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【講演録】「男の娘(おとこのこ)」なるもの ―その今と昔・性別認識を考える― [論文・講演アーカイブ]

駒沢女子大学日本文化研究所『日本文化研究』第10号(2013年3月)掲載
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平成24年(2012)度(駒沢女子大学)日本文化研究所主催講演会 2012年6月15日
     「男の娘(おとこのこ)」なるもの
        ―その今と昔・性別認識を考える―

       三橋 順子(性社会・文化史研究者 都留文科大学・明治大学非常勤講師)

 皆さん、こんにちは。三橋でございます。このたびは私のような者をお招きいただき、大変うれしく思っております。自己紹介するとそれだけで持ち時間が終わってしまうようなややこしい人間なので、今、所長先生からお話がありましたように、適当に中に折り込んでいこうと思います。
 最初にこちらにご縁をいただきましたことを少しお話ししておきます。以前、駒沢女子大学にいらした日本古代史の倉本一宏さんが京都の国際日本文化研究センターに着任をされました。私はもう10年ほど前から井上章一さんという建築史・風俗史の先生が主宰する「性欲の文化史」「性欲の社会史」の共同研究のメンバー(共同研究員)として年に5~6回、京都へ通っていました。
 日文研は共同研究を重視する組織で専任の先生は他の先生の共同研究会にもいくつか出ないといけないというルールがあります。それで井上さんが倉本さんの研究会に出ることになりました。倉本さんが主宰されているのは主に平安、鎌倉の貴族の日記、そこから広げた日記の総合的研究という研究会です。井上さんが「僕、貴族の日記なんて読めないし、わからない。少しサポートしてもらえませんか」ということで、井上さんのお伴で私も倉本さんの研究会の共同研究員になりました。
 その懇親会のときに、研究会の中核のメンバーの方たちは、日記のことばかりマニアックに話しています。その話についていけないメンバーは、端のほうに座っています。私も昔は平安時代の日記をやっていたのですが、もういいやと思っているので、隅っこのほうに座ります。そうすると、だいたい同じテーブルに池田先生、蘭先生、富田先生がいらっしゃる。そこでいろいろお話するようになったわけです。
 そんな感じで、日文研の倉本さんの研究会つながりなのですが、お互い中核ではなく周辺、少し外れたところにいる者同士というつながりで、そう考えると、大変おもしろいご縁です。
 ところで、私は都留文科大学で「ジェンダー研究」の講義を担当しているのですが、先ほど、佐々木先生とお話していて、先生が都留の方で、さらになんと都留市の谷村という町に嫁いだ私の叔母の菩提寺のご住職であることがわかり、本当にびっくりいたしました。人の縁(えにし)というものは実に不思議なものだと改めて感じております。
 そんなご縁があって講演会に呼んでいただき、さて何をお話ししたらいいのだろうと悩みました。私は性社会・文化史という専門を名乗っております。日本におけるジェンダー&セクシャリティの歴史研究ということですが、もっぱら日本における性別越境、トランスジェンダーの研究をしております。お話をいただいたころに調べていたのは、昭和戦前期の大阪の女装男娼、つまり女装のセックスワーカーのことでした。それはいくら何でもあまりにもマニアックだろう、もう少し現代的なポピュラーな話題の方が興味をもっていただけるだろうと考えました。
 そこで、こちらの研究所の総合テーマが「女性なるものと男性なるもの」とお聞きしていましたので、それでは、その間で行こう、女性なるものと男性なるものの境界領域をお話しようと、「『男の娘(おとこのこ)』なるもの」というテーマを思いつきました。ということで、今日は「男の娘」という最近の事象について、社会における性別認識という視点を絡めてお話することにいたします。

「男の娘(おとこのこ)」とは?
 「男の娘」と書いて「おとこのこ」と読ませます。誰が考えたのかよくわからないのですが、なかなかしゃれたネーミングです。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、なんのことやらわからないという方もいらっしゃると思います。その程度の社会的浸透度の新しい言葉です。
 「男の娘」はまだ定義が固まっている言葉ではありません。いくつかご紹介しましょう。「まるで女の子のような男の子、女装している男性のこと」(『オトコの娘(こ)のための変身ガイド』)。「女の子のようにカワイイ女装少年のこと」(『わが輩は『男の娘』である!』)。あるいは、「二・五次元に生息する、(中略)女の子よりカワイイ男の子」(ニコニコ動画「男の娘ちゃんねる」)。二次元というのはいわゆる紙媒体、アニメの世界、そして三次元が現実世界ですから、二・五次元はその中間ということです。ウィキペディアは、「男性でありながら女性にしか見えない容姿と内面を持つ者」という定義です。これだと、それ以前の「女装」している人たちとの差違化が全くできていないので、あまりよろしくありません。
 今、定義を四つ申しましたが、そのうちの二つに「カワイイ」という言葉が入っています。これが一つのキーワードだと思います。そこで、私なりの定義を示しますと「まるで女の子のようにカワイイ、女装した男の子」ということになります。

「男の娘」の出現
 次に、「男の娘」というネーミングがいつ出てきたのかということをお話します。書籍でまず注目しておきたいのは、2007年9月に出た『オンナノコになりたい!』です。書名には「男の娘」とは入っていないのですが、帯の記述の中に「もっとかわいい男の娘になろう」と入っています。ただ帯は後からつけ替えられるので、少し不安があります。私の持っているのが第二刷で、初刷りではないので、余計に不安です。
 書名に「男の娘」が入っているものとしては、2008年10月に女装普及委員会というところが出した『オトコの娘(こ)のための変身ガイド―カワイイは女の子だけのものじゃない―』(画像1)が最初だと思います。
(2)オトコの娘のための(2008年10月).jpg
【画像1】

 私は、2008年9月に『女装と日本人』という講談社現代新書を出しました。執筆は2007年です。その段階では、私の頭にはまだ「男の娘」という文字は入っていませんでした。ということは、「男の娘」というネーミングが社会の表面に浮上したのは、やはり2008年ではないか?と思います。
 ところで、この『オトコの娘(こ)のための変身ガイド』という本は、男の子が女の子の格好をするためのテクニックやいろいろなアイテムに関して事細かに記している女装指南本です。こんな本が普通の書店で売られることすらびっくりしたのに、これ一冊だけで1万5000部以上、全4冊シリーズで6万部というかなりの売れ行きになったことも衝撃的でした。同時期に出た私の『女装と日本人』が1万部ぐらいしか売れないのに…、すごく悔しいです。
 その後、2009年5月に『オトコノコ倶楽部』という女装美少年総合専門雑誌が三和出版から刊行されます。三和出版はもっぱら成人雑誌を出している出版社ですが、少し前まで『ニューハーフ倶楽部』(1995年3月~2007年8月)というニューハーフ(身体を女性化した男性、女装した男性であることをセールスポイントにした商業的なトランスジェンダー)をメインにした雑誌を出していました。私も連載コラムを2本持っていたのですが、コロッと宗旨替えして新しい流れに乗ったということです。このあたりまでくると、どうも様子がおかしいぞということに、私も気づいておりました。
 その少し前、2008年の4月、私が銀座四丁目の「和光」の前におりましたら、背が高くてスタイルがいい振り袖のお嬢さんが、お母様らしき着物の女性と二人で、目の前を通過していったのです(画像2)。「あれ?」と思って、少し後をつけました。あれ?と思ったのは、スタイルが良すぎるというか、写真を見ればわかるように、少し袖で隠れていますが、お尻が小さいのです。つまり、女性ではないのではないか?ということを、直観的に感じたわけです。そこらへんの「目利き」は私のように女装業界に長くおりますと、自然と身についてきます。
(23)銀座の振り袖「娘」(2008年4月).jpg
【画像2】

 後で、お話をうかがうと、やはり男性でした。左側の40歳ぐらいの女性が、右側の25歳ぐらいの男性に自分のお振り袖一式を着付けて、お化粧もしてあげて、銀座に連れ出したということでした。
 そう言えば、少し前に新宿や渋谷で、「あれ、今の女の子の二人連れ、片一方は男の子じゃないかな?」と気づいたことが数回あったことを思い出しました。一見、女性の二人連れに見えるのですが、実は片方が女装した男の子というカップルです。そういう現象がひそかに増えていることに、私が気付いたのが、だいたい2008年の春ぐらいだったということです。たった4年前ぐらいのことです。
 ちょうどその頃、今、京都造形芸術大学の成実弘至先生から、『コスプレする社会―サブカルチャーの身体文化』という本を一緒にやらないかというお話をいただきました。それで、『女装と日本人』に書いた後の女装世界の変化をフォローした「変容する女装文化」という論考を執筆しました。「男の娘」というネーミングは使いませんでしたが、後に「男の娘」とネーミングされるような若い女装者の意識の変化や、新しい現象として女性と女装した男性のカップルの話を取り上げたわけです。自画自賛になりますが、こうした女装文化の変化に真っ先に気づいて考察した論考が「変容する女装文化」ということになります。

マス・メディアへの登場
 「変容する女装文化」を掲載した『コスプレする社会』は2009年6月に刊行されましたが、大手のメディアが「男の娘」現象に気づき始めたのは、その半年ほど後でした。12月に共同通信の記者から電話インタビューの依頼がありました。「おっ、やっと気付いたか」という感じでした。そのコメントが載ったのが、「きれいならOK?『女装男子』急増」という記事で(2009年12月22日配信)、こんな写真を載せていました(画像3)。秋葉原のメイドカフェで、メイドの格好をした女装の男の子が、本物の女性のお客さんに飲み物を運んでいる写真で、新しい現象のポイントをよく捉えています。つまり、後で詳しく申しますが、女装した男の子と女性との関係性です。
(12)男の娘1.jpg
【画像3】

 年末にはなんとNHKワールドからコメント出演の依頼がありました。NHKワールドは英語で世界百何十何カ国に放送している国際放送局ですが、NEWS LINEというニュース番組の中で現代日本の若者の女装文化を取り上げたいという話でした。私は驚いて「そんなことを取り上げて、世界に放送していいんですか」と問い返しました。そうしたら「実は、日本国内よりも外国で注目されているので、十分ニュース価値があるんです」というディレクターのお話でした。
 年が明けた2010年の2月に「Boys Will Be Boys?」(少年は果たして男の子になるのでしょうか? もしかすると男の娘になっちゃうかもしれませんよ)という5分間ほどの特集で、現代日本の若者の一つのカルチャーとして「女装」する男の子現象が世界に紹介されました。DVDを持ってきましたので時間があったら、後でお見せします。
 2010年8月には、共同通信がもっと本格的な「ニッポン解析:女装楽しむ『男の娘(こ)』」という記事を出しました(2010年8月25日配信)。銀座の街を歩いているのは二人とも「男の娘」です(画像4)。このような流れで、「男の娘」現象がマス・メディアで認知されたのは2010年ということになります。
(9)男の娘3.jpg
【画像4】

 2011年11月には朝日新聞に、「『男の娘』(オトコノコ)になりたくて」という記事が出ました(2011年11月12日夕刊)。とうとう朝日新聞にまでと感慨深かったです。ついこの間、2012年5月には「男装大好き!」という題で、今度は女の子が男の子の格好をしているのが徐々にブーム化しているという記事が朝日新聞に載りました(2012年5月26日)。比べてみたら違う記者が書いているので、一人だけマニアックな記者がいるわけでもなさそうです。
 男装のお話をする場がないので、ここでちょっとだけ触れておきますと、女性のファッションの範囲はとても広いので、極端に言えば、女性がどんな格好をしても、女性の幅広いファッション・カテゴリーの一部だと見なされてしまって、なかなか男装になりません。それこそ髭でもつけない限りは男装が成立しない、そういう意味で、男装の困難さがあるのです。朝日新聞の「男装大好き!」という記事の写真を見ますと、私からするとやはり女の子がボーイッシュなファッションをしているように見えてしまいます。ただし、本人たちは男装のつもりでやっている、そしてそこに「女子ファン増殖中」とあるように女の子が寄ってくる。男装女子がある種のアイドルとして、女の子にもてるという現象が社会の表面に出てきたというのは、なかなか興味深いことだと思います。
 合わせて考えれば、コスチューム・プレイという感覚で、性別表現の転換が容易になっている。男女両方からの行き来がかなり自由になってきている。そして、そうした行為に対する評価が、以前のような「そんなことをするのは変態」というマイナスではなく、ある種のアイドル性を持った肯定的なプラス評価になってきている。そこが大きな変化、いちばん大事なポイントでだと思っています。
 まとめますと、「男の娘」現象は、2008年ぐらいから社会の表面に浮上して、2010年にメディアに認知され、若者たちの間の異性装ブームは、現在進行中と言うことです。

「男の娘」の起源
 もう少し掘り下げてみましょう。「男の娘」の定義のところで「二・五次元」云々という話が出てきましたが、「男の娘」の淵源は、二次元媒体、漫画、コミック、あるいはもっとローカルな、コミケ(コミック・マーケット。年二回開催される大規模な同人誌即売会)などで売られているコミック同人誌にあります。
 確実なところでは、2006年9月に「男の娘 COS☆H」という名前の同人誌即売会が行われています。さらに、2000年の春頃、巨大インターネット掲示板で有名な「2ちゃんねる」の中で、「男の娘(おとこのこ)」という表現があったという話があります。ただこれは確認できていません。2000年代の前半、しかも早い時期に、マニアックな二次元媒体の中で「男の娘」というネーミングが生まれていたことは間違いなさそうです。
 さらに、「男の娘」の元祖は、1980年代半ばにベストセラーになった江口寿史『ストップ ひばりくん!』の主人公大空ひばり(画像5)であるという説があります。『ストップ!! ひばりくん!』は、1981年~1983年の連載で、もう20年前の漫画です。私はリアルタイムで読んでいましたし、その世代の女装者には、やたらと「ひばり」という名前(女装名)の人が多くて、影響力があったことは間違いありません。しかし、これは「始祖伝説」のような話で、そういうふうに仮託されているということでして、日本最初の天皇は神武天皇というのと同様に歴史的事実として語れる話ではありません。
(17)ストップひばりくん 1.jpg
【画像5】

 「男の娘」の起源としていえることは、少なくとも2000年代の前半にコミック世界で女装した美しい男の子が「女装美少年」とか「化粧男子」とか、いろいろな名称で語られていて、それらのうちの一つが「男の娘」だったということです。
 ところで、「娘」と書いて「こ」と読ませることですが、女装者を「女装娘」と書いて「じょそこ」と読ませることが、すでに1990年代前半の東京新宿の女装コミュニティで広く行われていました。その起源は1950年代に始まる男性同性愛者のコミュニティにおける女装する男性への侮蔑的な呼称である「女装子」にあります。男性同性愛者の世界は基本的に「男らしさ」を価値基準にする女性性嫌悪の強い世界ですから、「女らしい」人や女性の格好をする人は下位に位置づけられます。
 ちなみに、なぜかゲイ業界では「〇〇子」という表現が好まれます。店で働いているゲイの人を「店子」と書いて「みせこ」と言います。「『店子』と書いたら普通は『たなこ』と読むのよ」などと言うと、「このばあさんは何を言っているんだ」と怪訝な顔をされるわけです。言葉としての「男の娘」、「娘」と書いて「こ」と読ませることには、そんな文化伝統があるわけです。
 これまで述べたことをまとめますと、「男の娘」という言葉は、2000年代の前半、しかも早い時期に、マニアックなコミック世界で生まれ、最初はあくまでも二次元媒体の存在だったのが「コスプレ」などを通じて徐々に肉体を持った三次元キャラクターとして実体化していき、2008年ごろから社会の表面に現れてきて、2010年に「男の娘」現象としてマス・メディアの認知を得た、最初はある種のファッション・カテゴリーであったものが、ミニ流行化の中で次第にジェンダー・カテゴリーという感じになっていった、そんなところだと思います。

