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新宿グランドツアー【8】成覚寺 -内藤新宿の裏側- [新宿グランドツアー]

【8】 成覚寺 -内藤新宿の裏側-

新宿2丁目の靖国通りに面して、2つの寺院が並んでいます。ともに文禄3年(1594)創建の成覚寺(じょうかくじ)と正受院(しょうじゅいん)です。
東側の正受院は、明了山正受院願光寺(浄土宗)といい、幕末までは会津松平家の菩提寺でした。境内の「奪衣婆像」は、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があることから「綿のお婆」と呼ばれています。また、針供養でも知られる寺です。

西側の成覚寺は、十劫山無量寿院成覚寺(浄土宗)といい、内藤新宿の「投げ込み寺」でした。「投げ込み寺」とは、遊女や行き倒れ人など身寄りのない(無縁)の人の遺骸を運びこんで、埋葬・供養した寺のことです。

「投げ込み寺」というと、「大きな穴を掘って遊女の遺体を牛馬のように投げ込んだ」などと記した本がありますが、「投げ込み」という言葉から勝手なイメージを膨らませた大間違いです。運び込まれた遺骸は共同墓に埋められましたが、寺では一人一人ちゃんと過去帳に付けて供養をしています。また、遊女の場合は、身売りの時に、年季の間に死亡した場合は、戒名だけを郷里に送り、遺骸は遊廓の近くの寺に埋葬する契約になっていましたので、楼主が、特別に悪辣なことをしていたわけでもありません。

成覚寺には、江戸時代を通じて、2200~3000人の「飯盛女」(宿場女郎)が埋葬されたと推定されています。境内中央左手には、万延元年(1860)に内藤新宿の楼主たちが建てた「子供合埋碑」があります。
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「子供」とは楼主が抱えの遊女を呼んだ言葉です。明治26年(1893)にも貸座敷の経営者たちによって「亡娼妓招魂碑」が建てられましたが、戦災にあって現存しません。

門を入って左手には、江戸時代の戯作者、恋川春町(こいかわ はるまち 延享元~寛政元年 1744~89)の墓があります。春町は『金々先生栄花夢』で後に黄表紙といわれるジャンルを開拓した人ですが、松平定信の「寛政の改革」を茶化したことで咎めを受け、自殺してしまいます。

その隣には、旭町(現:新宿4丁目)の玉川上水北岸から移動した「旭地蔵」があります。
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旭町の名は、この旭地蔵に由来します。寛政12年(1800)に内藤新宿の名主高松氏のよって建立されたもので、台座には寛政12~文化10(1800~13)に玉川上水で死亡した18名の男女の名が刻まれています。その内、男女6組12人は心中(情死)者と思われます。

成覚寺は、賑やかな内藤新宿の裏にある悲しい歴史を垣間見せてくれます。

新宿グランドツアー【7】遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌- [新宿グランドツアー]

【7】 遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌-

(1)新宿遊廓の成立と発展
明治35年(1902)頃、内藤新宿の上町(大木戸~太宗寺入口)には、甲州街道の北側に18軒、南側に9軒、計27軒の貸座敷(実態は妓楼)が軒を連ねていました。また仲町にも17軒の貸座敷があり、新宿全体では53軒を擁していました。

ところが、明治39年(1906)、内藤氏の下屋敷跡が宮内省によって「新宿御苑」として整備され、皇族をはじめとする国内の貴顕と招かれた外国の賓客の遊宴の地になると、御苑に近い街道沿いに娼家が連なっていることが、問題視されるようになります。

娼家を恥ずべきものとして、皇族や外国賓客の目から遠ざけたい政府(警視庁)は、仲町・下町の街道から北に引っ込んだ一帯にあった乳牛牧場「耕牧社」が大正2年(1913)に廃業し、その跡地が「牛屋の原」と呼ばれているのに注目しました。そして、大正7年(1918)、新宿の娼家に「牛屋の原」への集団移転を命じます(大正10年までの期限付き)。

最初は移転を渋っていた娼家も、大正9年の大火で娼家数10軒が焼けたことがきっかけとなり、ようやく動き出し、期限内の大正10年(1921)3月に集団移転が完了しました、ところが、移転直後の3月26日、追分の俵屋倉庫から出火した火事で新築したばかり娼家は全焼してしまいました。仕方なく、もう一度建て直すのですが、短期間に2度も建て直せるだけ、荒稼ぎした貯えがあったということでしょう。こうして大正11年(1922)春、59軒の新築妓楼がうち揃い、盛大なお披露目となりました。新宿遊廓の成立です。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、下町の二大遊廓「新吉原」(台東区千束)、「洲崎」(江東区東陽町)や、私娼窟の「玉の井」(墨田区向島)、「亀戸」(江東区亀戸)は全焼し壊滅的な被害を受けました。大きな被害を免れた新宿遊廓は、東都の遊客を一手に集める形になり、急速に台頭していきます。

昭和4年(1929)刊行の上村行彰著『日本遊里史』の巻末付録「日本全国遊廓一覧」によると、新宿遊廓は、貸座敷56軒、娼妓570人(1軒あたり10.2人)となっています。

昭和になって中央通りや追分に新宿モダン文化が花開くと、積極的にモダン趣味を取り入れ、江戸時代以来の伝統と格式を誇る「新吉原」を凌いで、実質的にモダン東京で最も賑わう遊廓に成り上がったのです。

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↑ 昭和10年(1935)頃の新宿と「新宿遊廓」の位置

新宿遊廓の所在地は、現在の町割では新宿2丁目と3丁目に股がっています。現2丁目に3分の1、現3丁目に3分の2くらいで、メインストリートの「大門通り」は現3丁目の「要通り」に相当します。

