から脱するために男装する女性は過去にはいたが、現代の日本は一般論的に言って女性が男体化しなければ社会活動が難しい状況にはない。また性的指向が男性に向かっているヘテロセクシュアルの女性がFtM化した場合、セクシュアリティ的なメリットはほとんどない。ゲイ男性はヘテロ男性よりずっと少ないからだ。
 それに対して、レズビアンがFtM化しているという想定の方がずっと考えやすい。レズビアンがFtM化すれば、性愛対象のヘテロ女性はレズビアン女性よりずっと多いから、ターゲットはぐっと広がる。なにより戸籍の性別を男性に変更すれば、法的に女性と結婚できる。同性婚が法的に許可される見通しが立たない日本では、生得的な女性が女性と法的に婚姻するには、一方の女性がFtMの性同一性障害者として「GID特例法」によって、戸籍の性別を変更するのが唯一の方法だからだ。
 このように考えると、日本におけるFtMの増加分はレズビアンからの流入を想定するのが、いちばん蓋然性が高いと思う。その原因として、前節で述べたような、自分の性的指向が典型的でないことに気づいた女性が本来ならアイデンティファイすべきレズビアンではなく、性同一性障害(FtM)として自己認識してしまう状況が存在し、さらに「GID特例法」による一種の「誘導」が作用していると考えられる。
 次に考慮すべきは、レズビアンとFtMの比率である。本来、レズビアンは100人に数人いると考えるのが一般的だ。それに対して日本のFtMは10000人に数人と考えられる。つまり両者の人数は本来100倍ほども違う。ということは、レズビアンの1%がFtMに流入すればFtMは本来の数の倍になるし、2%流入すれば3倍に、9%が流入すれば10倍になる。このようにレズビアンからの流入モデルを考えることで、日本で世界標準よりFtMが著しく多い理由を容易に説明することができる。
 ところで、レズビアンからFtMへという流入現象がかなりあると想定した場合、ゲイからMtFへの流入はそれに比してなぜ少ないのかという疑問が生じる。この点については次のように説明できると思う。
 日本において、ゲイ・コミュニティとMtFのコミュニティは、性同一性障害概念が流布する1990年代後半以前に、すでにかなり明確に分離していた。その分離の時期は1970~1980年代と考えられる(三橋2008)。だから、性同一性障害概念はMtFだけに影響を与え、ゲイにはほとんど影響が及ばなかった(まったく流入がないわけではないが)。それに対して、レズビアン・コミュニティとFtMのコミュニティは分離が進まず混在した状態だったところに、性同一性障害概念が流布した。その結果、本来、性同一性障害概念の影響を受ける必要のないレズビアンにまでその影響が及んでしまい、混乱と流入が起こってしまったと考えられる。そして、レズビアン・コミュニティとFtMのコミュニティの未分離の原因にはレズビアンの隠蔽による情報不足がある。
 非典型な性をもつ人たちがどのようにカテゴライズされ、自らをアイデンティファイしていくかは、今まで言われてきたほど固定的ではなく、与えられる情報によってかなり流動的であると私は考える。それゆえに、適切なアイデンティファイをするためには隠蔽や歪曲がない正しい情報提供、つまり、自分にふさわしい料理を選べる「メニュー」が必要なのである。

おわりに
 ある年度、「ジェンダー論」の講義の単位レポートに、レズビアンであることの辛い思いを切々と記してきた学生がいた。好きな相手からもレズビアンの存在そのものを否定され、周囲の偏見の中で自己否定感にさいなまれる。なぜ、女性として女性が好きなだけでこんなに苦しまなければならないのか、単位レポートだから冷静に読んで評価しなければいけないのだが、「今まで書いてきたことはすべて事実です。でも、誰にも話したことはありません。やっとレポートという形ですが書くことができて、私は幸せです、ありがとうございました」という結びの文章を読んで、涙が流れるのを抑えることができなかった。
 一方では、女性を愛するためには自分が男にならなければならないと思い込み、短命化の可能性が高い男性ホルモンを過剰に摂取し、身体にメスを入れて乳房、子宮・卵巣を摘出し、高額な費用をかけて(トラブルが多く機能的にも不十分な)擬似男性器を形成する人たちがいる。無惨な傷跡が残る症例写真を見るたびに、レズビアンの範疇に収まるのなら、その方がずっと身体リスクは少ないのに、なぜこんなことまでしなければならないのかと考えてしまう。
 女性として女性を愛する女性たちが、適切な自己認識を形成するためには、レズビアンが隠蔽されることなく、レズビアンに関する情報が十分に流通し、女性として女性を愛する多様なロールモデルが社会の中で存在することが必要だと思う。さらに言えば、女性を愛する女性がレズビアンでなくFtMを選択する背景には、日本社会における女性の根本的な生きにくさが存在する。性的マイノリティだけの問題では済まないことを、性的マジョリティの人たちにも知って欲しいと思う。