「男の娘」の実際
 さて、二次元キャラクターの「男の娘」はいくらでも理想化が利きます。どんどん可愛く描けばいいわけです。ところが、三次元の「男の娘」はそうはいきません。皆さん、それなりに苦労しています。ここで、どんな「娘」がいるかちょっと見てみましょう。
 この「娘」は、私の友人の吉野さやかさんです(画像6)。「彼女」に最初会った時、私ですらわかりませんでした。これはお友達の結婚パーティのときの写真を借りてきたのですが、本当に普通に女の子という感じで、こういう「娘」が現に存在しているのです。
(20)吉野さやか(2011年8月).jpg    
【画像6】

 こちらの「娘」は、毎月、新宿歌舞伎町で「女装 ニューハーフプロパガンダ」というイベントを主催しているモカちゃんです(画像7)。彼女はイベントの主催者であると同時に、イベント最大のスターという存在です、この「娘」も、わかりませんでした。カワイイ女の子がいるなと思ったら「男の娘」で、びっくりでした。
(19)モカ (2012年1月).jpg
【画像7】

 これはテレビなどでときどき見かけるモデル兼タレントの佐藤かよさんです(画像8)。彼女は自分で「男の娘」とは名乗っていないと思いますが、世代的、容姿的、カワイイ系のファッションという点で、まさに最先端の「男の娘」だと思います。
(21)佐藤かよ(2011年).jpg
【画像8】

 こちらは、私の「娘分」的な存在の井上魅夜さんです(画像9)。以前は仲の良い後輩の女装者を「妹分」と言っていたのですが、もう無理です。どう考えても姉妹というより母と娘の年齢差ですから。この「娘」、身体的にまったく女の子サイズなので「男の娘」だとはまず気付かれません。黙っていればですが・・・。
(48)井上魅夜.jpg
【画像9】

 2009年11月に、この井上魅夜さん主宰の「東京化粧男子宣言!」というイベントが行われました。早い話、化粧男子のミスコンです。これがそのポスターですが(画像10)、描いているのはいがらしゆみこさんという漫画家です。1970年代に「キャンディ・キャンディ」という大ヒット作がある方です。若い方はあまりなじみがないかもしれませんが……。
(13)東京化粧男子宣言2009 -2.jpg 
【画像10】

 では、なぜ、いがらし先生のような大家がポスターを描いてくださったのかといいますと、これは2010年12月に出た『わが輩は「男の娘」である!」という本です(画像11)。帯のところに、「こんな立派な『男の娘』になってくれて…… 母は嬉しいです!(実母・いがらしゆみこ)」と書いてあります。つまり、この本の著者いがらし奈波さんがいがらしゆみこ先生の息子さんなのです。
(5)男の娘である(2010年12月).jpg
【画像11】
 これは「東京化粧男子宣言!」のオープニングの写真です(画像12)。左側が主催者の井上魅夜さん、真ん中が審査員で「ニューハーフ女優」の月野姫さん、そして右側が司会のいがらし奈波さんです。つまり、司会の奈波さんの縁でいがらし先生にポスターを描いてくださったわけです。さらに、いがらし先生には審査委員長をお願いしました。審査員席で、私の隣がいがらし先生だったのですが、カワイイ「男の娘」になった息子さんの活躍を、本当にうれしそうに見ていました。まさに母親公認で、世の中つくづく変わったと実感したわけです。
(14)東京化粧男子宣言2009 -3.jpg
【画像12】
 
 さて、「東京化粧男子宣言!」の審査結果です。決勝進出の8人から審査員一致で(会場投票もトップ)グランプリに選ばれたのが、るるさんでした(画像13)。シャボン玉をふーっと吹くパフォーマンスで「男の娘」の最大のポイントである「カワイイ」を巧みに表現していました。
(22)東京化粧男子宣言2009 -5優勝者るる.jpg
【画像13】

 これは優勝者を囲んだ審査員一同の写真です(画像14)。左からいがらし先生、グランプリのるるさん、月野姫さん、私です。全員女性のように見えますが、戸籍上の女性はいがらし先生だけという写真です。
(16)東京化粧男子宣言2009 -6審査員と優勝者.jpg
【画像14】

 るるさんにそっと「あなた、学生さんらしいけど、大学はどこ?」と聞いたら、「少し硬派なイメージがある、渋谷の……」という返事で、なんと私の後輩(笑)。またびっくりでした。要は、こんなかわいい「娘」がごく普通の男子大学生ということです。

「男の娘」を遡る
これが現代の状況です。しかし、こういうカワイイ女の子に見える男の子、「男の娘」的な存在が過去にいなかったかというと、そうでもありません。「男の娘」というネーミングは現代的なものですが、実態的に似たような「娘」が過去にも存在していました。そこで、次に「男の娘」的存在を過去に遡ってみましょう。
 まず、1994年の浅草寺のほおずき市での写真です(画像15)。右側(私)は大貫録の姐さん風ですが、左側の岡野香菜さんは20代後半、当時江東区の亀戸にあったアマチュア女装クラブ「エリザベス会館」の若手スターです。
(26)順子(1994年7月).jpg
【画像15】
 
 次は、20年ほど遡って1973年の中野のあるマンションのベランダで焼肉パーティをしている写真です(画像16)。写っているのは夢野すみれさんという女装秘密結社「富貴倶楽部」で若手ナンバーワンと呼ばれた方。大学を卒業して間もない20代前半だと思います。現在の「男の娘」と年齢的にはほとんど変わりありません。こういうカワイイ「娘」が1970年代にもいたのです。
(28)夢野すみれ(1973年).jpg
【画像16】

 こちらは1969年、東京日比谷です(画像17)。お堀の石垣を背に大振袖で立つのは、佐々木涼子さんという方。実年齢は30代だと思いますが、やはり「富貴倶楽部」の有力メンバーで、振袖女装で有名だった方です。
(29)佐々木涼子(1969年).jpg
【画像17】

 次は、東京オリンピック直前の1964年6月の新宿駅東口駅前でのスナップです(画像18)。右側のお二人は少し年配、30代だと思います。左の横を向いている松葉ゆかりさんは、当時25歳で、今の「男の娘」と年齢的に変わりません。60年代の「富貴倶楽部」の若手花形で、私はこの方のロングインタビューを採ったことがあります。
(30)新宿駅前の女装者(1964年6月) (2).jpg
【画像18】
 
 戦前に飛びます。横書きの文字が今と逆ですが、「これが男に見えますか」というキャッチコピーが入ったタブロイド判(夕刊フジの大きさ)の新聞号外です(『東京日日新聞』1937年3月31日特報)。写っているのは福島ゆみ子という24歳の人です(画像19)。風紀係の私服刑事が、銀座七丁目の資生堂の前で声をかけてきた女性を「密淫売」(無届売春)の容疑で逮捕して築地署に連行し取り調べたら、なんと女性ではなく女装の男性だったという事件を報じたものです。
(32)福島ゆみ(1937年) (2).jpg
【画像19】

 ちなみに、現在の売春防止法もそうですが、戦前の売春関係の法律も売春の行為主体を女性に限定していますので、男性だとわかった途端に罪状が消えてしまい、仕方なく(厳重説諭の上)釈放になります。ゆみ子さん、釈放になるので余裕でポーズを作っています。違う新聞の写真には「男なんて甘いわ」というセリフがついています。昭和戦前期には、非合法売春の容疑で捕まった女装男娼が何人か新聞報道されていますが、私が見る限り彼女がいちばんの美形です。
 さらに時を遡りましょう。これは江戸時代中期、18世紀後半に活躍した鈴木春信(1725?~70)の作品です(画像20)。春信は錦絵の大成者として知られる浮世絵師で教科書にも出てくるとても有名な人です。前を歩いているのはもちろん男性で、後ろを歩いている華麗な大振袖、島田髷の人は、今の私たちの目には娘に見えますが、当時「陰間」と呼ばれた、芸能・飲食接客・セックスワークを職業にした女装の少年です。これから贔屓筋の座敷に出勤するところです。
(33)江戸時代陰間1.jpg
【画像20】
 
 こちらは、少し後の浮世絵師、北尾重政(1739~1820)の「東西南北美人」シリーズの「西方の美人 堺町」です(画像21)。江戸の東西南北の美人を2人ずつ描いた4枚のセットですが、残念ながら全部残っていないようです。確認できる「東方」は深川の芸者を描いていて、たぶん「北方」は吉原の遊女、「南方」は品川の飯盛女(実態は遊女)でしょう。どれもまちがいなく女性ですが問題はこの「西方」です。立ち姿が橘屋の三喜蔵、座っているのが天王寺屋の松之丞という子で、松之丞は江戸の町娘のあこがれだった黄八丈の振袖姿です。もうあらためて言うまでもないと思いますが、「西方の美人」は女性ではなく、女装の少年なのです。
(36)江戸時代陰間24.jpg
【画像21】

 このようにさかのぼっていくと、「男の娘」的存在がぞろぞろと出てくるわけです。なぜ前近代の日本にそういう「娘」がたくさん出てくるのか、そこら辺のことは私の『女装と日本人』に詳しく書いてありますので、ご参照いただければ幸いです。
 もう一息です。これは鎌倉時代末期に描かれた『石山寺縁起絵巻』です(画像22)。この子が着ている橙色の衣服、肩が割れていないので少年が着る水干ではなく、女性が着る袿(うちき)です。履物もけばけばしています。藺げげ(いげげ)という当時の若い女性の履き物です。後にお坊さんがいます。首が切れていますが…。この時代、僧侶は戒律で女性と行動を共にしてはいけません。お坊さんの連れが少女ではまずいのです。つまり、この子は女装の稚児です。きっと後ろにいる師匠のお坊さんが(性的にも)可愛がっている「娘」なのでしょう。
(37)鎌倉時代稚児1.jpg
【画像22】
 
 これで最後です(画像23)。私の話を何度も聞いてくださっている方は「またか」と思われるかもしれませんが、やはり行き着くところは女装の建国英雄・ヤマトタケルになってしまいます。これは三重県鈴鹿市の加佐登神社に奉納されている大きな絵馬です。ヤマトタケルは少女の姿になって九州の豪族クマソタケル兄弟の館に入り込み、その美少女ぶりで兄弟を魅了します。絵馬は長い垂れ髪に緋色の裳の女姿のヤマトタケルがクマソタケル兄弟をやっつける場面を描いています。ヤマトタケルの右手に握られた剣はすでに血にまみれていて。すでにクマソタケル兄の方を殺し、これから青い衣の髭面のクマソタケル弟を刺そうとするところです。ヤマトタケルはこのとき16歳。まさに元祖「男の娘」です。
(39)ヤマトタケル.jpg
【画像23】

 こうして歴史を遡ってみますと、「男の娘」的存在は日本の長い歴史の中に常に存在していたことがわかります。言葉を変えるならば、現在、ミニブームになっている「男の娘」も、男でもあり女でもある双性、ダブルジェンダー的な存在への強い嗜好に支えられた日本の性別越境文化の末裔であり、決して現代の特異現象ではないということです。メディアは新しいものが大好きなので、最新の社会現象だと騒ぎますが、実は根っこはずっと続いているのです。「男の娘」は、2000年の長い歴史を持つ日本の女装文化の21世紀リニューアルバージョンだと、私は理解をしています。

「男の娘」出現の背景
 さて、再び現代の「男の娘」に戻って、もう少し深く考えてみましょう。まず「男の娘」がクローズアップされてきた背景です。1990年代後半から2000年代前半は、性別を越えて生きたいと考えることを「病」、精神疾患だと考える性同一性障害という概念が大流行した時代です。メディアの報道も性同一性障害一色でした。こうした性同一性障害の概念の大流行で、従来の女装世界、例えば女装スナックやバーを拠点に形成されている新宿の女装コミュニティは、長年培ってきた人的資源をごっそり奪われて大打撃を受けました。わかりやすく言えば、「女になりたい」と思う人は、それまではお店に来ていたのが、病院に行くようになってしまったわけです。
 私は1995年から2001年まで6年間、新宿歌舞伎町の老舗の女装スナック「ジュネ」やニューハーフ・パブ「MISTY」でお手伝いホステス(ゲスト・スタッフ)をしていていました。ちょうど性同一性障害の概念が流行していった時期です。『女装と日本人』を書いた理由の一つは、性別を越えて生きることが精神疾患であるという病理化の思想が社会に蔓延してしまうと、ヤマトタケル以来連綿と続いてきた日本の女装文化は終わりになってしまう、ならば、こういう世界があったんだということをちゃんと調べて書き残そう、そう思って、1998年頃から歴史学や社会学の勉強をし直して学術的な女装文化の研究を始めたわけです。つまり、日本の女装文化の遺言を書くようなすごく悲観的な気持ちで書き始めたのですが、先ほど述べましたように、執筆しているうちにあれ、何か様子が変だぞ、流れが微妙に変わりつつあるぞ、という感じになったのです。
 性同一性障害の概念には、医療によって身体の女性化を進めていくことを重視して、性別表現、ファッションや化粧というものを軽視する傾向があります。そのアンチテーゼとして、性別表現を重視した自己表現的な性別越境の形が復活してきた。「男の娘」現象の背景には、そうした性別越境をめぐる大きな流れの転換があると考えています。
 メディアも、性同一性障害を10年間も報道すると、もう番組の作り方がなくなってきます。さらに言えば、重苦しさがつきまとう性同一性障害の報道にそろそろ嫌気が差していた。「また性同一性障害かよ、もうちょっと飽きてきたな」と思い始めていたところに、もっと楽しく気軽に性別を越えようという「男の娘」が浮上してきたわけです。メディアは、何度も言うように新しいものが大好きですから、そちらに飛びついた。そういうメディアの視点の転換も、「男の娘」がクローズアップされた背景にあったと思います。
 ただし、性同一性障害概念の流布以前に戻ったわけではなく、「男の娘」たちの多くは1990年代まで主流だった新宿の女装コミュニティとは一線を画しています。そもそもエリアが違います。新宿ではなく秋葉原、中心が東京の東側へ動きました。「東京化粧男子宣言」の井上魅夜さんは、2011年12月に「若衆バー 化粧男子」という店を出したのですが、場所は新宿ではなく秋葉原の北の湯島でした。
 もっとも、女装世界の中心は、新宿に移る前は上野や浅草でした。戦後最初の女装した女将さんがいるバーは「湯島」という名で、その名の通り湯島天神の男坂の下にありました。さらに言えば、江戸時代、女装の少年が接客する陰間茶屋の江戸における三大密集地の一つが湯島天神界隈でした。徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺のお坊さんが最大の客筋でした。そういう意味では、「男の娘」の拠点が秋葉原や湯島になったのは、先祖返りとも言えます。