これは、昭和20年(1945)の空襲で新宿遊廓が全焼し、さらに昭和24年(1949)に遊廓地区を分断する形で「御苑通り」(新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たるグリーンベルトがある道路)が作られ、さらに昭和43年(1968)1月1日に、2丁目と3丁目の境界線が東に移動して「御苑通り」が境界になったためです。

(2)新宿2丁目「赤線」地帯
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の方針で「娼妓取締規則」など、戦前の遊廓制度が解体され、指定された地域内に限って特殊飲食店の営業を認め、買売春を黙認する「赤線」のシステム(1946~58)が始まります。新宿では、旧新宿遊廓のエリアの内、「御苑通り」の東側が「赤線」指定地(仲通りの西側。現:新宿2丁目16・17・18番地)になります。そして、その南側などに非合法買売春地区である「青線」(12番地)が成立します。
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↑ 「柳通り」南側にあった「ひとみ」(1953年)

「赤線」全盛期の昭和27年(1952)年末の統計によると、新宿の「赤線」は、業者74軒、従業婦477人(1軒あたり6.5人)で、規模(従業婦数)では、新吉原、洲崎に次ぎ都内3位でした。
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↑ 通りの左側が二丁目「赤線」の中心部。
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ほぼ同じ場所の現在(2015年)。

「赤線」は、昭和31年(1956)10月に成立した「売春防止法」によって、その命脈を絶たれることになりました。それでも新宿の「赤線」は、最末期の昭和32年(1957年)3月でも70軒、451人(6.4人)の規模を保ち(洲崎を抜いて2位)、最後まで旺盛な需要があったことがわかります。昭和33年(1958)3月31日、「売春防止法」が完全施行されたことで、新宿の「赤線」の灯は消えました。その最後の日の様相は、白鳥信一監督「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(1974年、日活)に再現されています。

(3) ゲイタウンへの変貌
昭和30年代後半(1960~65)になると、「赤線」が廃止されて空洞化した2丁目に、「ぼんち」「蘭屋」などのゲイバーが進出するようになります。新宿のゲイバーは、それ以前にも、新宿駅東口「二幸」(現:アルタ)裏にあった「夜曲」(戦前?~1962)、明治通りの「大映」の裏にあった「イプセン」、区役所通りの「アドニス」などがありましたが、当然のことながら、「赤線」「青線」というヘテロセクシュアルな性愛の街である2丁目には、1軒もありませんでした。

その後も2丁目に開店するゲイバーの数は増し、昭和46年(1971)には、仲通りと花園通りの交差点の北西側の旧「赤線」地区を中心に約64軒のゲイバーが密集するようになります。さらに1980年には170軒、バブル経済全盛の1990年前後には250~300軒に達し、現在でも約200軒が営業しています。
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現在の「ゲイタウン」の中枢部は、かっての「赤線」指定地域に見事なまでに重なります。こうして、ヘテロセクシュアルな遊廓→「赤線」の街だった新宿2丁目は、わずか15~20年ほどの間に、世界最大のホモセクシュアルの盛り場「(新宿)二丁目ゲイタウン」へと変貌を遂げました。

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↑ ゲイ・グッズの専門店

暖かな季節の週末(金・土曜)の夜、2丁目の仲通りに足を踏み入れると、不思議な体験ができます。まず、路上に立っている男の数がやたらと多いのに気づきます。男性は、そうした男たちから発せられる、今まで感じたことのない、品定めされるような性的な視線が全身に絡みつくのを感じるでしょう。逆に、女性はどんなセクシーなファッションをしていても、あっさり無視されか、「あんた、来る場所が違うわよ」という冷たい視点がさらされます。ここでは、多くの人たちが「常識」だと思っているセクシュアリティが反転します。だからこそ一般社会ではマイノリティであるホモセクシュアルの人たちにとっては、かけがえのない大切な街なのです。

2丁目の一画(15番地)、仲通りが靖国通りに出る少し手前、右手に入るL字形の小さな路地があります。この一角は旧「青線」で「墓場横丁」と呼ばれていました。1970年代移行、「Madonna」「agit」「HUG」など数軒のレズビアンバーが集まっていることから「レズビアン小路」と呼ばれるようになりました。
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レズビアン(女性同性愛者)系の店の数は、新宿全体でも20軒ほどと思われ、ゲイ(男性同性愛者)系の店に比べて格段に少ないのが現状です。業界の規模はおそらくゲイ業界の20分の1程度で、女装系とほぼ同程度ではないでしょうか。
ほぼ同じ比率で存在するとされるゲイとレズビアンの間に、これほどの大きな差があるのは、社会的顕在化の違い、遊びに費やせる財力・時間・自由の違いによるのでしょう。

ところで、遊廓や「赤線」の入口には、必ず交番が設置されます。現在、御苑通りと靖国通りの交差点(新宿5丁目東交差点)にある「四谷警察署御苑大通交番」は、もともと新宿「赤線」の見張り番でした。
おもしろいのは、その交番の近くに、というか、すぐ後のビルにソープランドが入っていることです。ソープランドの営業許可地の多くは、旧「赤線」地区に由来しています(歌舞伎町は例外)。現在、新宿2丁目には「赤線」時代の建物は、まったく残っていません。交番とソープランドだけが、2丁目が「赤線」だった時代の、かすかな名残なのです。