文献
赤枝香奈子2011『近代日本における女同士の親密な関係』(角川学芸出版)
飯野由里子2008『レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー』(生活書院)
池田久美子1999『先生のレズビアン宣言―つながるためのカムアウト』(かもがわ出版)
尾辻かな子2005『カミングアウト〜自分らしさを見つける旅』(講談社)
掛札悠子1992『「レズビアン」である、ということ』(河出書房新社)
風間孝・河口和也2010『同性愛と異性愛』(岩波新書)
桑谷定逸1911「戦慄す可き女性間の顚倒性慾」(『新公論』明治44年9月号)
小峰茂之・南孝夫1985『同性愛と同性心中の研究』(小峰研究所)
笹野みちる1995『Coming OUT!』(幻冬舎)
白倉敬彦2002『江戸の春画―それはポルノだったのか―』(洋泉社新書)
菅 聡子2006「女性同士の絆―近代日本の女性同性愛―」(『国文』106号)
杉浦郁子2006「1970、80年代の一般雑誌における『レズビアン』表象――レズビアンフェミニスト言説の登場まで」(矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部)
杉浦郁子2008「日本におけるレズビアン・フェミニズムの活動 -1970年代後半の黎明期における」 (『ジェンダー研究』11号)
杉浦郁子2010a「『レズビアン』の概念史――戦後、大衆娯楽雑誌における」(中村桃子編『ジェンダーで学ぶ言語学』世界思想社)
杉浦郁子2010b「レズビアンの欲望/主体/排除を不可視化する社会について―現代日本におけるレズビアン差別の特徴と現状―」(シリーズ「現代の差別と排除」第6巻『セクシュアリティ』明石書店)
性意識調査グループ編1998『310人の性意識―異性愛者ではない女たちのアンケート調査』(七つ森書館)
田中優子2004『張形と江戸をんな』(洋泉社新書)
東 小雪+増原裕子2014『レズビアン的結婚生活』(イースト・プレス)
肥留間由紀子2003「近代日本における女性同性愛の『発見』」(『解放社会学研究』17号)
古川 誠1994「セクシュアリティの変容:近代日本の同性愛をめぐる3つのコード」(『日米女性ジャーナル』17号)
堀江有里2006『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う』(新教出版社)
堀江有里2015『レズビアン・アイデンティティーズ』(洛北出版)
牧村朝子2013『百合のリアル』(星海社新書)
三橋順子2008『女装と日本人』(講談社現代新書)
三橋順子2013「性と愛のはざま-近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う-」(『講座 日本の思想 第5巻 身と心』岩波書店)
三橋順子2015a「『台記』に見る藤原頼長のセクシュアリティの再検討」(倉本一宏編『日記・古記録の世界』思文閣出版)
三橋順子2015b「歴史の中の多様な『性』」(『アステイオン』83号 CCCメディアハウス)
矢島正見編著1999『女性同性愛者のライフヒストリー』(学文社)
Yuki Keiser2008「『ラスト・フレンズ』の脚本家・浅野妙子さんのインタビュー」
http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/06/last_friends_3.html

【付記1】入稿後、杉浦郁子「『女性同性愛』言説をめぐる歴史的研究の展開と課題 」(『和光大学現代人間学部紀要』8号 2015年)に接した。本稿と関わるところ大であるが、内容に反映することができなかった。