「男の娘」の内実
 次に「男の娘」の内実です。これはけっこう複雑で、趣味のコスチューム・プレイ(コスプレ)としてやっている女装者から、将来的には女性への性別越境を考えている、つまり戸籍まで女性に変えたいという子までかなり幅広いです。性同一性障害の診断書を持っている子も少なくありません。ですから、身体の女性化の程度も様々で、ほとんど何もしていない人もいれば、女性ホルモン継続の投与だけという人もいれば、外性器の手術(睾丸摘出手術や造膣手術)までしてしまっている人もいます。「男の娘」と言っても中身はいろいろなのです。
 性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)も一定ではありません。「女好き」、つまり、女の子の格好で女の子が好きという見かけ上レズビアンも多いですが、「男好き」(見かけヘテロセクシャル)もいます。バイセクシャルもいます。
 1990年代後半から2000年代にかけては、女装あるいはトランスジェンダーというカテゴリーと、性同一性障害というカテゴリーの間に、かなり強烈な対立がありました。「あなたはどっちなの?」という感じ。ところが「男の娘」は、そうした対立、境界にこだわらない傾向があります。「そんなのどっちだっていいじゃないですか」という感じ。そうした概念へのこだわりのなさも新しいところです。つまり、「男の娘」の内実はかなり多様であり、良く言えばそうした幅広さ、悪く言えばとらえどころのなさ、無思想性が特色になっていると言えます。

「男の娘」出現の条件
 次に、「男の娘」出現の条件です。なぜ「男の娘」が出てきたのですか?という質問はメディアの取材で必ず聞かれます。
 第一に大きいのは情報流通の変化、具体的に言うとインターネットの普及です。インターネットの普及以前、女装やニューハーフの世界は、まさに閉ざされた世界でした。
先ほどお話した歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」)の先輩で、200軒以上の飲み屋が集まっている新宿のゴールデン街を端から飲みまくって、10万円ぐらい飲んだところでやっと女装の店の情報に行き着いたという人がいます。1980年代後半、もう25年くらい前の話ですが、世の中にほとんど情報が回ってなく、伝手をたどってその種のお店を探すしかなかったわけです。どうやったら化粧ができるか、そういう情報もありません。女装やニューハーフの世界になんとかしてたどり着かないと、いくら女の子になりたくても始まりませんでした。
 今は、インターネットでいくらでもお店の情報や女装テクニックが簡単に得られるようになりました。初めの方で紹介したように女装指南本が一般の本屋で売られている時代です。昔は女装の専門雑誌を買うのもけっこう大変で、どこに行けば売っているのか、なかなかわかりません。売っている場所に行っても、買うのにすごいドキドキでした。どうしても勇気が出なくて店の前を何度も往復してとうとう買えなかった、なんて話もあります。ともかく、ものすごく敷居が高い世界でした。それが今はもうまったく違います。
 第二は男の子たちの顔や体形の変化です。私、今はすっかり太って丸顔ですが、若いころは1000人に1人の女顎、つまり三角顎だと言われたことがあったのですが、悔しいことに今、私レベルの三角顎の男の子はごろごろいます。そのくらい日本人の男性の顔立ちは変わってきています。フーテンの寅さん、渥美清さんのようなエラが張っているホームベース型の顔で、髭の剃り跡が青く見えるような男の子は本当に少なくなっています。顎のラインがすっきりした、髭もあまり濃くないような子が増えています。体形も手足が長く、骨格がずいぶん華奢になり、女物の9号の服が着られるような男の子が増加しています。つまり、男の子の顔立ちや体型が女装向きに変化してきています。昔に比べて「女の子になる」ベースに恵まれている男の子が多くなっているわけです。
 第三に社会環境の変化があります。男の子が髪を長くのばしたり、眉を細く手入れしたり、髭や手足の体毛を脱毛していることが、それほど奇異に見られなくなっています。別に女の子になりたいわけでなくても、身体のメンテナンスに気を遣うおしゃれな男の子が増えていますから、そういう女装のための身体条件を整えることをしても、あまり目立ちません。
 社会全体として性別の越境に対する許容度・自由度が以前に比べればだいぶ緩くなっています。コスチューム・プレイという感覚で、男性と女性の間を行って戻ってみたいなことがかなり自由になっている。社会環境として性別の越境、性別表現の転換が容易になっているということです。昔はそこに乗り越えなければならない高い壁のようなもの厳としてありましたったのが、私の世代だと、女装すること自体がものすごく大変で、そこに至るのに何年かかるという世界だったわけです。たとえば、私は振袖を着たいと思ってから実際に振袖姿で外へ出るまで20年近くかかっています。ところが最初に紹介した銀座の振袖「男の娘」は、2回目の女装でした。それほど違うのです。心理的な、もしくは社会的な、越えなければいけない障壁がとても低くなっています。
 第四は、女性が男の子の女装を受け入れるようになったことです。女装した男性と一緒に遊ぶ、さらには積極的に女装に協力するような女性が確実に増えてきています。化粧にしてもファッション・コーディネートにしても、男の子が一から独力で覚えるのと、女性が協力してくれるのとでは、進度も到達レベルもまったく違います。こうした関係性の変化については、また後で詳しく述べます。
 第五は、これがいちばん重要なことですが、価値観の変化です。昔は男が女の格好をする、女装することは、男性上位社会において明らかな社会的下降でした。よりによって「女『なんか』になる」という感じです。ですから、女装にはしばしばマゾヒズムが伴っていました。マゾヒズムについては、富田先生がここでお話になったと思うのですが、わざわざ女という低い身分になる、「あたし、とうとう女に墜ちちゃったわ」というような被虐的な陶酔にひたる女装者は少なくありませんでした。
 ところが、今の「男の娘」たちはまったく違います。現代の男の子は同世代の女の子のライフスタイルに、かなり強いあこがれを持っています。男の子のライフスタイルは冴えないけれども、女の子たちはとても輝いている」。あくまでも見えるだけで、必ずしも実際はそうでないのですが、ともかく女の子ライフが素敵に見える。自分もああなりたいと思うわけです。つまり、「女になる」ということ下降ではなく、明らかに上昇志向なのです。より輝いているあこがれの女の子ライフに近づいていくという意識です。そこが、昔とまったく違います。
 性別表現の転換に対する評価が、以前のような「そんなことをするのは変態」というマイナスではなく、ある種のアイドル性を持った肯定的なプラス評価になってきています。そこが大きな変化、大事なポイントだと思います。
 今の若い女性の最大の価値観はカワイイです。カワイイものがいちばん価値がある。それに近づいていくための自己表現が「男の娘」になることなのです。だから、「男の娘」の世界では、カワイイことが基準化され重視されます。残念ながら誰でもカワイクなれるわけではないですから、そこに淘汰が生じます。カワイクない「男の娘」は女性に受け入れられません。
 それと、年齢を重ねると、どうしてもカワイイが似合わなくなってきます。ですから、「男の娘」は年齢的な制約がとてもにきつい。当人たちに言わせると「10代から20代で20代が中心。アラサー(30歳前後)はもう辛いですね」ということになります。
 従来の女装コミュニティでは、30代、40代が中核でした。これは、ある程度の経済的余力がないと、化粧品や服、さらにそれらの隠し場所である変身部屋(仕度部屋)にお金がかかる女装という遊びができなかったからです。20代だと独力では経済的に難しい、男性のお世話(援助)がないとそれなりのレベルの女装は無理でした。

男性主導から女性主導へ
 男性のお世話になると言いましたが、伝統的な女装世界では、自分は女装しないけれど女装者が大好きな男性、私は「女装者愛好男性」名付けているのですが、そういう人たちが大きな役割を果たしていました。女装者愛好男性が若い女装者を「育てる」、経済的に援助することはしばしば行われていました。前に出てきた女装秘密結社「富貴倶楽部」はそうした援助がシステム化されたものと言えます。
 援助の見返りとして女装者は、女装者愛好男性に性的に従属することが当然視されました。つまり、女装して女になることは男に抱かれるということと全く同義で、女装とセクシャリティが表裏一体でした。
 それが徐々に変わっていきます。1979年創業のアマチュア女装クラブ「エリザベス会館」では女装者愛好男性を出入禁止にします。女性スタッフと女装者だけの空間で、セクシャリティを基本的に排除したのです。
 私は1990年から4年半「エリザベス会館」に通って、本格的な女装の技術を習得し、その後、1995年から新宿歌舞伎町の女装ホステスになりました。今述べた歴史的な流れとは逆のコースだったので、女装者が女装者愛好男性に抱かれることが当然視されていることに驚きました。店で男性客に「ホテルに行こう」と誘われても、私は「嫌」と言うので、「あいつは生意気だ」とずいぶん言われたものです。
 そうした女性と女装者の空間という形は、2000年代に登場してくる女性が経営するハイスペック、ハイレベルな、ただし費用も高い女装スタジオにも受け継がれます。これはそうした高級女装スタジオのひとつ、早乙女麗子さん主宰の「R’s(アールズ)」(曙橋から新宿御苑前に移転)の作品です(画像24)。モデルは前に出てきた吉野さやかさんですが、まったく男性らしさの欠片も感じられません。
(41)吉野さやか(2009年).jpg
【画像24】

 先ほど本物の女の子と「男の娘」とが一緒に遊ぶと言いましたが、この写真がそれです(画像25)。やはり早乙女さんの作品ですが、一見、どっちがどっちだかわかりません。右側がSakiさんという「男の娘」で、左側が生まれつき本物の女の子です。こういう形で「男の娘」と女の子が仲よく一緒に遊んでいる世界になると、もう女装者愛好男性が入り込む余地はありません。
(42)Saki&純女.jpg
【画像25】
   
 これは「東京化粧男子宣言」ポスターですが、このシルエット画像がなかなか象徴的です。左のお化粧されているのが男の子で、右のメーキャップしているのが女性です(画像26)。先ほど言い忘れましたが、「東京化粧男子宣言」は、モデルの男の子と、ファッション・コーディネート&メイク担当の女の子が男女ペアで競うコンセプトのコンテストです。このシルエット画像は、現在の女装が、かっての男性主導から女性主導へと変わってきていることをよく示しています。
(43)東京化粧男子宣言2009-1.jpg
【画像26】

 そうなると評価の基準も変わってきます。以前の男性目線の評価だと、きれい、色っぽい、おとなしい(従順)が評価基準でした。どれだけ男性の性欲をそそるかが価値基準だったわけです。それが同世代の女性目線の評価になるとカワイイが絶対的な価値基準です。女の子にカワイイと承認されるかどうかが、「男の娘」の最大のポイントになる、そういう世界です。
 こうした変化の背景には、2000年代においてさまざまな分野で女性の社会的進出が進み、社会の中で女性の嗜好が重視されるようになり、相対的に男性の影響力が減少したことがあるのだろうと思います。

性別認識をめぐって 
さて、そろそろ与えられた時間が尽きそうです。最後に「男の娘」をめぐる性別認識についてお話します。
 湯島の「若衆バー 化粧男子」でこんなことがありました。ある「男の娘」、なかなかカワイイ子なのですが、店に入ってくるなり「今日ここに来る前に、男の人に声かけられて、ナンパだったんですよぉ。ああ、キモ!(気持ち悪い)」と言っています。そこで私が「それはあなた、どう見ても女の子なんだから、男の人が寄ってくるのは当然でしょう」と言ったら、「でも、自分、男ですよ」と(笑)。
 どう見ても女の子に見える「娘」が、「えー、でも自分、男ですよ」と言っている。この「男の娘」の性自認(ジェンダー・アイデンティティ)は、女性ではなく男性で、しかも性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)は男性には向いていないということです。私は他者から与えられる性別認識を、性自認に対して「性他認」と言っています。たぶん私の造語だと思うのですが…。この「男の娘」の場合、性自認は男性だけど性他認は女性で両者が一致していません。それで男性にナンパされるという性的指向に沿わない不快な経験をしてしまったということです。
 ところで、性同一性障害の世界では、これと逆の現象がしばしば見られます。MtF(Male to Female 男から女へ)の方で、性自認が女性で「私は女なんです」と主張しているのに、周囲から「あなた、女に見えないよ」と言われてしまうケースが問題になっています。性自認は女性なのに、性他認は男性という不一致です。
 つまり、「男の娘」の世界と性同一性障害の世界でパターンは逆ですが、同じような性自認と性他認の不一致による混乱が起こっているということです。「男の娘」の方は遊びの要素が強いですから笑って済ませられますが、性同一性障害の方のパターンは、社会生活にいろいろ支障をきたし、よほど深刻です。性自認が女性であるにもかかわらず女性の性他認が得られないのは、女性としての性別表現が不十分なことに原因があることが多いので、私は機会があるとそういう方たちのために、女性的なしぐさや歩き方のレッスンをしていますが、男性としての生活が長かった中高年の性同一性障害の方の場合、なかなか大変なのが実際です。
 それはともかく、現代の日本では、男に見えるから男、女に見えるから女というふうに、もう単純に言えなくなってきているということです。「男なるもの」と「女なるもの」の境界がかなりぼやけてきて、境界領域が幅広くなっている。社会の中で自明と思われていた性別認識が、実はかなり揺らいできているということ、それが大事なポイントではないかと思うわけです。

「男の娘」の可能性
 最後に「男の娘」の可能性です。「男の娘」というネーミングがいつまで続くかわからないので、「男の娘」を含むトランスジェンダーの可能性ということになると思いますが、21世紀の日本におけるの「男なるもの」と「女なるもの」の境界に位置するサード・ジェンダー的存在として、世の中には男と女しかいないのだという性別二元制、あるいは体が男なら男、体が女なら女というような身体構造を絶対視する性別決定論、さらには。男なら女が好き、女なら男が好き、そうでなければいけないというような異性愛絶対主義などを揺るがしていく存在になる、そんな可能性、期待感を持っています。
 話し始めて1時間たちましたので時間切れですが、せっかくなので最後にNHKワールドの「(NEWS LINE)Boys Will Be Boys?」をご覧いただきましょう。
 (5分間ほど番組視聴)
 なにやら怪しい着物の先生が今日お話したようなことをコメントしていましたが、番組の後半は、早稲田大学の男子学生さんが卒業記念に横浜の「アルテミス」という高級女装スタジオに行ってドレスアップした卒業記念写真を撮るという話です。私、この番組の収録の時に、その早稲田の学生さんに「あなた、素顔を出しちゃって大丈夫なの?」と尋ねました。彼はある地方の公務員に採用が決まっていると聞いていましたので、昔ならこんな形で番組に出てしまったら採用取り消しになりかねません。それで、心配して「(素顔に)モザイクかけなくていいの?」と言ったわけです。そうしたら「私、面接のときに『趣味は女装です』と言って合格していますから、問題ありません」という返事でした。ここでも、世の中つくづく変わったなと思ったわけです。
 今日は、日本の長いトランスジェンダーの歴史の中の、いちばん新しい現象である「男の娘」についてお話しました。ご清聴ありがとうございました。(拍手)


【追記・「男の娘」をめぐるその後の動向】
 2012年11月20日、男の娘を主人公にした映画『僕の中のオトコの娘』(窪田將治監督、12月1日公開)公開記念イベント「オトコの娘サミット2012」が開催された(東京新宿歌舞伎町「ロフトプラスワン」)。
(47).jpg
 年が明けた2013年2月17日には『毎日新聞』が「S ストーリー」という企画記事で「月一度『封印』を解くー女子化する男たちー」(鈴木敦子記者)と題して社会的視点から「男の娘」問題を1面の一部と4面の全部を使って大きく取り上げた(http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2013-02-18)。