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↑ 二丁目北西端。交番(四谷警察署御苑大通交番・右下)のすぐ後ろに、ソープランドが入っているビルがある(「角海老」の広告のあるビルと、その左の「多恋人」のビル)。
すっかり「ゲイタウン」化した新宿二丁目の中で、「新宿遊廓」→「二丁目赤線」と受け継がれた数少ないヘテロセクシュアルの性風俗の場。

新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(2)太宗寺 [新宿グランドツアー]

【6】内藤新宿と太宗寺
(2)太宗寺
街道から少しだけ北に入った所にある太宗寺(浄土宗)は、内藤新宿第一の寺院です。その起源は、慶長元年(1596)ごろ、太宗という来歴不明の僧侶がこの地にやってきて草庵を作り住み着いたことに始まるそうです。寛永6年(1629)、信濃高遠藩(3万3千石)5代藩主内藤正勝の葬儀がここで行われて以来、内藤氏の菩提寺になり、寛文8年(1668)には8代藩主内藤重頼が7396坪の寺地を寄進して、霞関山本覚院太宗寺という立派な寺院になりました。現在でも、墓地のいちばん奥に「内藤家墓地」があります。

太宗寺は内藤新宿の設置と発展にともない、宿場の人々や江戸の庶民の信仰も集めるようになり、多くの参詣の人々で賑わうようになりました。境内に入ると、すぐ右手に、「江戸六地蔵」の第3番とされる像高267cmの銅製「大地蔵」(正徳2年=1712)が鎮座しています。
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ところで、明治の文豪夏目漱石の生母千枝は、太宗寺の真向かいにあった老舗の旅籠(実態は妓楼)「伊豆橋」の娘でした。漱石自身も、幼いころ、明治になって廃業し空家同然になったその家に留守番として住んでいた時期がありました。その頃、太宗寺の大地蔵に上って遊んだらしく、その様子が晩年の自伝的小説『道草』に描写されています。

「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向ふには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其処(そこ)からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉(つか)まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
(夏目漱石『道草』38)

その左手の閻魔堂には、都内最大(高さ5.5m)の「閻魔像」(文化11年=1814)と、地獄に堕ちた人たちの着物を脱がせる「脱衣婆(だつえば)像」(明治3年=1870)が納められています。ちなみに、この「脱衣婆像」、着物を脱がせるという共通性から妓楼の商売神にされました。

閻魔堂の周囲の玉垣は、昭和8年(1933)の造営で、新宿遊廓の妓楼の名をいくつも見ることができます。戦災でほとんど何も残さず地上から消えてしまった新宿遊廓の唯一の名残です。
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門を入って左手には「百度石」があり、その正面には、願いがかなうと塩を備える「塩掛け地蔵」があります。かっては、「百度石」からお堂まで、百回往復するお百度詣をする人も多かったのでしょう。いえ、「塩掛け地蔵」がいつも真新しい塩で埋もれていることを考えると、信仰は現代にも生きていると思います。
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また、庫裏の前には、昭和27年(1952)に内藤家墓地が改修された際に発見された江戸時代中期の織部灯籠が置いてありますが、この灯籠の下部に刻まれているのがマリア像ではないか?という推測があり、隠れキリシタンの遺物かもしれないということで、「キリシタン灯籠」と呼ばれています。しかし、果たしてそうなのか真偽のほどは不明です。
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新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(1)内藤新宿の成り立ち [新宿グランドツアー]

【6】内藤新宿と太宗寺

追分に戻り、かっての内藤新宿の町並みを偲びながら、甲州街道(新宿通り)を四谷方面へ歩いて行きましょう。といっても、古い建物はほとんど残っていないのですが。

(1)内藤新宿の成り立ち
慶長6年(1601)、天下の覇者となった徳川家康は、全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備に着手します。甲州街道は、江戸(日本橋)~八王子~甲府を結び、信濃国下諏訪宿で中山道と合流する街道です。徳川氏は、甲府に拠点を置いた戦国大名武田氏の遺臣を多く抱えていましたので、甲府を重要な軍事拠点、もしものとき(江戸落城)の逃げ場所と考えていた節があります。

甲州街道には、最終的には38の宿場が置かれましたが、江戸初期においては「大木戸までは江戸の内」と言われた四谷大木戸を出ると、最初の宿場は高井戸宿(東京杉並区)でした。また脇街道の青梅街道(成木街道)は、江戸城の白壁や町屋の土蔵の壁に塗る漆喰の原料になる奥多摩の石灰石を運び込む目的の街道で、最初の宿場は田無(東京都西東京市)でした。いずれも日本橋からの距離がかなり長く(日本橋~高井戸宿=4里=16m)、人馬の往来に不便でした。

そこで、江戸浅草阿部川町(現:元浅草4丁目)の名主喜兵衛(高松喜六)ら5人が、金5600両の献上とともに甲州街道の宿場の新設を幕府に願い出ます。なぜ、願主が地理的に無縁な浅草の人なのか不思議ですが、その請願に応えて、幕府は、元禄11年(1698)、四谷大木戸をから甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの間の、内藤氏(信濃高遠藩3万3千石)の下屋敷に近い土地に新しい宿場を造ることを許可します。そして、その宿場は「内藤」氏の屋敷に近い「新」しい「宿」場ということで「内藤新宿」と呼ばれることになりました。喜兵衛らの願主は、新しい宿場の名主になり、宿場のさまざまな利権を手中に収め、5600両の投資はしっかり回収できたことでしょう。

ところが、それから約20年後の享保3年(1718)、内藤新宿は廃止されてしまいます。宿場の風紀の乱れが、徳川吉宗の「享保の改革」の綱紀粛正・倹約の方針と相容れなかったからです。内藤新宿がやっと復活するのは、54年後の明和9年(1772)のことでした。