【付記2】最終的な入稿(2015年2月)の直後、東京都渋谷区の「同性パートナー証明書」発行の条例化(2015年3月31日可決、11月5日実施)問題が浮上し、それをきっかけに「LGBTブーム」が一気に盛り上がり、マス・メディアにおけるレズビアンを含む同性愛関係報道が激増した。その結果、レズビアンのvisibilityは向上したように思われる。しかし、「LGBTブーム」の中で注目されているのは、裕福で、容姿に優れ、社会的地位のある「シャイニー(shiny)」な特定のレズビアンであり、一般のレズビアンが抱えるさまざまな生活の困難を改善していく視点は、まったく不十分である。これはブームの発端が政治的思惑(統一地方選挙)や経済的期待(LGBT消費需要)であり、必ずしも人権的観点でなかったためと思われる。今後、LGBTの人権擁護の論議が深まる中で、本当の意味でのレズビアンの社会的顕在化と生活改善がなされることを期待したい。



【エッセー】「日本人は女装好き?」(講談社『本』2008年10月号) [論文・講演アーカイブ]

2008年9月に『女装と日本人』を講談社現代新書の1冊として刊行した際に、講談社の広報誌『本』2008年10月号に執筆したエッセーです。
『女装と日本人』で割愛した深川芸者と女装バレエ団を事例に、日本人の性別越境(女装・男装)への嗜好ついて書きました。

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日本人は女装好き?
             三橋 順子

夏の終わりの夕べ、柳橋の舟宿から屋形舟をしたて、大川を下って、夜景が美しいお台場沖に泊まり、江戸前の天麩羅を食べながら、去り行く夏を送ってきました。

江戸時代の半ば過ぎた頃、大川の舟遊びといえば、芸者が付きものでした。川面を渡る三味線の音や、常磐津などの唄声は、さぞ風情があったことでしょう。私たちが舟を出した柳橋は、天保の取締り(一八四二)以降に隆盛を迎えた江戸においては新興の花街でしたが、それ以前に、大川の舟遊びの相手をもっぱら務めたのは深川の芸者たちでした。

深川の芸者の出で立ちの特色は、薄化粧で、鼠色など地味な長着に羽織を着ていることで、故に羽織芸者と呼ばれました。羽織は、現代の和装では、男女ともに用いますが、本来は男性のみが着用する衣料です。また深川芸者は、蔦吉とか、桃太郎とかいうような男名前(権兵衛名)を名乗り、しゃべり方も男っぽく威勢よく、気立ても「意気」と「張り」を看板にしていました。

今でこそ、芸者といえば古風な「女らしさ」の体現者としてイメージされますが、深川芸者は、男装、男名前、男言葉、気風(きっぷ)のよさというような男粧(おとこなり)、男振を売りにしていのです。現代に置き換えるならば、男物のスーツ姿で、大輔とか、拓也とか名乗って、「俺、○○なんすよ」みたいなしゃべり方をする女性だったことになります。現代の男性が、そうした女性にお金を払って、いっしょに遊ぼうとするでしょうか? とてもそうは思えません。しかし、江戸時代の男性は、そうした男っぽい女性を、好んで遊興の供としたのです。しかも金子を与えて。

話をまったく変えます。今年も「トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団」(アメリカ 一九七四年結成)の日本公演の広告が新聞に大きく出ていました。同バレエ団は、筋骨たくましい男性舞踊手が白いチュチュを着て「白鳥の湖」などを踊る男性だけで構成された女装バレエ団です。二〇〇八年には、六月六日から八月三日まで、東京新宿を中心に、北は秋田、南は鹿児島まで全国三〇都市を巡り三七回の公演が行われ、どこでも盛況だったようです。一九八二年の初来日以来、二四回目の来日公演ですから、ほとんど毎年のように来ていることになります。これほどの頻度で来日する海外のバレエ団が他にあるでしょうか? 頻繁に来日するということは、それだけ興行として成功しているということです。どうも、日本では、女性がプリマをつとめる海外の有名バレエ団の来日公演よりも、女装バレエ団の方が、はるかに興行成績が良いらしいのです。

後発の女装バレエ団「グランディーバ・バレエ団」(アメリカ 一九九六年結成)の場合、平均集客率は八割を超え、観客の九五%は女性というデータがあります。同バレエ団は日本公演をメインに活動していることからも明らかなように、女装バレエ団にとって日本は、とてもおいしい、最重要の市場であることは間違いありません。

男振を売りにした江戸時代の深川芸者と、女っぽさを売りにする現代の女装男性バレエ団と、どうつながるのか不思議に思う方も多いでしょうが、私は、そこに日本人の性別越境者、そうした人が担い手となる芸能への嗜好が見えるように思うのです。もう少し解りやすく言えば、日本人は、女装した男性や、男装した女性を好む文化を持っているということです。