【参考文献】
三橋順子「現代日本のトランスジェンダー世界 -東京新宿の女装コミュニティを中心に-」
三橋順子「『女装者』概念の成立」
三橋順子「女装者愛好男性という存在」
(以上、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部 2006年)
三橋順子「往還するジェンダーと身体-トランスジェンダーを生きる-」
(鷲田清一編『身体をめぐるレッスン 1 夢みる身体 Fantasy』 岩波書店 2006年)
三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書 2008年)
三橋順子「変容する女装文化 -異性装と自己表現-」
(成実弘至編著『コスプレする社会 -サブカルチャーの身体文化-』せりか書房 2009年) 
三橋順子「異性装と身体意識 -女装と女体化の間-」
(武田佐知子編『着衣する身体と女性の周縁化』思文閣出版 2012年)

【講演録】性別違和感を抱く学生に教職員はどう対応していくか [論文・講演アーカイブ]

2014年7月27日、明治大学(駿河台)で開催された「第53回学生相談室夏期セミナー」に呼んでいただき、「性別違和感を抱く学生に教職員はどう対応していくか」というテーマでお話しました。
その記録が『学生相談 2014年度 学生相談室報告』(明治大学学生支援部 2015年6月)に掲載されました。
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学外者には入手が難しい学内誌なので、全文をここに掲載します。
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明治大学 第53回学生相談室夏期セミナー 講演
「性別違和感を抱く学生に教職員はどう対応していくか」
            2014年7月27日(日)
                文学部 兼任講師  三橋 順子

はじめに
皆さん、こんにちは。三橋順子です。明治大学に非常勤講師で呼んでいただいて3年目になります。簡単に自己紹介しますと、私は、男性から女性へのトランスジェンダーですが、戸籍は生まれたときの性別、名前で変えておりません。1995年くらいから社会的には女性として、講演、著述、あるいは教育活動をしてきました。女性としてそれなりに実績はあったわけですが、実は、明治大学から講師のオファーがあったとき、すんなりとはいきませんでした。「お引き受けします」とお返事した後、履歴書段階で1~2カ月ほど手続きが止まってしまったのです。理由は履歴書の性別欄の記載です。私は履歴書の性別欄を空欄で提出しました。私の性自認からして「男」とは書けませんし、男女雇用機会均等法の趣旨からして性別の記載は強要されるべきではないと考えますので。それに対して人事課は「性別欄が空欄なのは前例が無い。戸籍通りちゃんと男性と記載してください」ということでした。私から明大で講義をさせてくれとお願いしたわけではなく、明大から依頼してきたことですので、「それなら結構です」と申しましたら、やっと人事が動いたということがありました。性別記載で引っ掛かってしまうということが、まだまだ日本の現実としてあるということです。明治大学だけが理解がないわけではなくて、日本社会のシステムが男女二元で、しかも硬直的で融通が利かない。それが性別を越えて生きるトランスジェンダーの人たちをどれだけ生きにくくしているかという事例としてお話しました。今日はそうした問題をどのようにクリアしていけばよいかというお話をいたします。

1 基礎知識として
今日のテーマは「性別違和感を抱く学生に」ということですが、最初に基礎知識的なことを、三つお話をしておきましょう。
(1) 同性愛とトランスジェンダー
一つ目は、同性愛とトランスジェンダーの違いです。学生も一番ここが分からないと言うので、こんな説明をします。同性愛は、男が好きか女が好きかという性的指向sexual orientation問題であって、自分が男であるか女であるかというgender identity性自認(性同一性)の問題ではありません。誰を好きになるかという相手の性別がマジョリティーの人と違っているのが同性愛です。トランスジェンダーは自分が男であるか女であるかという性自認gender identityの問題で、男が好きか女が好きかというsexual orientationの問題ではありません。男として生きるか女として生きるかという自分の性別の在り方の問題です。

(2) 性別違和感(Gender Dysphoria=GD)とは?
基礎知識の二つ目は、性別違和感gender dysphoriaとは何かということです。一般的には、自分の性別に対する心理的な違和感が性別違和感です。性別違和感を考える場合、基本になるのは自分の性自認、自分を男と思うか、女と思うかということです。自分は男だと思っているのに、身体が女である、生理が来る。あるいは、自分が女だと思っているのに、男性の身体である、声変わりをしてしまう、髭が生えてくるというような性自認と身体の性のズレが身体違和です。
ズレ(違和感)はそれだけでなく、性自認と社会的性(ジェンダー)の間にも生じます。自分が女だと思っているのに、世の中からは男として扱われる。「あなたは、戸籍は男でしょう。だから男として扱いますよ」ということです。自分は男だと思っているのに、「あなた、戸籍上は女でしょう。女性のほうに入りなさい」と言われてしまう。性別違和感は性自認と身体の間、性自認と社会的な扱いの2カ所で生じます。ここがポイントです。身体のほうの違和感は大学でどうこうできる話ではありませんので、医学的な対処が必要になりますが、社会的な扱いに関しては、世の中の一部である大学でも対応できる問題ということになります。
心が女なのに身体が男であるというのはやはり辛いわけで、何とかズレを直そう、整合性を回復しようとします。自分は女だと思っているのに世の中から男として扱われるというのはとてもきついことです。さっきの私の履歴書の話ですが、あの時は精神的に相当きつかった、かなり落ち込みました。そのあたりは、性別違和感がない方にはなかなか理解をしていただけないと思いますが。性別違和感というのは、ギザギザ、トゲトゲした、やっかいな嫌なものなので、何とかそれを解消しようと努力します。つまり、性別違和感は、性別を移行していく原動力になるわけです。

(3) 性同一性障害(Gender Identity Disorder=GID)とは?
基礎知識の三つ目は、性同一性障害とは何かということです。性同一性障害は、Gender Identity Disorderという英語の疾患名の日本語訳です。先ほど、性別違和感は性自認(性同一性)gender identityと身体的性sex、性自認と社会的役割gender roleの2カ所で生じると申しましたが、その2カ所の不一致に起因する性別違和感がどんどんひどくなっていった結果、著しい精神的苦痛や、社会生活・職場における機能障害、つまり、社会生活がうまくいかない、あるいは学校や職場でそこにうまく身をおけないという形になって、医療のサポートが必要になった状態をいう精神疾患概念です。「性同一性障害は病気ではないと思います」という学生がときどきいますが、「性同一性障害というのは精神疾患の名称なので、それを病気でないというのは概念矛盾で、成り立ちませんよ」と説明します。ただし、性同一性障害というのは性別違和感を原因とする社会的不適応の病であって、性別違和感を持っていること自体は病気ではないということです。ここはマスメディアが心の性と身体の性がズレていることが病気だというような説明をすることが多いのですが、それは間違いです。実は、自分の性の在り様が何かズレている、違和感があるという人は、けっこう多いのです。それは違和感の程度の問題でして、違和感があること自体を病にしてしまうのは、問題があると思います。そのような状態をとても苦痛を感じていて、社会生活上、不適応を起こしていることが病であると捉えないといけないと思います。

2 「性別違和」の現在
(1) この15年間の流れと最新の動向
次に、日本で性別移行の問題が社会的に浮上したこの15年ぐらいの流れをざっとおさらいしておきます。もちろんそれ以前から、性別を変えようと努力したいろいろな人がいたわけですが、やはり起点は1996年です。私立の埼玉医科大学の倫理委員会が、形成外科の教授から申請があったSex Reassignment Surgery、「性転換手術」、現在で言う「性別適合手術」を正当な医療行為として承認したことがニュースになりました。これはあくまでも一大学の倫理委員会の判断で、本来はそんなに大げさに報道することではないと思うのですが。それを受けて97年の5月に、日本精神神経学会が「性同一性障害に関する答申と提言」という、私たちが「ガイドライン」と呼んでいるものを出しました。これもかなり大きなニュースになって、このあたりから性同一性障害という病名が『現代用語の基礎知識』などにも載るようになってきました。98年10月に埼玉医科大学が「ガイドライン」に基づいたものとして初めての性別適合手術を実施しました。あくまでもガイドラインに基づいたものとしては初めての手術であって、性別適合手術自体は日本では1951年、世界でも指折りに早い時期からやっています。これは私が調べたことですが。
そんな流れの中で2002年の8月に六大学「学生相談」連絡会議で「性別違和を抱える学生をどう受け入れるか」という講演をさせていただきました。会場は中央大学で、私は中央大学の社会科学研究所の研究員という立場でした。その、きっかけは明治大学だったように覚えています。明大で、自分は男ですという女子学生、つまりFtM(Female to Male)の学生さんが出てきて、教授会で問題になったというお話でした。「問題になったというのは、対策が問題になったのですか」とうかがったら、そうではなく、「『明治大学の学生ともあろうものがけしからん』とある教授が言い出した」というお話でした。今からすると、とんでもない無理解ですが、この頃は、明大だけがそうだったわけではありません。
早稲田の学生部の方が「うちはいないと思います」と言ってきたので、「早稲田大学の学生数って6万人でしたよね。6万人いていなかったら、それはそういう人たちを選別して落としているという意味ですか」と尋ねたら「いや、そんなことしていません」と言う。「だったら、いるに決まっているんです。プライバシーの問題があるから誰ということは言えませんが、早稲田大はニューハーフ業界でもかなり名門ですよ」とお返事しました。法政大はカルーセル麻紀さんのお師匠さんの「青江のママ」さんが法政大の学徒出陣ですからもっと名門ですね。後でまた申しますが、性別の悩みを持った学生さんというのは、東京の私立の大きな大学だったら確率的に必ずいるのです。ただ、それがきちんと認識されていない、あるいは本人が隠しているというだけの話なのです、ということをそのときの講演で、お話しました。
あの講演、少しは効果があったかなと思います。例えば慶應義塾大学で、MtF(Male to Female)の学生さんの就職がなかなかきついということで、大学の職員として雇用してくださった例がありました。もちろん、本人にそれだけの能力があったからでしょうが。
大きく流れが変わったのは、2003年です。7月に「性同一性障害者の性別取り扱いの特例法」(GID特例法)が成立し、翌年の7月に実施されました。この7月でちょうど実施10周年になります。これを大学に関係させて言うと、大学の学部あるいは大学院在学中に学生・院生が性別の変更を行うことが合法的に現実のものになったということです。あるいは、教職員の方で性別を変更する方が出てくるかもしれないということです。
少し飛びますが、2013年、文部科学省が全国の小中高校と支援学級を対象に、いわゆる性別違和に悩む児童、生徒の一斉調査というものをやりました。本当に一斉調査なのかという疑問もあるのですけれども、私は良い面と問題な面と両方を感じています。結果的に性別違和を持つ児童、生徒は606人。うち性同一性障害の診断をすでに受けている児童、生徒が165人という結果が出ました。実際はもっといるはずです。ただこれも、どの範囲を性別違和と捉えるかによってだいぶ人数が違ってきます。何度も言いますが、この問題がとてもややこしいのは、どの程度の性別違和感までを病理として把握するかということです。
例えば、私は明大で260人ぐらい受講生がいます。後期、山梨の都留文科大学でも240人ぐらいを持っています。だいたいその200人越えぐらいの人数で、コメントシートやレポートなどで、自分の性別違和を書いてくる学生がだいたい毎年2~3人はいます。不思議なことになぜか女子学生が多いのですが。周囲が女の子扱いするのが嫌で学校に行きたくなかったというような、かなり辛い性別違和を経験している例もあります。その時点で診断を受けたら、多分、性同一性障害の診断が出るだろうと思います。ところが、その学生とたまたま面談すると、一応女子学生で適応していたりします。本人は「まだ今でも違和感があります、すっきりしない部分はあります。だから先生の授業を取りました。でも何とか女子大生でやっています」という感じですね。そういう学生たちは、今後、病院へはたぶん行かないでしょう。だからそこまでを病理の範囲に入れるか入れないかで、かなり話は違ってくるのです。
最新の状況についてもお話ししておきましょう。実は今、国際的な動きがいろいろあります。2013年5月にアメリカ精神医学会のマニュアル「精神疾患の分類と診断の手引き」の改定が行われ、「DSM-5」と言われる第5版が施行されました。そこで、gender identity disorder、日本語でいう性同一性障害をgender dysphoria性別違和という病名に置き換えました。ただ病名を変更しただけではなく、診断基準も手直ししているので、置き換えたという言い方をしています。その結果、アメリカでは、すでにgender identity disorder、性同一性障害という病名はなくなりました。やはり「disorder」という部分に抵抗感を強く持つ当事者が多いのです。これはアメリカの診断基準ですから、どう変えようが、本来なら日本は関係ないはずなのですが、実際には日本の精神科医もかなり影響を受けています。日本のメンタルクリニックや心療内科へ行くと、「どうされました?」と尋ねる先生の後ろの書棚に分厚いDSMのマニュアルが飾ってあることが多いのです。ちゃんと読んでいるかどうかは知りませんが、影響力はすごくあるのです。
さらに、日本は国際連合に加盟していて、国連の専門機関である世界保健機関WHOのメンバーです。WHOにはICDと言う疾患リストがありまして、本来はこちらが日本で診断マニュアル化されるべきものです。そのICDの改訂作業が現在進行中で、新しい第11版、ICD-11の施行が2017年に予定されています。性別違和に関して、かなり大きな改訂になりそうで、まず確定的なのは、gender identity disorder性同一性障害はなくなります。何という病名に置き換えるかまだ決定ではないのですが、どうもgender incongruence、性別不一致という病名に置き換えられそうです。さらに重要な変更は、今までの精神疾患のカテゴリーから「その他の疾患」のカテゴリーに移す案が有力視されています。そこらへんの情報は2014年2月にバンコクの国際学会で仕入れてきた最新のもので、日本で知っている人はまだそんなに多くありません。
このまま実現すれば、gender identity disorder性同一性障害という病名は、国際的な疾患リストから完全に消えます。ですから、日本でも病名を変えなければなりませんし、「性同一性障害者の性別取り扱いの特例法」という法律名も変えなければいけなくなります。そして性別移行の脱精神疾患化が達成されることになりますが、この点はまだ少し不確定な要素があります。
ということで、現在は過渡期でありまして、2000年代に入って高まってきた性別移行の脱精神疾患化という世界的な流れが結実するかどうか、微妙なところに来ています。日本はそういう世界的な潮流にはまったく鈍感ですが、いずれそういう方向に行かざるを得ない、行くべきだということです。