宿場町は、大木戸から追分まで1.2kmほどで、四谷寄りから下・仲・上町に分かれ、江戸に近い下町(現:新宿1丁目)がいちばん賑わいました。旅籠(はたご)には「飯盛り女」と称する女性(実態は、セックスワーカー)を宿場全体で150人置くことが許可されていましたが、実際にはさらに多くの女性が働いていたようです。

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↑ 切絵図に描かれた内藤新宿。
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↑ 安政年間(1850年代)の内藤新宿の略図。

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↑ この絵、東京メトロ副都心線・新宿三丁目駅のガラス壁に描かれている。

もともと後発の上に、54年間もの断絶期間があり、内藤新宿は他の江戸三宿に比べて明らかに格下でした。それでも「明和の立ち返り」以後、江戸の商業経済の発展とともに、徐々に繁栄の方向に向かいます。

当時、「四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい」という歌が流行しました。乗り継ぎ馬や荷牽き馬の糞と、菖蒲にたとえられた「飯盛女」、内藤新宿のイメージがよく伝わってきます。歌川広重の「江戸名所百景」の「内藤新宿」は、馬糞と飯盛女というイメージを、実に的確に表現しています。右の拡大図では、馬の足の向こうに飯盛女が客を呼び込んでいる様子がうかがえます。
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こうして1808年(文化5)には、旅籠屋50軒、引手茶屋80軒を数えるまでになり、江戸四宿の中でも東海道品川宿に次ぐ賑わいをみせるようになりました。

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↑ この道が「甲州街道」であったことを思い出させる「甲州屋呉服店」

新宿グランドツアー【5】角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家-  [新宿グランドツアー]

【5】 角筈(つのはず)-市電の停車場と老舗御三家- 

追分から、新宿通り(青梅街道)をちょっと新宿駅方向に戻ってみましょう。先ほど、新宿駅のある場所は、実は新宿ではなく角筈ですと言いました。新宿駅だけでなく、現在、新宿三丁目になっている「紀伊国屋」も「高野」も「中村屋」も「三越」も、また東口から南口界隈の「武蔵野館」や「ムーラン・ルージュ」も、新宿ではなく角筈一丁目だったのです。

角筈という地名は、南豊島郡角筈村に由来し、そのエリアは、けっこう広く、JRの線路を挟んで新宿駅の東西に広がっていました。おおまかに言って、新宿三丁目の東半分(新宿駅東口周辺)と歌舞伎町一丁目のほとんどが角筈一丁目、新宿駅西口一帯と旧・淀橋浄水場(現:新宿新都心地区)が角筈二丁目、その南の甲州街道北側(現:西新宿三丁目)のエリアが角筈三丁目でした。

角筈一丁目とその東に接する内藤新宿上町との境界線は、とても複雑です。なにしろ道路ではなく個人の邸宅の塀が境界になっている場所もあり、ちょっと文章では説明しきれません。しかも、このラインが、大東京三十五区時代(1932~47)の四谷区と淀橋区との境界になり、現在でも、警視庁四谷警察署と新宿警察署(旧:淀橋警察署)の管轄区分や神社の氏子圏に受け継がれていて、この地域の歴史地理を複雑にしています。

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↑ 昭和10年(1935)頃の新宿。
四谷区(右寄り、旧内藤新宿町)と淀橋区(左寄り、旧角筈村)の境界線が街を縦断している。

おおまかに境界線をたどると、靖国通りの北側は、遊歩道「四季の道」がだいたい境界に沿い、新宿通りの北側では「紀伊国屋書店」の東30mほどの地点を通り、南側では「三越」の東側の道路、そしてすぐに東に曲がり、新宿通りから一本南側の路地を走り、明治通りまで行かずに南に折れて、「大塚家具」(旧:三越南館)の東を通って、甲州街道に出ます。

さて、角筈で忘れてはいけないのは、東京市電(都電)の停車場です。東京市電は、明治36年(1903)に、新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線を開設して、新宿駅前(東口)に乗り入れました。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。東京市電の新宿乗り入れによって、新宿は東京中心部から伸びる市電路線網の東端に位置付けられることになり、3路線が集まる角筈停車場は、都心から、そして都心への乗降客でおおいに賑わうことになりました。

角筈停車場は、昭和24年(1949)まで、新宿通りの「紀伊国屋書店」の前あたりにありました。11系統と12系統は新宿通りを東からすんなり入ってきすが、ユニークなのは13系統です。抜弁天(東大久保)から専用軌道で新田裏(現:新宿五丁目交差点)に出て、また専用軌道(現:遊歩道「四季の道」)を通って北裏通り(靖国通り)を渡り、北から新宿通りの角筈停車場に入ってきました。その靖国通りから新宿通りまで市電が通り抜けていたルートが、「紀伊国屋書店」の隣の「ビックカメラ」と「〇I〇Iヤング館」の間の路地です。

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↑ こんな狭い路地を市電が・・・と思うが、当時はもっと広かったのだろうか?