そう書くと「いや、俺は、女装の男も、男装の女も大嫌いだ。とりわけ、女装した男なんて虫唾が走る」という人が出てくると思います。まあ、それは個人の好みの問題ですから結構です。

しかし、女装の演技者である女形が重要な役割をはたす歌舞伎は、日本を代表する伝統芸能です。歌舞伎とは逆に、男装の演技者(男役)がトップスターである宝塚歌劇も多くの熱狂的なファンを持っています。また、歌舞伎よりも古い起源をもつ古典芸能である能は、憑霊という仕組みと仮面という装置によって男性演技者がしばしば女性を演じます。

性別越境芸能の人気は、歌舞伎や宝塚のようなメジャーな演劇世界だけではありません。梅沢富美男や松井誠、最近では若手の早乙女太一の名が知られるように、大衆演劇の世界では、女形(をできる役者)が絶対的にスターで、女から男、男から女という性別越境は、最大の「ウケる」要素なのです。

このように見てくると、日本の演劇世界では、男から女(女装)、女から男(男装)のような異性装という要素が大きな役割を果たし、根強い人気を保っていることがわかります。観衆が性別越境(トランスジェンダー Transgender)的なものを好むという現象は、どうも過去から現代まで続く歴史的な伝統のようです。

演劇だけではありません。現代でも、女装した男性が一定の役割を果たす祭礼は日本各地に残っています。たとえば、東京江戸川区東葛西の雷不動真蔵院で毎年二月に行われる「雷の大般若」と呼ばれる行事では、お白粉に真っ赤な口紅、青のアイライン、頬紅という化粧をして女装した青年たちが大般若経の入った箱を担ぎ、家々の玄関口で悪魔払いをして無病息災を願います。ちなみに、お化粧は、地元の美容院に依頼するそうです。

また、一九六〇年代くらいまでは、花見や盆踊りの際に、一般の人々が女装・男装する習俗はあちこちで見られました。現在でも、大学や高校の学園祭でしばしば見られる女装コンテストなどは、そうした祝祭空間での女装習俗の名残でしょう。

日本人は、女装・男装を観るだけでなく、自らも楽しんでいたのです。こうなると、女装・男装への嗜好は、日本文化の基層に根差すものなのではないかと、私には思えるのです。
それでも中にはこう主張する人がいるかもしれません。「いや、男が女を演じるなんてどう考えたって不自然だ。そんな変態的な演劇は認められない」と。あるいは「女装する男なんて奴は、世の中の性別秩序を破壊する社会悪だ。そんな奴はとっ捕まえて、刑務所か精神病院へ叩き込め」と。

さすがに現代の日本では、そこまで言う人は稀でしょう(でも少数ですが確実にいます)。ですが、一昔前までは、けっして珍しい意見ではありませんでした。たとえば、評論家で近代演劇普及の旗手だった島村抱月は、一九一一年(明治四四)に「日本の旧歌舞伎といふ如きは変態芸術」と断じています。

こうした性別越境的なものを変態視して徹底的に忌避する考え方と、先に述べた女装・男装の演劇者に拍手する日本人の性別越境芸能への嗜好とは、どのような関係にあるのでしょうか?

結論だけを述べますと、性別越境的なものを「変態」として否定する考え方は、キリスト教文化に由来する西欧近代の産物で、明治時代以降に日本に移入されたものなのです。

結果として、現代の日本社会は、性別越境的なものを好む江戸時代以前からの基層文化の上に、そうしたものを変態視して忌避する西欧近代の思想が重なるという二重構造になっているように思います。それは、明治以降の日本の社会がずっと持ち続け悩んできた矛盾の投影なのです。

たかが、女装・男装の話が、ずいぶん大袈裟にことになってしまいましたが、このたび上梓した『女装と日本人』(講談社現代新書)ではそんなことをいろいろ考えてみました。

ところで、あなたは、女装した男性をどう思いますか?石をぶつけますか?「まあ、それもありかな」と思いますか? それとも好きですか? 後の二つの部類の方には、十分に楽しんでいただける内容だと思います。
(みつはし じゅんこ 国際日本文化研究センター共同研究員 性社会・文化史)


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