(2) 性別移行システムの問題点
問題点を整理しておきましょう。2000年代、「GID特例法」制定の前後からにメディアが活発に性同一性障害について報道をしました。しかし、その報道は医療側の言説をそのまま流すという形で、病気だから仕方ないから戸籍を変えるのだという流れになってしまい、本来、考えなければいけない性的マイノリティの人権という視点が希薄化してしまいました。病気ということなら認めましょうという流れ、性別移行の病理化が一気に進行してしまったのです。それでうまくいった人もいるわけで、それはそれで結構なのですが、世界の流れは、2000年代に入って、むしろ病理化ではなく脱病理化、具体的には、性別移行を精神疾患概念からどうやって外していくかという脱精神疾患化の方向に向かっていました。ところが、日本は世界的な潮流とまったく逆行して、この10年間に病理化を推進してきたわけで、大学も「対応しますから、診断書を出しなさい」、さらに高校や中・小学校まで「診断書を出しなさい、診断書を出したら対応しますよ」という、形になってしまいました。性同一性障害概念の流布によって、性別移行の病理化が極端に進みすぎてしまい、病理を前提にしないと社会的対応ができないような仕組みができてしまいました。これは大きな問題です。今後、こうした病理を前提にしたやり方を人権を前提にした考え方に変えていかなければなりません。
先ほど申しましたように、弱い性別違和を持つ人は、けっこうたくさんいます。おそらく100人に数人レベルでいると思います。弱い性別違和をもつ人たちの多くは自然に解消する、あるいは自分で折り合いがつく可能性があるわけで、病理化する必要はないのです。ところが、医者の中には、性別違和感を持つ人すべてを病理化しようとする、性同一性障害の診断基準から外れるような弱い違和の人までを性別違和症候群として把握するような形が理想とする医師もいます。病理化の徹底ですね。そこには、自分にふさわしい性の在り様を自分で選んで決定するのは人権の一つであるという発想がないわけで、まったく困ったものです。
性別移行の当事者の方も、戸籍の性別変更が目的化してしまって、「GID特例法」の要件をクリアするため、ともかく性別適合手術をするという状況が生じています。必ずしもしなくてもいい手術まで受けてしまう過剰な医療化です。今、世界的にはIDカードなどの性別の書き換えに手術を要件とするのは人権侵害だという方向になっています。つい1カ月ほど前に、WHOが性別の移行に関して性別適合手術を要件化するのは人権侵害という勧告を出しました。日本の「GID特例法」は手術して生殖機能を喪失しないと性別の変更は認めない形ですから、WHOの勧告に完全に抵触します。日本の現状は、世界の性転換法の中で人権意識の低い、遅れた形になってしまっています。
病理化の徹底、過剰な医療化を進めながら、実は国内の医療施設がまったく足りません。患者は激増したのに、医療施設が増えないのです。だから手術をするのにみんな海外、主にタイへ行かざるを得ない。日本の医療というのは、面倒くさいことは全部外注してしまう傾向がありますが、まさにその典型です。
過剰な医療化、あるいはアンバランスな医療化の弊害が実際に出てきています。性同一性障害の診断を受けたのにジェンダーの移行がなかなか進まない。これは何か違う精神的な原因で引っ掛かっていると思われます。さらには、性別適合手術を受けて戸籍変更までしながら、新しい性別で社会適応ができない。たとえば、身体の外形も戸籍も女になりました。だけれど女性として社会適応ができませんというケースが増えているように思います。大学でこういう形が出てくると、なかなか対応が難しいことになります。

(3) 性別違和の人口比
性別違和を抱える人はだいたいどのぐらいの比率なのか、皆さんけっこう気になるのではないかと思いますので、その話をしましょう。
もともと欧米では、私のような男性から女性への移行を望むMtFが3万人に1人、逆に女性から男性への移行を望むFTMが10万人、つまり、MtFとFtMの比率は3対1と言われていました。このデータ、実はあまり信用度が高くないのですが、日本で90年代末に性同一性障害の問題が浮上したとき、どうも日本はFTMが少し多いのではないか、MtFが1~2万人に1人、FtMが3万人に1人、MtF対FtMの比率は2対1くらいに考える人が多かったと思います。ところが、どんどんどんどん差が詰まっていきまして、2000年代の初めぐらいには、MtF、FtMを通じてだいたい1~2万人に1人、MtF対FtMは1対1に近い。もうこの時点で、世界の研究者から「日本のデータが変じゃないか?」と言われ始めていました。さらに2008年ぐらいから、中高大学生ぐらいの若いFtMが急増して、MtFとFtMの比率が1対1.5~2と完全に逆転してしまいます。
私の授業では、2008年に放送された「ラストフレンズ」というテレビドラマの中で、ボーイッシュなレズビアンっぽい女性が性同一性障害だと思ってメンタルクリニックに行くシーンを学生に見せて、メディアのミスリードが現実世界に影響しているのではないかという話をするのですが、2008年ぐらいから様子ががらっと変わってきました。その後も女性から男性になりたい若い人の増加傾向がずっと続いていて、現状MtFとFtMの比率は1対3、90年代とは完全に裏返しになっています。人口比で言うと、MtFが1万人に1人か2人。MtFはあまり変わっていません。FtMが1万人に3人くらいという状況です。現状、日本は世界で最も顕著にFtMの比率が高い国になっています。
性別違和が重く性別適合手術をして戸籍の性別変更をした人が、2013年12月末現在で、全国で4353人というデータが出ています。このペースだと2014年末には5000人を超えるのは確実ですので、だいたい2万人に1人が戸籍の性別を変更しているということになります。
10年前に法律ができたときには、こんなに多いとは思いませんでした。年間50人ぐらいだろうと予想していました。年間50人だと10年で500人ですから、10倍ぐらい予想より多いというのが今の状況です。
なぜ、こんなに多いのか、そしてFtMの比率がこんなに高いのか。とても重要な問題なのですが、誰もきちんとした説を出していません。私が頑張って考えているのですが…。要は、全体に増加傾向にあるということと、特にFtMが増えているということを頭に置いておいてください。
それから、2010年代に入ると、あるお医者さんの言い方で「確信的でない受診者」が増えています。以前、メンタルクリニックに来る人は、かなり確信的に「私は、心は女なのに、男性なのです」とか、逆に「俺は絶対男だと思うんだけど、女なんで何とかしてください」というタイプが圧倒的でした。ところが最近は、「自分の性別がよく分からない」とい言う人が増えてきています。これをXジェンダーといいます。数学で不明数をXとするのと同じです。そういう人たちは「自分はXです」と言います。男ではないと思うけれども女でもないMtX。女ではないけれども男でもないFtXというタイプです。これが現実にかなり増えていて、理由を考えなければと思うのですが、まだ調査が進んでいません。私は弱い性別違和までを病理化してしまった結果、本来だったら男女どちらかに折り合いをつけるべきところを折り合いがつけられない人が増えてきているのだろうと思っています。それから女性に多いと思うのですが、いわゆる成熟拒否、大人の女性になりたくない。できるだけ猶予期間を長引かせたいという人も含んでいると思います。
こういう現状で、数値モデルを整理しておきますと、弱い性別違和を持つ人が100人に2~3人、医療が必要な強い性別違和を持つ人がそのうちの100人に1人ぐらい、つまり1万人に2~3人という話になります。さらに戸籍変更に至るまでの人は、そのうちの8~9人で、10万人に5人、2万人に1人。ここはかなり確定的なデータが出ていますので、こんなモデルが作られるわけです。私はどちらかと言うと少なめに見積もっていますが、そんなに違ってはいないと思います。
明治大学の学生数は2万9千人だそうです。このモデルに合わせると、強い性別違和を持つ学生は1万人に2~3人ですから、6~9人ぐらいいて当たり前ということです。1万人に2~3人というのは全人口比ですから、大学在学年齢だともっと多いと思います。何10人ということではありませんが10数人いてもおかしくないということです。何度も申しますが、いて当たり前だという認識がとても大事です。
さらに言うと、まさに10代後半ぐらいの年齢層では、自分の性別がよく分かりませんというXジェンダー的な学生がだいぶ増えているはずです。おそらく「性同一性障害」のカテゴリーに入る学生と同じくらいいるかもしれません、かなり強い性別違和を持つ学生が仮に10人いたとしたら、曖昧な形で何か性別に悩んでいるような学生も、もう10人ぐらいはいるという勘定です。これだけいたらもう珍しい話ではありませんので、そういう学生が相談に来た時の対応マニュアルをきちんと作っておくべきです。ただし、マニュアルは、個々のケースに応じて弾力的に運用することが大事です。

3 大学はどう対応すべきか
では、大学は具体的にどういう対応をしていけばいいのかについてお話しします。ここからは私の主観的な意見になっていくわけですが、実を言うと12年前にお話ししたことと基本は変わっていません。自分でも頑固だなとは思いますが、12年前から言ってきたことが今、現実になっている感じがありますので、少し自信を持っています。

① いて当たり前という基本認識
先ほども申しましたように、ある程度の規模の大学なら強い性別違和感を持つ学生が在籍しているのは確率的に当然で、まったく特異なことではありません。いて当たり前だという基本認識を持ち、いると思って対応すべきなのです。不思議なことでも特異なことでもないということです。

② 基本的には本人の自主性に任せる(放っておく)
異性装、身体の性別とは違う服装をするとか、性別を越えて生きるということ自体は、病でも性的逸脱でもありません。客観的には「変わり者」かもしれませんが、現在の日本では法律で禁止されているわけでもありません。日本で異性装が違法だったのは、明治5~6年から14年(1881)までの約10年間、文明開花期だけです。基本的に、服装表現、性別表現、ジェンダーの選択は個人の自由で、人権として認められるべきものです。つまり、本人の自主性にまかせるべき問題で、そうした学生がいたからといって、大学のほうから積極的に介入する必要はありません。基本的には放っておくべきことなのです。性同一性障害なんていう話が出てくる以前にも、書類上は男子学生だけどずっと女の格好で大学に通っていましたという人は実際にいます。もちろん大学側は気付いていたはずですけど、処分するようなことはできませんし、結局そのまま「あいつは変わっているな」で卒業してしまったという話です。基本的には放っておく、でも、なにか困って相談に来たら、ちゃんと対応するということが大事なところです。

③ 環境整備に努める
性別を移行したい学生にとって一番困るのは、学生名簿の男女欄など、学内における性別記載です。日本の大学、例えば文学部だったら文学士という学位を出します。文学士男とか、文学士女という学位ではないわけで、男だろうが女だろうが……女子大は別ですが、明大は共学なので、いちいち学生名簿に男女欄とか男女の識別記号はいらないはずです。学生証の性別記載欄も同様です。性別で引っ掛かってしまう学生にとっては、引っ掛かる場所がたくさんあるのは辛いものなのです。
これは何も大学だけではなく、世の中がそういう方向に向かわないといけません。たとえば住民票の申請をするのに何でいちいち男女欄に丸を付けなければいけないのか。あるいは選挙で投票するのに、なぜいちいち投票場の入場券に男女と書いてあるのか。そういう問題を私たちトランスジェンダーは、10年以上、いろいろ問題化して社会に働きかけてきました。実際、ずいぶん減っているのです。私が住んでいる川崎市では、投票場の入場券に以前は男・女とはっきり書いてあったのが、記号化されてあまり目立たなくなっています。大学も同じように、環境整備としてそうした必ずしも必要でない性別記載欄を減らしていく方向で行くべきだと思います。
今ちょうどレポートの採点時期で、昨日も履修者名簿を見ていたのですが、明大の名簿には、名前の欄の尻尾のところに、女子学生だけ「F」という記号が付いています。これは必要でしょうか。前もそんなお話をしたら、名前を呼ぶ先生が、男なら何とか君、女なら何とかさんと、敬称を変える必要があるからというお話でした。でも、1回目の授業のときに先生が「この学生は女子」と個人的にチェックしていけばいいわけで、公的な名簿で性別表記をする必要があるのかということです。そもそもなぜ男子と女子で敬称を変えなければいけないのでしょうか。全員「さん」で問題ないでしょう。私が関わっている大学では、都留文科大学と東京経済大学の名簿には、性別を示す記号はありません。こういうことは慣例でずっとやってきたことなので、それに慣れているとなかなか変えにくいのかもしれませんが、本質的によく考えていただきたいと思います。実際に男女の別が必要なのはごくごく限られた、例えば体育実技などだけだと思います。体育実技だって男女一緒のスポーツでやっている場合は、そんなに必要もありませんね。

④ 何が障害になっているのかを聞く
先ほど申しましたように、基本的には放っておくべきなのですが、性別に悩みがある学生が相談に訪れた場合は、何が問題なのかをきちんと聞くことが大切です。この場合、悩みが性自認の問題なのか、あるいは性的指向の問題なのか、分別すること必要です。ただし、相談に来ている学生自身がよく分かっていないことがけっこうありますから、相談を受ける側がそこらへんを整理しながら聞いていくことが必要になります。その学生にとって何が一番の問題なのか。たとえば、自分は男なのに男が好きということで悩んでいるのか、自分は男なのだけど、どうもそれに馴染めない、自分の中身が女のほうにズレているという悩みなのか、ということです。
実は、前に触れた文科省の全国一斉調査は、この部分の指示がないのです。つまり、性に違和感がある、友達と性のあり方が違うという子供が、それは性的指向が違っているのか、それとも自分の性別に対する違和感なのか、小学校段階できちんと分別がつくはずがないのです。中学生だってあやしいです。それを一緒にして、あたかも性同一性障害の予備軍的に見るのは大きな間違いです。人数的には性同一性障害よりも同性愛のほうが圧倒的に多いはずですから。
先日、朝日新聞の教育欄に、大学におけるLGBT――レズビアン、ゲイ、バイ・セクシャル、トランスジェンダーの学生のサークルがすいぶん増えてきたというニュースが載っていました。明大の私の受講生にも、そういうサークルを立ち上げて熱心に活動しているレズビアンの女子学生がいます。各大学を結ぶインターカレッジ的なつながりもできてきているようです。
ゲイ、レズビアンの学生たちは、自分たちで何とかやっていける人も多いのです。それに対して、性別違和を抱える学生は、身体の問題もありますので、悩みを内に抱えてしまう傾向があり、そういう学生が相談に来る可能性が高いと思います。その場合、最初から性同一性障害という病気と決め付けるのではなくて、何に困っているのかから入るべきです。例えばトイレ。性別の問題が引っ掛かる人には、いわゆる「誰でもトイレ」(多目的トイレ)を使うようにアドバイスするのが一般的ですが、私の講師控室があるリバティタワーの3階は、少し進みすぎていて、車椅子でも入れるトイレが男女別に…女子トイレの中にあるのです。そうなると、またややこしい状況が出てくるわけです。トイレの問題は、性別に悩みがある学生には切実な問題なので、大学のどこかに誰でも使えるユニバーサルなトイレが確保されていることが必要です。

⑤ 知識を提供する
性の問題というのは多様ですので、適当な参考書を紹介して知識を提供して、その多様な性の形態の中からもっとも自分にふさわしいジェンダー&セクシュアリティのあり方を自分で選択させることが大事です。具体的には野宮亜紀、針間克己ほか著『性同一性障害って何? ―一人一人の性のありようを大切にするために (プロブレムQ&A)』(緑風書房、2011年増補改訂版)などがよいでしょう。私もジェンダー論の授業の最初と最後に、「この授業が皆さんにとって一番心地よいジェンダー・セクシュアリティのあり方を見つけるための手がかりになればうれしいです」という話をします。これは性的なマイノリティの人たちも全く同じで、自分が何なのだということをきちんと自分なりに理解をしていかないと、自己肯定感が生まれないのです。セクシュアル・マイノリティはゲイ、レズビアンでもトランスジェンダーでもそうなのですが、最終的にはマジョリティーとは違う自分の性のあり方を、私はこうなのだ、私はこれでいいのだと自己肯定できないと、悩みはいつまでも続いてします。私などもある程度の自己肯定はできても、なかなか100パーセントの自己肯定には至りません。その難しい自己肯定の材料をどう与えていくか、サジェスチョンをしていくか、とても大事だと思うのです。