また、現在、新宿通り北側にある「三井住友銀行」、「伊勢丹」本館の西3分の1ほど、「伊勢丹メンズ館」などになっている場所には、戦災で焼失するまで、新宿通りから靖国通りに至る広大な敷地に方向転換のためのループ線を備えた東京市電の大きな車庫がありました。あんな地価の高い場所が電車のねぐらになっていたなんて、まったく隔世の感です。

東京の路面電車(市電→都電)の路線網は、高度経済成長期(1967~72年)に、わずか1路線(早稲田~三ノ輪間の荒川線)以外、すべて撤去されてしまい、私たちの記憶から消えようとしています。しかし、市電(都電)は人々の生活にもっとも密着した生活路線で、利用度は現在の地下鉄よりもずっと高かったと思います。現代の東京の交通地理を考える時、地下鉄を無視する人はいないでしょう。それと同じで、明治・大正・昭和(40年代まで)の東京の歴史地理を考える際に、市電(都電)は、忘れてはならない交通機関なのです。

角筈の老舗と言えば、「高野フルーツ」、「中村屋」、「紀伊国屋書店」を挙げるのは、どなたも異論がないところでしょう。

「高野フルーツ」の高野家は越後長岡の出身で、明治18年(1885)、高野吉太郎が、新宿駅の設置とほぼ同時に駅前に店を出しました。当時は古道具屋兼繭の仲買い業で、副業として武蔵野や多摩の柿や栗を扱っていたそうです。大正10年(1921)、駅前広場の拡張のため現在地に店を移し、大正15年(1926)にはフルーツ・パーラーも併設して、モダン東京の新興の盛り場、新宿の「顔」になっていきます。

「中村屋」の相馬家は、信州安曇野(現:長野県穂高町)の出身で、愛蔵・黒光夫妻は、はじめ本郷の東大前でパン屋をしていましたが、明治40年(1907)に新宿に移ってきました。開店当初から、パンの販売に加えて喫茶部を設けるなど、時代を先取りした経営で発展します。大正3年(1914)には、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose 、1886~1945年)を匿い、昭和2年(1927)にはボース直伝の「純インド式カリー・ライス」を売り出し、人気を博しました。

「紀伊国屋書店」の田辺家は、元は材木商で、現在地には薪炭問屋として店を構えました。奥行きのある敷地の新宿通り沿いに書店を開業したのは昭和2年(1927)のことで、2階を画廊にしたり、小学校の同級生だった舟橋聖一らと共に、同人誌『文芸都市』を出版したり、当初から単なる本屋ではなく、文化的な広がりを意識していたようです。

子供のころ、東京に出張した父がお土産に買ってきてくれる中村屋の肉まんが何よりの好物でした。東京に出てきてからは、帰省するときには高野のフルーツケーキをお土産に買っていくようになりました。歌舞伎町のお店のお手伝いホステス時代は、出勤前に時間があるときは、よく紀伊国屋で本を選んでいました。

私だけでなく、新宿で時を過ごした人で、角筈の老舗御三家にお世話にならなかった人はいないと思います。

ところで、地名としての角筈は昭和53年(1978)の町名改定で消えてしまいました。それから30数年、角筈の名を見ることはめっきり減っています。私が「角筈」という地名を知ったのは、ゴールデン街の隣(靖国通り寄り)にある東京電力の「角筈変電所」でしたが、今では、新宿区角筈特別出張所(西新宿四丁目)、新宿区立角筈図書館(同)、同角筈区民ホール(同)、同角筈公園(同)、角筈地域センター(同)などの行政関係施設の名などにかろうじて残っているにすぎません。あとは、角筈橋(西新宿二丁目にある跨道橋)、小田急バスの「角筈二丁目バス停」くらいでしょうか。

「角筈変電所」以外、残っているのは、なぜかすべて新宿駅の西側です。浅田次郎さんの小説「角筈にて」で、少しは知名度が回復したかもしれませんが、絶滅の危険にあるのは変わりないでしょう。由緒ある地名を抹殺してしまうことの文化的損失を、もう一度よく考えてみるべきだと思います。


新宿グランドツアー【4】追分 -宿場の場末の大発展- [新宿グランドツアー]

【4】 追分 -宿場の場末の大発展-

天竜寺から明治通りを少し戻り、明治通りとの交差点に出ると、右手前方にコーナーを大きく面取りしたちょっと特徴的なビルが見えます。「京王新宿追分ビル」です。

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↑ 「京王新宿駅」のホームがあった「京王新宿追分ビル」

現在、京王電鉄京王線は新宿駅の西口に入っていますが、大正4年(1915)の開業時の起点は西口ではなく、甲州街道を走って省線(現:JR山手線など)の線路を陸橋で越えて新宿追分交差点南側の路上にまで乗り入れて、新宿通りを走る東京市電と乗り換え可能でした。昭和2年(1927)に「京王新宿ビルディング」(現:京王新宿三丁目ビル)を建てて起点を移し、「京王新宿駅」を名乗りました。駅ビルには、テナントとして「武蔵屋呉服店」が入り、ターミナルデパートとなっていました。その「京王新宿駅」の3線5面のホームがあった場所に建てられているのが「京王新宿追分ビル」なのです。

では、なぜ西口に起点を移したかというと、昭和20年(1945)5月の空襲で新宿~初台間の天神橋変電所が被災し電圧が下降したため、陸橋の急勾配を電車が越えられなくなってしまい、やむなく西口に仮設駅を設けたのが、そのまま居ついてしまったというちょっと情けない事情なのです。甲州街道の陸橋をトコトコ越えていく京王電車、見てみたかったです。

さて、江戸城半蔵門を起点に西へ、四谷大木戸(現:四谷三丁目交差点付近)から内藤新宿の宿場町を抜けてきた甲州街道は、内藤家下屋敷の敷地が尽きるあたりで、右手に青梅街道を分けると、西南西に向きを変え、天龍寺の門前を抜けて次の宿場高井戸を目指しました。

街道の分岐点である追分には、早くから茶店があったと思われますが、その伝統を今に伝えているのが新宿の名物「追分だんご」です。ただし、今の「追分だんご」の店は意外に新しく昭和15年(1940年)の創業なのですが・・・。

追分は、内藤新宿の上町の外れで、いわば宿場の場末です。その場末の街が、昭和になると、単なる街道の分岐点から人が集う繁華な地へと大発展していきます。そのきっかけは、明治通り(環状5号線)の開通でした。

明治通りは、昭和4年(1929)に追分から南へ渋谷までが、同6年には追分から北へ大久保までが開通します。追分の北西角には、昭和元年(1926)から地上6階地下1階の「ほてい屋」デパートが営業していましたが、明治通りの開通以後、追分周辺には次々と大きな建物が建てられていきます。

まず、追分の少し先、新宿通りに面して「三越」デパート(昭和4年)が進出します。ほぼ同時に明治通りと甲州街道が接する場所(現:大塚家具)に新宿最初の本格的劇場である「新歌舞伎座」(昭和4年。後の新宿第一劇場)が、さらに追分の南西角に5階にダンスホールを備えたルネサンス様式の「帝都座」(昭和6年、現:丸井新宿本館)が、北東角には5階建ての食堂デパート「三福」(昭和6年、現:三和東洋ビル)が開業します。そして、昭和8年に「ほてい屋」デパートの隣に「伊勢丹」デパートが開業しました。

こうして、追分は東京西部の新興の商業拠点として、浅草や銀座と並んでモダン東京の消費活動の一翼を担い、黄金時代を迎えることになります。「伊勢丹」は、経営者の自殺などで経営が傾いた「ほてい屋」デパートを昭和10年(1935)に吸収合併し、同12年には、双方の建物を接合した巨大デパートになり、追分の盟主の地位に就きます。

この「伊勢丹」による「ほてい屋」合併については、「伊勢丹」の建設時に建物を「ほてい屋」の壁面と隙間なく建てたり、各階の高さを「ほてい屋」に合わせるなど、当初から将来の「乗っ取り」を策していた?という話がありますが、真偽のほどはわかりません。

「伊勢丹」の外観をよく観察するとおかしなところがいくつかあります。まず○に「伊」のマークの大看板が立って、いる場所です。普通なら交差点を行きかう人の目にいちばん止まる屋上のコーナー部分に立てそうなものですが、かなり新宿駅寄りに引っこんでます。つまり、そこまでが元々の伊勢丹で、そこから交差点寄りは「ほてい屋」だったのです。これでも「伊勢丹」としては精一杯、交差点寄りに○に「伊」のマークを設置したのです。

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↑ 追分交差点からみた「伊勢丹」。
塔屋と〇に「伊」のマークの位置に注目。

また外壁の1・2階部分の列柱を見ていくと、新宿通りの「ISETAN」の看板の前後で間隔が乱れ、柱の間が極端に狭くなる部分があります。そこが「継ぎ目」です。よく観察すると、水平ラインも交差点寄り(ほてい屋側)が少し高く段差があります。さらに仔細に見ると、壁面装飾が似てはいるものの微妙に違うことに気づきます。一見、ひとつの巨大デパートに見える建物が、二つの建物の接合だったという来歴が壁面に残されているのです。

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↑ 「ほていや」と「伊勢丹」の接合部分。
柱間隔が極端に狭くなり、水平にも僅かですが段差がある。

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↑ (上)「旧・ほてい屋」(下)「旧・伊勢丹」
こうして並べてみると、よく似たロータス紋だけども、細部がかなり異なることがわかる。

つい数年前まで、「伊勢丹」デパートのB1階には、フロア-の真ん中に段差があり、4段ないし5段ほどの階段になっていました。これは、2つのデパートの壁面を取り払って接合した名残りの段差なのです。地上部分の各階の段差はわずかでしたが、「ほてい屋」の地階は「伊勢丹」の地階よりかなり浅かった(天井までの高さがない)のです。残念ながら、2007年の地下売り場の大改装で段差はなくなってしまい、今はもう見られません。「伊勢丹」にしてみると、72年目にして「乗っ取り」、もとい「合併」の痕跡を消すことができたのです。

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↑ 「伊勢丹」の地階にあった段差。
館淳一「狷介老人徘徊日記・伊勢丹地下の秘密」(2003年1月撮影)より
http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/isetan.html

ところで、「追分」の名は俗称であって、行政地名ではありません。そのせいか、もうほとんど人々の意識から消えかかっています。「伊勢丹」前の「新宿追分バス停」は、いつのまにか「新宿伊勢丹前(新宿追分)」になってしまいました。あとは「追分だんご」「京王新宿追分ビル」「四谷警察署追分交番」・・・そのくらいでしょうか。交差点の名前も「新宿三丁目」になってしまい、「追分の交差点で降ろしてください」と言っても、タクシーの運転手さんにはもう通じません。「追分」だけでなく、「角筈」も「新田裏」も消えつつあります。新宿の由緒ある地名、せめて、交差点の名前には残して欲しかったです。
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新宿グランドツアー【3】天龍寺・雷電神社と旭町スラム [新宿グランドツアー]

【3】 天龍寺・雷電神社と旭町スラム

中央通りは、明治通りに突き当たってお終いなので、少し道を戻って、元の「三越南館」(現:大塚家具)の角を曲がりましょう。この場所には、昭和4年(1929)開場の「新歌舞伎座」という劇場がありました。「新宿第一劇場」「新宿松竹座」と名を変え、戦後は青年歌舞伎の本拠となり、昭和35年(1960)の閉場まで、新宿における古典劇の中心でした。

さらに右手の路地に入ります。この路地には、任侠映画専門の名画座「新宿昭和館」があり、その地下は成人映画専門の「昭和館地下劇場」でした。この「昭和館」は、昭和7年(1932)の創業という新宿では「武蔵野館」に次ぐ老舗だったのですが、2002年に閉館してしまい、現在は「K's cinema」というミニ・シアターになっています。