⑥ 必要な場合は専門医を紹介する
自分の体が嫌で嫌で仕方がないというような強い身体違和、FtMだったら生理が来るたびに死にたくなるとか、MtFだったらシャワーを浴びるたびに自分のペニスを切断したくなるようなケース。あるいは、ジェンダー違和が強くて、家から出られない、学校にも行けないような性別違和感に由来する社会的不適応を訴える学生は、放置できません。放置をすると本当に自殺を企ててしまうか、修学が継続できなくなってしまいます。そういうケースでは、性同一性障害の専門医を紹介して、専門的なカウンセリングを受けるように方向付けることが必要です。
この点については、明治大学駿河台校舎は日本一恵まれています。日本における精神科領域の性別違和、性同一性障害問題の第一人者である針間克己先生が2008年に神田小川町3‐24‐1に「はりまメンタルクリニック」を開院したからです。私はリバティホールで授業をやっていますが、リバティホールからだと信号に引っ掛からなければ3分で行ける距離で、本当にすぐそこです。私が明大で初めて講義を持った2012年前期、「あれ?何か社会人学生にしてもばかにひねた大人が後ろのほうで聞いているな」と思ったら針間先生でした。たまたま先生のクリニックは火曜日の午後が休診で、私の講義が火曜日の午後の1コマ目だったので聴講していたのです。東京大学医学部を出た先生が、私なんかの講義を聞いて少しでも勉強しよういう謙虚な姿勢、すばらしいです。ただ、明大の授業をただ聞きしていたわけですから、何かあったときに少し無理を頼んでも嫌とは言えない立場です。専門的なカウンセリングが必要な学生がいたら、ぜひ紹介してください。残念ながら、性同一性障害の診察で、私が自信を持ってご紹介ができるメンタルクリニックは、東京近辺に3つしかありません。他に千葉県浦安市の阿部輝夫先生の「あべメンタルクリニック」、埼玉県さいたま市の塚田攻先生の「彩の国みなみのクリニック」ですが、針間先生のところが一番近いです。

⑦ 学内で可能な限り対応措置をとる
MtFが学内での女性扱い、FtMが男性扱いを希望する場合は、通称名の学内使用をはじめ可能な限り対応措置をとっていただきたいと思います。ただ、なかなかやっかいなのは、希望する性別への適合度です。一目見て、「あなた、どう見たってそれで男子学生は無理でしょう、女子学生の方が自然でしょう」というようなMtF、あるいは「それで女子学生は無理でしょう」というようなFtMの学生だったら大きな問題はないと思います。しかし「う~ん、微妙と」というケースもしばしばあります。そうしたケースは、ある程度、1年くらいの観察期間が必要だと思います。中には精神的に不安定な学生もいて、ガーッとどちらかの性別に偏って、少しすると熱が冷めるというようなケースもあります。あまり性別をコロコロ変えられるのは、大学の事務としては困るでしょうから、基本的には、4年間、卒業までの継続性を前提に、学生が求める措置を取って欲しいと思います。

⑧ 性別移行プロセスへの協力
在学中に戸籍名を望みの性別にふさわしいものに改名したり、戸籍の性別を変更したりする学生、院生が出てくることは、現在の性別移行システムで十分にありうることです。現在のガイドラインでは、クロスホルモン―男性だった人に女性ホルモンを投与、女性だった人に男性ホルモンを投与すること―は、場合によっては16歳から可能です。戸籍の変更要件は20歳以上になっていますが、外国で性別適合手術を受けるだけならその前でも可能です。つまり、入学以前からクロスホルモン投与を受け、在学中に性別適合手術をして、戸籍の性別を変更して、卒業証書は新しい名前と性別でもらって、望みの性別で社会に巣立つという人生計画を立てる学生が出てくるということです。それは現在、認められている性別移行システムに沿ったものなので、そうした性別移行のプロセスに、大学はできるだけ協力をしてあげてください。

⑨ いっそうの就労支援
問題は、戸籍の性別変更がまだ済んでいない学生、あるいは、性別は移行するけども戸籍の性別まで変えるつもりはない学生の場合です。そうした学生の場合、最大の難関は望みの性別での就労です。私もそれでさんざんそれで引っ掛かってきたわけです。日本の大学は非常勤でトランスジェンダーの教員を任用するところまでは来ていますが、常勤ではまず採らないでしょう。それが日本の現実です。ただ、この点に関しては、日本が遅れているわけではなく、外国だと非常勤でもトランスジェンダーは採用しない国はけっこうあります。日本は非常勤ではあるけれど、トランスジェンダーを大学教員に採用していますという話をしたら、外国の研究者に「great、素晴らしい」言われたことがあります。私の場合、年齢的にもう仕方がないなと諦めていますが、若いトランスジェンダーの学生にとっては、やはり就職が最大の難関です。前から言っていることですが、就職課が格別の配慮、一般学生に不平等にならない程度にできるだけのバックアップをしていただきたい。能力が十分にあるトランスジェンダー学生が性別の問題だけで就職ができないということは、その学生だけでなく、社会全体にとっても損失ですし、それは何とか避けたいと思うわけです。
性同一性障害の場合、会社に入ってから性別移行をしたとして、それを理由にした解雇は違法という判例が固まっていますので、入社してからは首を切れません。性同一性障害を理由に解雇して裁判になったらほぼ確実に会社側が負けます。さすがだなと思ったのは、判例が出た頃に企業の総務課や人事課の人たちが読む専門雑誌に、さっそくその判例が紹介されていました。きちんと勉強している企業の労務管理担当者は知っているはずです。ですが、採用段階での就労差別はかなりあります。「戸籍を変更されてからもう一度当社をご受験ください」という形で門前払いするケースです。ですから、学生にしてみると、とりあえ生得的な性別で入社して、入ってから性別を移行するという手もなくはないです。でも、「就職のときは、そのことを隠していたのか」という信義の問題になりかねませんので、なかなか難しいところです。何度も言いますが、就労問題が最大のネックですので、何とかバックアップしていただきたいと思います。

⑩ 望みの性別で生きて行くための社会訓練の場としての大学
実は今、小・中学校では、性別違和を抱える児童、生徒がいると、隔離的、特別に扱って「どこどこの病院へ行って診断書を取って来てください」というように、問題を性同一性障害医療に委ねてしまう形がけっこう多くなっています。大学レベル、ましてや明治大学みたいなトップクラスの大学だったら、そんな安易な方法は採らないと思います。医療の手に委ねてしまうのではなく、大学という一つの社会で性別違和を抱える学生を受け入れていくという姿勢が望まれるわけです。トランスジェンダーの学生が望みの性別での生活を円滑にできるようになるためには、トレーニング期間が必要です。いずれ望みの性別で社会に出て行かなければならない学生にとって、大学の4年間プラスアルファが、トレーニング、社会訓練の場になるわけです。大学はそれをサポートする方向で対応してほしい、そうした姿勢を持って欲しいということです。
私は2002年に「トランスジェンダーと学校教育」という論文を書いているのですが、私が書いた論文の中で一番読まれません。どうしてなのだろうと思うのですが、どうも、現実の学校現場の先生とだいぶ意識が違うようなのです。たとえば、先生方は「男女別に並べるときにどうしたらいいのですか?」と質問してきます。私が「男女別に並べること自体を考え直した方がよろしいのではないですか」と返事をすると、ものすごく不満な顔をされてしまいます。前例が無いケースが出て来た時には、前例に合わせようとするのではなく、従来のシステムを再検討して新例を開くという姿勢が大事だと思います。

おわりに
2014年2月にタイのバンコクでWPATH2014という国際会議が開催されました。WPATHというのはWorld Professional Association for Transgender Health、トランスジェンダーの健康のための世界専門家会議という団体です。今回が第23回でしたが、今までずっと欧米で開催されていて、今回が初めてのアジア開催でした。そこでアジア・太平洋地域のトランスジェンダーをできるだけ集めて「Trans People in Asia and Pacific」というシンポジウムをやろうということになりました。とはいえ、これがなかなか大変で、トランスジェンダーは、お金持ちではない人がほとんどなので、飛行機代、滞在費を世界開発機構、世界エイズ会議など国際連合の4機関が資金提供して、アジア・パシフィック10カ国、最終的は日本も入って11カ国のトランスジェンダーがバンコクに集まりました。私も招待状をもらったのですが、日本はOECD加盟国で、世界開発機構ではお金を出す立場でお金をもらう立場ではない、だから日本の研究者には資金提供はできないから旅費と滞在費は自分持ちで来てくれ、というという話で、「それはあんまりな・・・」と思いました。お金のことはともかく、世界のどの国にも、トランスジェンダーはいるということです。いろいろ困難な状況はあるけれども、それぞれの国でそれぞれの社会の中で頑張って生きているわけです。
そうしたシンポジウムで、とても考えさせられたことがありました。全部で12人が各国の事情を報告したのですが、12人のうち11人がMtFなのです。私以外のMtFは、フィリピン、インドネシア、タイ、ネパール、インド、そしてトンガ、みんな英語がペラペラで、パワーポイントできちんと資料を作ってきて、しっかりプレゼンテーションをできる能力があります。ところが、FtMの人はそうしたプレゼンテーションができないのです。12人中1人だけ、しかもニュージーランドの活動家でしたから、少し事情が違います。
どういうことかと言いますと、アジアの国で、女性として生まれて女性としての教育を受けてきた人は、開発途上国における男女の教育格差を被ってしまうのです。女で育てられると、なかなか十分な教育が受けられない。それで男になっても、一定の知的レベルが求められる社会的活動がなかなか難しいのです。
この例のように、性別を変えて生きる人たちにとって、大事なのは教育なのです。社会に出て一般の人よりももっと厳しい状況の中で生き抜いていくための力になるのは教育です。教育をきちんと受けられるかどうかが鍵なのです。実は、日本もそういう傾向があって、日本で今FtMがこんなに多くなっているのに、日本から参加して報告したメンバーは2人ともMtFでした。残念ながら、国際学会で通用するレベルのプレゼンテーションができるFtMは、日本ではほとんどいません。なぜかというと、FtMの最終学歴は、MtFに比べて明らかに低く、高校中退レベルの人がかなりいます。そうした状況は徐々に改善されてきていますが、制服とかいろいろなことで引っ掛かってしまって修学が継続できず、その結果、低学歴で終わってしまって、学力やスキルが伴わないFtMがまだかなりいるのです。
社会の中でより良く生きていくための力を大学教育の中で身に着ける必要性は、一般学生でもトランスジェンダーの学生でもまったく変わりません。むしろトランスジェンダーであるがゆえにその必要性は高いのです。そのためには、何度も言うように修学が継続できる……きちんと卒業ができて、できることなら望む方面に就職ができるようなバックアップを、明治大学だけではなく全国の大学でぜひとっていただきたいと思います。
だいたい予定の時間になりました。3年前、明大に非常勤で呼んでいただいた時から、いつか講義以外でもお役に立てる機会があればと思っていましたので、今日はこういう機会をいただいて、とてもうれしかったです。どうもありがとうございました。
(紙幅の都合により、講師紹介及び質疑応答は割愛させていただきました。)

【参考文献】
三橋順子「『性』を考える-トランスジェンダーの視点から-」
 (シリーズ 女性と心理 第2巻『セクシュアリティをめぐって』 新水社 1998年)
三橋順子「トランスジェンダーと学校教育」
 (『アソシエ』8号 御茶の水書房 2002年)
三橋順子「トランスジェンダーをめぐる疎外・差異化・差別」
(シリーズ「現代の差別と排除」第6巻『セクシュアリティ』明石書店 2010年)

【報告記録】The transgender history of Japan [論文・講演アーカイブ]

2014年2月14日から18日まで、タイ・バンコクで「WPATH 2014 Symposium in Bangkok」が開催されました。

「WPATH 2014」は「World Professional Association for Transgender Health(WPATHトランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)」の2年に1度の世界大会で、23回目の今回は初めて欧米圏以外、アジア地域での開催となり、世界各地から520名の参加者がありました。

今回の「WPATH 2014」の大きな特色は、UNDP(国際連合開発計画)、UNAIDS(国際連合エイズ合同計画)、WHO(世界保健機関)、UNWOMAN(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)の支援でスペシャルセッション・シリーズ(連続シンポジウム)「Trans People in Asia and the Pacific」が開催されたことです。

私は15日の午後に行われた「SESSION 1: Cultural, legal and social environments」で、日本のトランスジェンダーの歴史と現在について報告しました。
持ち時間10分(厳守)ということで、不十分な点も多いのですが、以下は、その内容です。
なお、報告は日本語で行い、英語への翻訳は東優子さん(大阪府立大学教授)にお願いしました。
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「WPATH(トランスジェンダーの健康のための世界専門職協会)2014 Symposium in Bangkok」
「Asian and Pacific trans community leaders working in health and rights-SESSION 1: Cultural, legal and social environments」

(1) The transgender history of Japan
JUNKO MITSUHASHI (JAPAN)
080126 (3).jpg
(口頭説明)皆さん、こんにちは。三橋順子です。私はいくつかの大学で講義をしながら、日本のトランスジェンダー歴史について研究しています。
Hello, everyone. My name is Junko Mitsuhashi. I am a lecturer at several different universities and studying Transgender history in Japan.
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(2)Before 712
加佐登神社絵馬 (2).jpg
YAMATO TAKERU(The hero of the founding of the country)
(口頭説明) 日本は、女装の建国英雄をもつ国です。
Japan is a country whose founding hero was a cross-dressed man.
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(3)1764
江戸三美人 (2).jpg
(CENTER)SEGAWA KIKUNOZYO(Ⅱ)
Three beauties of Edo(Tokyo) by SUZUKI HARUNOBU 
(口頭説明)鈴木春信の「江戸三美人図」で、両サイドに生得的な女性を従えて、中央に立つのは女装の俳優です。
This is a famous painting titled “Three beauties of Edo” by Harunobu Suzuki. The person in the center is an actor who is cross-dressed with two natal females on either side.
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(4)1870s
大阪錦絵新話1 (3).jpg女装妻(東京日日新聞18751002) (3).jpg
The beginning of oppression 抑圧の始まり
(口頭説明)欧米の文明が入ってくると、異性装者への抑圧が始まりました。
左は女装で生活していて逮捕された男性、右は男性であることがわかり髪を切られた「妻」です。
Oppression against cross-dressers began with the introduction of Western influences. The image on the left is an article reporting a Trans woman being arrested by the police and the image on the right is a report about a wife whose husband cut her hair short after finding out that she was a he.
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(5)1930s
曾我廼家桃蝶.jpg女装男娼.jpg
(キャプション)(左)SOGANOYA MOMOCHO(ACTOR)
(右)FUKUSIMA YUMIKO(SEX WORKER)
(口頭説明)20世紀の前半、トランスジェンダーの生きる道は、女装の俳優かセックスワーカーだけでした。
桃蝶は女性雑誌の表紙モデルになり、ゆみ子は非合法売春の女性と思われ逮捕されました。
In the first half of the 20th century, the only way for transgender people to survive was either to live as a cross-gender actor or as a sexworker. Momocho Soganoya, on the left, made the cover of a women’s magazine. Yumiko Fukushima, on the right, got arrested for conducting illegal prostitution
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(6)1935
女装男娼の集合写真1.jpg
(キャプション)transgender sexworkers
(口頭説明)1935年頃、大阪の女装男娼の集会の記念写真。
女名前、男性としての本名、そして年齢が記されている。
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(7)1946~1959
上野の男娼 (2).jpg
SEX WORKER上野の女装男娼
女装芸者(伊東温泉チャコ).jpg
GEISYA女装芸者(伊東温泉チャコ)
銀座ローズ1.jpg
DANCER銀座ローズ
(口頭説明)第二次世界大戦が終わり、日本の旧秩序が崩れると、トランスジェンダーたちが再び社会の表面に出てきます。
After WWII, the Japanese old order collapsed and transgender people became more socially visible once again, and appeared on the surface of society.
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(8)1951  The first SRS in Japan
永井明子1.jpg
(キャプション)NAGAI AKIKO(SINGER 1924~?) 
永井明子2.jpg
(キャプション)Akiko’s “koseki” (family registry)
(口頭説明)日本最初のSRSは1951年に行われました。
これはクリスチーナ・ジョルゲンセンの手術とほぼ同じ時期です。
明子は、戸籍の性別も男性から女性に変更しました。
The very first recorded SRS was conducted in 1951. This is around the same time or even a bit earlier than when the world famous Christine Jorgensen had received SRS in Denmark. Akiko successfully changed gender from male to female on her “koseki” which is the Japanese family registry.
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(9)1960s~1970s 
新宿駅前の女装者.jpg
新宿駅前の女装者(1964) Cross-dressers in front of Shinjuku Station
新宿・梢 (3).jpg
女装者と女装者好きの男性が集まるバーができた(1969) Bar for trans* and tranny-chasers (1969)
結婚式1(美島弥生) (2).jpg
女装者と男性の結婚式(1971) Wedding photo with a man (1971)
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(10)1980s~1990s
ニューハーフ(ダンサー)2 (2).jpg
DANCER
女装スナック「ジュネ」(981220)(2).jpg 「HOSTESS」 ニューハーフ(セックスワーカー).jpg
SEX WORKER
(口頭説明)しかし、20世紀の末になっても、トランスジェンダーの職業は、ショービジネス、飲食接客業、セックスワーカーの3つに限定されていました。
それ以外の職業に就くことはとても難しい状況が続いていました。
But I must emphasize that even at the end of the 20th century, occupational options for Transgender people were limited to three domains: working in show business, as a hostess, or as a sexworker. It continued to be difficult to get a job and be professional in other areas of Japanese society.
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(11)2000
000921-1 (2).jpg000921-3 (2).jpg
A “cross-dressed” lecturer at Chuo University
(口頭説明)ですから、初めてトランスジェンダーが大学教員になった時の社会的反応はとても大いものがありました。
最初の講義日に3つの週刊誌が取材に来て、その後もテレビ・ニュースなどで紹介されました。
So, when I became a lecturer at a private university, the very first Transgender lecturer in Japanese history, there was a large impact on society. On my first day, three magazines came to take photos and get interviews, and it was discussed in the media even later on.
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(12)2010s
はるな愛CM1.jpg
HARUNA AI(1972~)
佐藤かよCM1.png
SATO KAYO(1988~)
(口頭説明)現在の日本には、テレビで活躍し、大企業のコマーシャルに起用されるトランスジェンダーもいます。
Currently in Japan, there are transgender people who have gained popularity on TV and make appearances in commercials for large companies.
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メッセージ
以上、日本のトランスジェンダーの歴史を駆け足でたどりました。
日本の前近代では、トランスジェンダーは、特定の職能をもって社会の構成員としての役割を果たしていました。
Transgender people in the pre-modern era, took roles with particular professional skills and functioned as members of society.
その職能は宗教的職能(シャーマン)がベースでした。
The basis of this work was as a kind of shaman.
日本の宗教には、異性装を否定する規範はなく、したがって、強い社会的抑圧はありませんでした。
In terms of religions, there were no norms that denied transgender people; thus, there was no strong social oppression.
宗教的職能(シャーマン)から芸能的職能、飲食接客的職能、性サービス的職能、男女の仲介者的職能が派生しました。
The role as a kind of shaman expanded to the entertainment business, service industry (e.g., a hostess in a bar), sex service, and match-making for men and women
抑圧が強まったのは、西欧文明が流入した1870年代以降のことです。
Strong social oppression occurred and continued from 1870’s as western influences came.
.現在の日本では、法律が定めた要件を満たせば戸籍の性別を変更することができ、性別を変更したトランスジェンダーは、MtFなら生得的な女性、FtMなら生得的な男性と同じに扱われることになっています。
Today, if the five conditions regulated by GID Law (established in 2003) are met, transgender people can change their gender on their “koseki” (Family Registry).
After changing their gender, Transmen and transwomen can be treated the same as natal male and female citizens respectively.
これは、1990年代末以降のGID医療の導入と2004年の法整備の成果です。
This rather drastic change occurred in the mid-1990’s when GID medicine was introduced and in 2004 when the GID law was enacted.
法律が定める要件に問題はあるものの、少なくとも法システム的には状況は大きく改善されました。
Although the five conditions forced on Transgender people by the law are somewhat problematic, I can say at least in terms of the legal system, the situation has been greatly improved.

しかし、GIDの診断を受けていなかったり、戸籍の性別を変更していないトランスジェンダーは、いまだに就労が困難な状態が続いています。
However, it continues to be difficult to get a job for Transgender people who have not been diagnosed with GID and/or have not changed their gender on their “koseki”.
これは、トランスジェンダーをめぐる社会状況の改善が、GIDという精神疾患をもつ人たちの医療福祉として行われ、性的マイノリティの人権という観点ではなされなかったためです。
This is due to the fact that recent social changes occurred in terms of improving medical and welfare situations of people with a “psychiatric” condition (GID), but not in the light of the human rights of a sexual minority.
今後、性別移行の脱医療化の流れの中で、日本においても、性的マイノリティの人権という観点から、就労問題の改善など、積極的な施策が取られるべきです。
As the de-pathologization of Trans* progresses, I hope, more active measures will be taken to improve our work situations in the light of human rights.
トランスジェンダーが、自らの意志で自由に職業を選択し、その能力を生かして社会に貢献できる社会を目指して、今後も教育と研究という私の仕事を続けていこうと思います。
I will continue my work as an educator and researcher, which I hope contributes to positive changes in our society so that Transgender people have occupational options, freely choose professions, and make contributions as members of society.
ご清聴ありがとうございました。



2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々) [石山寺縁起絵巻]

2012年06月13日 石山寺縁起絵巻を読む(逢坂山を行く人々)

6月13日(水)  曇り 東京 21.0度  湿度59%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
白・黒・グレーの不思議な柄のチュニック(5分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ

9時50分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。
少し手間取り、乗るべき電車を逃す。

10時40分(10分遅刻)、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授り、京に戻ろうと逢坂山を西に急ぐ場面。
石山5-1-10.JPG
逢坂山の「関の明神」(赤い鳥居の脚が見える)の前にさしかった国親の妻の一行。
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
当然のことながら、一行の服装は前の場面(石山寺の門に向かう場面)と同じ。
石山5-1-11.JPG
従者の男が振り向いた視線の先には、「関に清水」(板葺の覆屋)の前で僧侶が柄杓を差し出している。
しかし、帰宅を急ぐ国親の妻は見向きもしない。
石山5-1-12.JPG
「関の清水」を北側からみると・・・(巻3の第2段)。
石山3-2-2.jpg

国親の妻の一行の後方(近江側)に見える、米を運ぶ荷駄の一行。
石山5-1-13.JPG
京に向かっている。
黒馬の口には籠状の口枷。
馬方が黒馬の背に乗せた俵から米を抜き取っている。
明かな荷抜き行為で窃盗である。
しかし、前近代においては、こうした荷抜き行為は、一定の範囲(例えば1割とか)なら低賃金の輸送業者の「余禄」として許されていた(荷抜き慣行)。
依頼主も、承知の上だったと思われる。

国親の妻の先には、京の方面から騎馬の一団がやってくる。
石山5-1-14.JPG5人が馬に乗っているが、藁製の下鞍に粗末な木鞍で、本来、乗馬用とは思えない。
あるいは、荷駄の一行が運送業務を終えた帰り道だろうか。
なにやらなごやかな雰囲気なのは仕事帰りためか。
いわゆる「馬借(ばしゃく)」と呼ばれた人々か。

先頭の男は長い棒にまとめた縄を括りつけている。
石山5-1-15.JPG
次の男は、同じ長い棒に二匹の大きな魚(鯉?)を括りつけている。
棒に刺しているという解説(小松茂美氏)もあるが、一本の棒でこの形で魚を刺すのは不可能。
またこの棒は漁具の突き棒(やす)で男は漁夫であるという説明もあるが、この程度の鋭利さでは「やす」として役に立たないので無理がある。

この長い棒は、やはり運送に関係するものではないだろうか。
荷縄と対になっていることが、その証だと思う。

なお、2番目の男が乗る馬の尻尾は一回結わえられている。
長すぎて地面を掃くからだろうか。

3番目の男は、長い棒を弓に見立てて、頭上の獲物(鳥)を狙う仕草をしている。
その様子を2番目の男が振りかえって笑っている。

4番目は少年、やはり3番目の男の仕草に釣られて上を見ている。
やはり荷縄と笠を括りつけた長い棒を持っている。
鞍の後ろに小さな俵を載せている。
石山5-1-16.JPG
5番目の少年は、一行にやや遅れ気味で、馬を走らせている。
短衣の柄は白地に飛翔する鶴を染め出し、なかなかおしゃれだ。
石山5-1-17.JPG
4・5番目の2人の少年の姿は、少年の労働参加(見習い労働)という点で興味深い。

12時10分、終了。

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女) [石山寺縁起絵巻]

2012年05月09日 石山寺縁起絵巻を読む(門の下の巫女)

5月9日(水)  曇りのち雨 東京 22.4度  湿度63%(15時)

8時、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回に続いて巻5第1段の絵解き。

天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かった翌朝の場面。

石山寺を後にする国親の妻の一行。
石山5-1-6.JPG
観世音菩薩から授かった「利生宝珠」を捧げた国親の妻を先頭に2人の侍女と従者(男)が従う。
石山5-1-7.JPG
「利生宝珠」は大きめのリンゴくらいの大きさか。
国親の妻は、濃暗紫の掛け帯をかけた薄暗紫の袿(うちき)を紐でからげてたくし上げ、足元は白い脚絆に草履、市女笠をかぶった旅装束。
薄い黄色に赤と緑の格子柄の袿に赤い掛け帯をかけた侍女は、主人と同様に袿を紐でからげてたくし上げ、脚絆、草履、市女笠の旅装束。
しかし、赤い衣を被いでいる侍女は、緑の衣の裾をたくし上げず、左手で褄を取って歩いている。
裾の後ろ側は地面を履いている。
従者の男は三つ鱗の柄の赤褐色の衣の上下に藍色の脚絆、左に腰刀を差している。
右腰の籠状のものは魚籠(びく)か?

一行の行く手に石山寺の門。
八脚門だが、内側(境内側)の左右にも像がまつられているので、仁王門ではなく四天王門と思われる。
石山5-1-8.JPG
おや? 門の下に人がいる。
拡大してみると・・・。
石山5-1-9.JPG
市女笠を深々と被り、樺色に華麗な花模様の袿を着た女性?が門の通路に座っている。
鹿皮の敷物の上に座り、大きな鼓を膝に乗せて、右手で叩いている。
巫女だろうか?

「女性?」と書いたのは手がやけに大きいのが気になるから。
女装した男性巫人(ぢしゃ=持者)の可能性も皆無ではないので。

このような寺の門の下にいる巫女?の類例は、ほぼ同時代の『天狗草紙絵巻』(永仁4年=1296)の東寺の場面に見える。
カラー図版が手元に無いので『日本常民生活絵引』から)
石山5-1-18.JPG
こちらは門の間口に外を向いて鼓を持った巫女?が座り、周囲に3人の男がいる。
男たちの様子は、巫女?が鼓に合わせて語る(あるいは唄う)物語を聴いているように見える。
石山5-1-19.JPG
中世社会の女性宗教者&芸能者である巫女の実態については、わからない部分が多い。
私は、そうした人たちの中に、女装の男性巫人が混じっていると推測しているので、どうしても興味を引かれてしまう。

12時、終了。

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる) [石山寺縁起絵巻]

2012年04月11日 石山寺縁起絵巻を読む(観世音菩薩から利生宝珠を授かる)
4月11日(水)  曇り  東京 18.3度  湿度64%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
黒のカシミアのショールを羽織る。

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
前回、詞書を読んだ巻5第1段の絵解き。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)、式部少輔藤原国親(北家真夏流)の妻が石山寺に参籠して、夢中に示現した観世音菩薩から「利生宝珠」を授かる場面。
石山5-1-1.JPG
石山寺の観音堂。赤い格子の奥(左)が観世音菩薩が奉られている本堂。
人々が参籠している礼堂は広い板敷。
須弥壇の正面、吊り灯籠の明かりの下、浜松を描いた屏風を二方に巡らして藤原国親の妻の座としている。
侍女二人が付き添っている。
後方には、畳を置いて、老人や僧が参籠している。
石山5-1-2.JPG妻は、石山寺に参籠して七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈った末、疲労困憊して臥している。
すると、夢中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
石山5-1-3.JPG
左手の乗せた「利生宝珠」を差し出す観世音菩薩。
菩薩の姿としては『石山寺縁起絵巻』では巻5にして初登場。
今までは、示現しても、すべて黒衣の老僧の姿だった。
石山寺の本尊は二臂の如意輪観音だが、それを示す特徴は見られない。
「利生宝珠」も詞書では不思議な色ということになっているが、普通に金色で表現されている。
石山5-1-4.JPG
女は、左手に数珠を持ち疲労で倒れ伏したまま、顔を横向きにしてうつ伏せで眠っている。
長く豊かな髪が右腕の下の敷きこまれている。
背中の濃い紫のラインは襷。
襷を掛けることは、この時代、女性が神仏の詣で祈るときの形であったらしい。
浜松の風景を描いた大和絵の見事な屏風は、寺の備品で貸し出されたものか? 
それとも参籠者が持ちこむものなのか?
石山5-1-5.JPG
格子柄の着物の侍女は、頬肘をついて、横向きで眠っている。
もう一人、若い侍女は、起きて座っているが、観音の出現には気づいていない。

観世音菩薩は、古来から女性の信仰を集めたが、とくに洛東の清水寺、近江の石山寺、そしてやや遠くなるが大和の長谷寺は、貴族の女性もしばしば参籠した。
この場面は、そうした貴族女性の観音信仰の典型的な姿を描いている。

12時、終了。


2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚) [石山寺縁起絵巻]

2012年03月14日 石山寺縁起絵巻を読む(観音の利生宝珠の霊験譚)

3月14日(水)  晴れ 東京 10.4度  湿度36%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒の厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ

毎年、この時期は、花粉症が出て肌が荒れるのだが、今年は不思議とほとんど症状がなく、化粧の乗りも良い。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の室町時代の補作部分は飛ばして(第1段の紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面だけは前回解説済)、巻5に入る。

巻5は、巻1、2、3と同様の鎌倉時代末期の制作と思われる。
以前は、少し時代が下る南北朝期の制作とする説もあったが、画風・書風とも巻1~3と比べて違和感はなく、同時期と考えてよい。

巻5第一段の長い詞書を読む。
天治年間(1124~25 崇徳天皇代、鳥羽院政期)に式部少輔藤原国親(北家真夏流)という文人貴族がいた。
夫婦は子もなく暮らしていたが、ついに離縁になる。

悲しんだ妻は、石山寺に参籠し七日七夜、三千三百三十三度、必死の思いで祈る。
すると、疲労困憊して臥した夢の中に如意輪観世音菩薩が示現して、不思議な色の珠を渡される。
夢から覚めてみると手の中に宝珠があった。
女は授かった宝珠を大切にして家に帰ると、すぐに夫とも復縁し、一家は富裕になり、子孫も繁栄する。

その宝珠は鳥羽上皇の手に渡り、院に「叡慮」「ことごとく成就」する聖運をもたらす。

さらに、代々低迷している藤原邦綱(北家良門流、堤中納言兼輔の末)という男の手に移って、彼を異例の大出世(正二位権大納言)に導く。

すべて石山寺の観世音菩薩の「利生宝珠」の威徳であるという。

典型的な観世音菩薩の現世利益的な霊験譚だが、元になるが説話がわからない。
これだけ露骨に霊験を賛美しているところからすると、あるいは、石山寺のオリジナルだろうか?