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↑ こういう景色も、気づくと、ずいぶん減っているような・・・。

路地を抜けると、堂々と成人映画の看板を掲げている「新宿国際劇場」の前に出ます(現在、解体中)。ここは「ムーラン・ルージュ」と「新宿座」の跡地です。そこを左折すると、新宿駅東南口の広場です。この場所は1980年代の末頃まで駅周辺の再開発から取り残され、「御大典記念碑」を囲むように闇市時代を偲ばせる安飲み屋や金券屋、さらには営業しているのか定かではないヌード劇場などが立ち並ぶ、「桜新道」と呼ばれるいかにも怪しげな一画でした。
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↑ 「御大典記念碑」と「桜新道」

内部に入らなくても、甲州街道の陸橋の上から見下ろせたので、ご存知の方もいらっしゃると思います。今では見違えるようにきれいになり、当時を知らない若者たちで賑わっています。こういう形で街の「浄化」「再開発」が進むのは、基本的には悪いことではないのでしょうが、一抹の寂しさも感じます。
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↑ 現在の「東南口」。
上の写真とほぼ同じ場所。

さて、甲州街道の陸橋を潜って、現在の新宿4丁目(旧:旭町、さらに以前は南町)に入りましょう。
ここは江戸時代には、天龍寺の門前町(寺社地)で、甲州街道とほぼ並行する玉川上水が流れる街でした。現在、甲州街道の陸橋の南側に沿うJRAの馬券売場前の道は、玉川上水に蓋をした道路で、「堀端通り」と呼ばれています。

明治通りを渡ったところに護本山天龍寺(曹洞宗)があります、その起源は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母、西郷局(於愛の方)の実家(戸塚氏)の菩提寺である遠江国西郷村(現:静岡県掛川市)の法泉寺です。家康が江戸に入府する際に、遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移され、同時に法泉寺の近くを流れていた天龍川にちなんで名を天龍寺と改めました。その後、天和3年(1683)の大火で焼失し、現在地に寺地12000坪、門前町5000坪という規模で移されました。江戸城の裏鬼門(坤=ひつじさる=南西)を守護する役割を担わされていたと言われています。

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↑ 天龍寺の山門。
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↑ 扉には徳川家の御紋(三つ葉葵)。

徳川将軍家所縁の寺の格式を感じさせる立派な山門は昭和の再建で、元は甲州街道に面し、その前には、玉川上水を渡る天竜寺橋がありました。橋の位置は、現在の甲州街道と明治通りの交差点のあたりになります。昭和の初め、明治通りが開設される際に境内の一部を削られ、山門を明治通りに面する形に建て直したものです。

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↑ 天龍寺の鐘。鋳造は多摩郡谷保村(現:国立市)の鋳物師「関孫兵衛」。

鐘楼の鐘は、明和4年(1767)に牧野備後守貞長(常陸笠間藩8万石)が奉納したもので、上野寛永寺、市ヶ谷八幡の鐘とともに「江戸三名鐘」と言われました。また天龍寺の鐘は、江戸に9カ所あった「時の鐘」のひとつで、内藤新宿に時を知らせる役目をもっていました。ただ、この地は江戸城からかなり遠いので、定時に鐘を打つと、登城する武士が遅刻しかねないので、少し(30分ほど?)早くついたそうです。そのあおりで、内藤新宿の旅籠屋で飯盛り女(実態は遊女)との夢を見ていた遊び人たちは、30分早く起こされることになり、そのため「追い出しの鐘」とも呼ばれたそうです。

ところで、天竜寺の門前町だった新宿南町は、明治20年(1887)の「宿屋営業取締規則」で木賃宿営業許可地域に指定されます。これは、東京中心部に近い所にあった「目障りな」細民街(芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋など)を、より都市縁辺部に追い立てようとした明治政府の政策で、これがきっかけになり、南町は急速に貧民窟(スラム)化していきます。

木賃宿(きちんやど)とは、自炊、宿泊客が米などの食材を持ち込み、薪代相当の金銭(木賃)を払って料理してもらうのが原則の最下層の旅籠でしたが、明治以後は、単に安価で粗末な安宿を意味するようになります。近代化の中で東京や大阪などの大都市に流入したものの、定まった家を持てない貧困層の人々は、日々の泊り賃を払って木賃宿の狭い一室に長期滞在することになります。こうして木賃宿を核に、低賃金工場労働者、日雇い労働者・廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、密淫売の街娼や女装の男娼、そして彼らの家族などが集積するという形で、スラム街が形成されていきました。

林芙美子の『新版 放浪記』(昭和21年=1946)には、大正12年(1923)頃、同棲相手に捨てられた20歳の芙美子が旭町の木賃宿に泊ったことが記されています。
「夜。新宿の旭町(あさひまち)の木賃宿へ泊った。石崖(いしがけ)の下の雪どけで、道が餡(あん)このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。」
「まるで明治時代にだってありはしないような部屋」の宿代は一泊30銭でした。当時の物価は、山手線の初乗りが5銭、ざるそばが8銭、うな重が50銭でしたから、30銭は1500円見当でしょうか。相当な安宿です。

その晩、芙美子は、「臨検」(警察による臨時の抜き打ち検査)に出会います。
「夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。『済みませんが……』そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返(いちょうがえ)しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。『オイ! お前、おきろ!』やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々(ばくばく)とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。『今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……』薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗(な)めながら、私の枕元に立っているのだ。『お前はあの女と知合いか?』『いいえ、不意にはいって来たんですよ。』」