今日は、絵に入れなかったが、この段は石山寺縁起絵巻の中でも有数の豊富な内容を持つので、絵解きが楽しみ。

12時、終了。



2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情) [石山寺縁起絵巻]

2012年02月08日 石山寺縁起絵巻を読む(『源氏物語』の執筆事情)

2月8日(水) 曇り  東京 9.9度 湿度 39%(15時)

8時20分、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、厚手のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻4の第1段、紫式部が石山寺で『源氏物語』執筆の着想を得た場面の絵解。
巻4はオリジナルではなく、室町時代の明応6年(1497)の補作。
石山4-1-2.JPG
↑ 石山寺観音堂の局からはるか遠く琵琶湖の湖水に映る月影を眺めて『源氏物語』の着想を得る紫式部。
石山4-1-1.JPG
↑ 絵は室町時代中期の大和絵の名手土佐光信。

巻4第1段の詞書には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院(藤原彰子、一条天皇の中宮、藤原道長の長女)の女房であった紫式部が、大斎院選子内親王(村上天皇の皇女、一条天皇の叔母)に差し上げるために、女院から物語の創作を下命され、その成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。八月十五日の夜、湖水に映った月影を眺めているうちに心澄みわたり、物語の着想を得て、観音堂の内陣にあった大般若経の料紙に書き止めた」という話が載っている。

そして紫式部が参籠した場所が「源氏の間」として、式部が大般若経の料紙を借用したことの罪障懺悔のために奉納した大般若経が今(明応6年)に現存すると述べる。
さらに「紫式部・観音化身説」にまで言及する。

「源氏の間」は、現在でも石山寺の観音堂と礼堂の「合の間」の東端にあり、もっともらしく執筆中の紫式部の像が飾られている。
石山4-1-3.jpg
↑ 後ろにいるのは侍女?それとも娘(後の大弐三位)?

なので、紫式部がここ石山寺で『源氏物語』を執筆したと信じている人はけっこういる。
しかし、ここから見えるのは石山寺の寺名の起源になった珪灰石(石灰岩が高温で変成した珍しい岩石で、国の天然記念物)の露頭だけで、琵琶湖の湖面はもちろん瀬田川の流れすらまったく見えない。
石山0-2.jpg
観音堂のある面から二段上って多宝塔のある高台に出て、さらに北東に歩き、月見亭があるあたりまで行って、やっとはるかに琵琶湖の湖面を望むことができる。
4-1-5.jpg

紫式部が石山寺の観音堂に参籠し湖水を眺めて着想を得たという話は、いろいろ調べたところ『絵巻』の詞書が初見のようで、どうも石山寺関係者の創作のように思われる。
つまり、限りなく信じがたい。

ただし、前段の「大斎院選子内親王に差し上げるために、上東門院から物語の創作を下命され」という話には、先行する説話がある。

『古本説話集』(第9 伊勢大輔の歌の事)
いまは昔、紫式部、上東門院に歌読みいふ(優)のものにてさぶらふに、大斎院より春つ方、
「つれづれにさぶらふに、さりぬべき物語やさぶらふ」
とたづね申させ給ければ、御そうし(草子)どもとりいださせ給て、
「いづれをかまいらすべき」
など、えり(選り)いださせ給に、紫式部、
「みなめなれ(目馴れ)てさぶらふに、あたらしくつくりて、まいらせさせ給へかし」
と申しければ、
「さらばつくれかし」
とおほせられければ、源氏はつくりて、まいらせたりけるとぞ。

『古本説話集』の成立は平安時代の末期で、さらに大治年間(1126~31)とする説がある。
『絵巻』の詞書の前段は、この説話をもとに書かれているのは、まず間違いないだろう。

同様の説話は、藤原俊成の娘の執筆とされる『無名草子』(建久7~建仁2年=1196~1202頃の成立)にも見える。

繰り言のやうには侍れど、つきもせず、羨ましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院(へ)、
「つれづれ慰みぬべき物語やさぶらふ」
と、尋ね参らせ給へりけるに、紫式部を召して、
「何をか参らすべき」
と仰せられければ、
「めづらしきものは何か侍るべき。新しく作りて参らせたまへかし」
と申しければ、
「作れ」
と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるとこそ、いみじくめでたく侍れ。

大斎院選子内親王から中宮彰子へ「退屈を慰められるような物語はありませんか」と、尋ねてきたので、中宮は紫式部を召して「何を差し上げたらよいかしら」と問うた。式部は「珍しいものはございません。新しく作って差し上げなさいまし」と返事をした。そこで中宮が「ではお前が作りなさい」とおっしゃって、式部が承って『源氏物語』を作った、という話の流れは、まったく同じ。

紫式部による『源氏物語』執筆事情として、平安時代末期~鎌倉時代初期に広く流布していた話のようだ。

ところが、『無名草子』はこの話を紹介した後で、次のように言っている。

また、いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの(源氏物語)作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名はつけたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。

式部が、まだ宮仕えをする前、自分の里にいるときに『源氏物語』を執筆して、(それが評判になり、藤原道長から声がかかり、道長の娘の彰子の女房として)召し出され、そのために紫式部という名が付けられた、という話(と先の話は矛盾するじゃないですか、)どちらが本当なのかしら。

つまり、『源氏物語』執筆事情(時期)については、平安時代末期~鎌倉時代初期にすでに両説あったのだ。

『源氏物語』執筆の可能性がある時期の紫式部のライフステージを整理すると、次のようになる。

(1)藤原宣孝との結婚時代(長徳4~長保3年4月25日 998~1002年)
(2)宣孝に死別後、宮仕えまで(長保3年4月25日~寛弘2年12月29日 1002~1005年)
(3)中宮彰子付きの女房として出仕後(寛弘3年正月~5年 1006~1008年)

(1) の結婚生活の時期の執筆は執筆の動機という点でちょっとイメージしにくい。
執筆動機という点からしても「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折」というのはおそらく(2)の時期を指しているのだろう。

(3) については、もう少し詰められる可能性がある。
『古本説話集』は『源氏物語』執筆の事情の後に、紫式部が伊勢大輔に興福寺から贈られて来た桜の取り入れ役を譲る話を載せている。
譲られた伊勢大輔は「いにしへの ならのみやこの やへさくら(八重桜) けふ(今日)ここのへ(九重=宮中)に にほひぬるかな」という名歌を詠むのだが、伊勢大輔の出仕時期から、それは寛弘4年(1007)3月のことだった。

つまり、その前に記されている大斎院からの要請は、寛弘3年(1006)の春のだった可能性が高い。

一方、執筆開始の下限は、寛弘5年(1008)11月1日の夜、左衛門督(従二位中納言)藤原公任が「このわたりに、わか紫やさぶらふ」と言いながら式部の局のあたりを徘徊していたことが『紫式部日記』に記されていて、すでに『源氏物語』(正確には「若紫」の巻の部分)が貴族社会で評判になっていたことがわかる。

また、同じ頃、中宮の御前では『源氏物語』の製本作業が行われており、式部が局に置いておいた草稿を道長が無断で持ち出すということが起こっている(『紫式部日記』)。

これらのことから、寛弘5年(1008)の秋には、現在に伝わる『源氏物語』の全部ではないにしろ、かなりの分量が執筆されていたと推測できる。

ということで、出仕後の執筆という説に立てば、『源氏物語』は寛弘3年春から5年秋(1006~1008)に書かれたことになる(注)。

しかし、それは現在の『源氏物語』のすべてではなく、その後も書き継がれていったのだろう。
また、その一部や原型になる物語は、式部が出仕する前の里居時代に書き始められていたかもしれない。

つまり、『無名草子』が語る里居時代執筆説と出仕後執筆説は、必ずしも矛盾せず、どちらも成り立つと思われる。

そんな話をする。

12時、終了。

(続く)

(注) 『源氏物語』の執筆区分については、諸説あるが私は武田宗俊『源氏物語の研究』(岩波書店、1954年)に従って次のように考えている。

(1)メイン・ストーリー(紫上系) 
(1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」

寛弘3~5年に紫式部が執筆。

(2)サイド・ストーリー(外伝・玉蔓系)
(2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」 

寛弘6年以降、紫式部が執筆?

(3)後日譚 
(34)「若菜」~(41)「雲隠」

寛弘末年~長和2年に、紫式部が執筆か?
ただし、紫式部は長和3年(1014)に亡くなったと思われるので、そんなに執筆時間はない。

(4)続編 
(42)「匂宮」、(43)「紅梅」、(44)「竹河」と「宇治十帖」

たぶん紫式部とは別人の執筆? 
娘の大弐三位執筆説が室町時代からある(一条兼良『花鳥余情』など)。
「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻は、本編と「宇治十帖」の繋ぎで、最終段階の執筆?

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2011年12月14日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣)

12月14日(水) 朝方、雨のち曇り 東京 9.9度 湿度 55%(15時)
8時、起床。
朝食は、アプリコットデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で象徴柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
ボア襟の黒のカシミアのポンチョを羽織る。

9時35分、家を出る。
雨は止んでいたが、寒い。
10時の東京の気温は6.5度、12時になっても7.9度。
(夕方から少し気温が上がり始め、9.9度という最高気温は夜22時代に記録)

駅前のコンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)が寛徳2年(1045)11月に石山寺に参詣する場面。
ちなみに、孝標女は38歳。
最初のシーンは、初雪?の逢坂山の場面。
石山3-3-1.JPG
やまと絵特有の柔らかな曲線で描かれる山並み、松の緑と雪の白の対比が美しい。
石山3-3-4.JPG
孝標女が乗るのは牛車ではなく、4人の男が曳く輦車(てぐるま)。
石山3-3-2.JPG
車の後に虫垂れ衣のついた市女笠を被り指貫袴姿の若い侍女が続く。
石山3-3-3.JPG
さらに、弓矢と長刀で武装した護衛が3人(騎馬2、徒歩1)。
男たちは、皆、蓑を着けて上に防寒している。
徒歩の護衛は藁帽子を被っている。

続いて、逢坂関の情景。
石山3-3-8.JPG
低い柵があるだけで、関守らしき男が1人。意外に簡易な施設。
近江方面から米を輸送する一行が通過する。
石山3-3-9.JPG
京の方からは狩りに出掛ける主従が通る。
奥に旅人のための井戸が見える。
石山3-3-10.JPG

逢坂関を過ぎると左手(北側に)雪をかぶった朱塗りの楼門が現れる。
石山3-3-6.JPG
中央公論社『日本の絵巻』の解説(小松茂美氏)は、朱塗りの楼門を石山寺とするが、孝標女は、娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時、まだ未完成だった関寺がすっかり立派に出来あがっていることに感慨を覚えて歌を読むのだから、当然、描かれているのは関寺でなければならない。

そもそも、逢坂関との間には霞はなく、画面がつながっているのだから、石山寺のはずがない。
なんで、こんな当たり前のことを誤るのだろう?

2つ目のシーンは、石山寺観音堂に参籠した孝標女が見る夢の場面。
観音堂の外陣の局でまどろむ彼女の、几帳を分けて麝香の包を持った墨染の衣の手が差し出される。
石山3-3-11.JPG
内・外陣を隔てる格子の赤と、局を囲む簾の緑の対比が美しい。

ところで、麝香の包は厚さがなく、包と言うより厚紙のように見える。
麝香は、ジャコウジカの雄の腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料だが、どういう形なのだろう?
調べてみたら、乾燥したものは暗褐色の顆粒状とのことなので、薄い包でも問題はなさそう。

これで第3巻を読了。
12時、講義終了。

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討) [石山寺縁起絵巻]

2011年11月09日 石山寺縁起絵巻を読む(菅原孝標女の石山詣・詞書の比較検討)

11月9日(水)  曇り 東京 16.6度 湿度 42%(15時)

8時、起床。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール

9時45分、家を出る。
途中、コンビニで講義資料のコピー。

10時半、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻3の第3段、『更級日記』の作者として著名な菅原孝標の娘(寛弘5~康平2年以降 1008~1059以降)の石山詣の場面に入る。

まず、絵巻の詞書を読む。
次いで、『更級日記』の該当箇所と比較する。

『更級日記』によれば、菅原孝標の娘は、少なくとも2回、石山寺に詣でている。
1度目は寛徳2年(1045)の冬で38歳の時。
娘時代(寛仁4年=1020、13歳)、父が受領(上総介)の任はてて上京する折に逢坂を通過した時のことを思い出す。

「關寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」

25年前に通った時にはまだ作りかけだった関寺の仏が、今は立派に完成しているのを見て、年月の経過をしみじみ感じて歌を詠む。

相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり

そして、石山寺の観音堂に参籠し、夜中にまどろんだ時に夢を見る。

「おこなひさしてうちまどろみたる夢に、『中堂より麝香賜はりぬ。とくかしこへ告げよ』といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす」

中堂から「御香」を賜ったという夢、吉夢と思い、夜明けまで参籠する。
中堂は本尊の如意輪観世音菩薩像がいる場所のことか? 絵巻の詞書は「内陣より」。

2度目は、その2年ほど後の永承2年(1047)頃の秋、40歳頃。
夜通し参籠していると、雨の音が聞こえる。
蔀戸(しとみ)を押し上げて外を見ると、雨の音と思ったのは谷川の水の音で、有明の月が谷の底まで照らしていた。

谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月

『石山寺縁起絵巻』の詞書は、話の筋書きは『更科日記』と同じなので、詞書の書き手は明かに『更科日記』を読んでいる。
しかし、文章的には、そのままの文書は少なく、かなり改変している。
というか、あまり出来の良くない趣意文という感じ。

そして、なにより問題なのは、和歌の字句に異動があること。

最初の「相坂の…」は、
(更科)相坂の 關のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり
(詞書)逢坂の 關の山風 吹くこゑは むかし聞きしに かはらざりけり

二つ目の「谷河の…」は、
(更科)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 有明の月
(詞書)谷河の 流れは雨と きこゆれど ほかより晴るる 有明の月

二つ目の歌は勅撰の『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)に入首しているが、第4句は『石山寺縁起絵巻』の詞書と同じ「ほかより晴るる」である。

つまり、「谷河の…」の歌には、「ほかより晴るる」の『石山寺縁起絵巻』(1324~1326年)と『新拾遺和歌集』(貞治3年=1364)の系統と、「ほかよりけなる」の現行本の『更科日記』の二系統があったことになる。

はたして、オリジナルはどちらだったのだろうか?
現存する『更科日記』の写本は、すべて藤原定家(1162~1241)が晩年に写した「御物本」といわれる写本の系統。
『更科日記』の歌を改変した人物がいたとすれば、それは定家の可能性が強い。

国文学の専門領域なので、これ以上は踏み込まない。

12時、講義終了。