密淫売の取締りのため宿に立ち入ってきた刑事に危うく娼婦と間違われそうになるのですが。ようするに、そういう場所だったのです。

戦後の混乱期には、旭町を寝ぐらとする街娼たちが、新宿御苑沿いの道にズラリと立ち並んでいたそうです。高度経済成長期になっても、旭町は、山谷と並ぶ東京のドヤ街(ドヤは宿の転倒語)として知られていました。私が新宿の街を歩き始めた1990年代初め頃でも、冬の夜には労務者のオジさんがドラム缶たき火をしていたり、甲州街道のガード下にはあやしいお姐さんが立っていたり、とても「女の子」が入り込める状況ではありませんでした。

1963年の住宅地図を見ると、天竜寺の墓地の東側から南側の路地には、「小泉」「大和田支店」「第一相模屋」「第五相模屋」「大和田分店」「ま志ふく」「さがみ」「やまと」「花嶋館」「中田家」「すえひろ」など小さな旅館が軒を並べています。この内「第五相模屋」は昭和10年頃に作成された地図にも屋号が見え、木賃宿に起源を持っています。

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↑ 1963年頃の新宿4丁目(『新宿区 1963年度版』 住宅協会地図 1963年11月)。
小さな旅館(薄緑色)が集中している。

現在の新宿4丁目は、西半分が新宿駅新南口の再開発で見違えるようにきれいになって、ドヤ街だった面影はほとんどありません。しかし、東半分には、かってのドヤが姿を変えたビジネスホテルやウィークリー・マンションがいくつか残っています。先に名前を挙げた「旅館」の内、「さがみ」「中田家」「すえひろ」はなお健在です。

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↑ 右側が旧ドヤ街、左側が天龍寺の墓地、遠く代々木のドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)。
ちょっと、シュールな取り合わせ。

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↑ わずかに残るドヤ街の名残り「中田家」。
1階は普通の高さですが、2階に相当する部分の窓を見ると、2層になっているのがわかります。
玄関の料金表は「1泊 1800円 個室2200円」。

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↑ いかにも木賃宿っぽい名前の「相模屋」はユースホステルに。
昭和10年頃の地図には、この場所に「相模屋旅館」と記されている。

さて、天龍寺の門前から甲州街道と明治通りの交差点に出て、右手の道を新宿高校の方に進むと、すぐ右手に雷電稲荷神社の赤い鳥居が見えてきます。祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)ですが、鎮座の由緒は明らかでありません。ただ、地元には「源義家が奥州征伐にむかう途中雷雨にあい、この社殿で雨宿りをしていると、どこからか白狐が一疋あらわれてきて、義家の前まできて頭を三度下げた。するとたちまち雷鳴が止み空が晴れあがった」という話が伝わっているようです。

今ではほんの小さな社地(40坪)になってしまっていますが、江戸時代後期には、天龍寺の鎮守社として、境内で芝居興行が行われたくらいの広い社地(400坪)を持っていました。すぐ前を流れる玉川上水の土手は、春は桜、夏は蛍の名所で、雷電神社は参詣の人が絶えなかったそうです。

明治に神仏分離令以降は、新宿南町の総鎮守となりましたが、氏子圏である南町の貧民窟化によって町財政がひっ迫し、大正年間には、神社の維持管理が難しくなってしまいました。結局、10年近くのすったもんだの末、ついに昭和3年(1928)、まるで神社ごと身売りするかのように、社殿と社地の大半を売却し、花園神社に合祀されてしまいます。氏子が貧困化すると神様も没落してしまうという哀しいお話です。

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↑ 雷電稲荷神社の旧社地。
社殿は売られてしまっても、信仰は生きている。

今のお社は、その名残なのですが、昭和58年(1983)に安藤清春という方が80歳の記念に建立した立派な石の標柱が立ち、「平成二十二年初午」に寄進された赤い幟がはためき、信仰は今でも生きています。地元の人たちにとっては、今でもこここそが「雷電さま」なのでしょう。

それにしても、木賃宿地域への指定、門前町を真っ二つにする道路計画など、徳川将軍家所縁の寺に対する明治政府の意地悪が感じられるように思うのは、気のせいでしょうか。

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↑ 雷電稲荷神社の親子狐。

新宿グランドツアー【2】「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー [新宿グランドツアー]

【2】 「三越裏」界隈 -モダン東京の新興の盛り場ー

現在の新宿駅には各ホームを結んでいるコンコースが3本ありますが、その真ん中の「中央通路」に直結する「中央東口改札」を出て、地上に出たところからほぼ真東に伸びる路地があります。入口に「武蔵野館」があるのが目印です。
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今でこそ人の流れから少し外れてしまっていますが、昭和戦前期、新宿の中心として栄えたのが、この路地を中軸にした「三越裏」界隈でした。「武蔵野館」(1919~)、「新宿帝国館」、「新宿劇場」、「新宿座」などの映画館や、ミュージカルやレビューを見せる「ムーラン・ルージュ」(1931~51)などの小劇場、ダンスホール、カフェなどが多くの人々を集めていました。

路地の左側に「新宿帝国館」が、右側に「武蔵野館」がありました。「武蔵野館」は、大正8年(1919)、現在の「三越」の場所に創業し、専属弁士の徳川夢声(1894~1971)が活弁を振るい、昭和3年(1928)年に現在地へ遷りました。

この路地を角筈停留所(紀伊国屋書店の前)からの道との交差点で南に折れて、2つ目の十字路の南西側に、「ムーラン・ルージュ」がありました。「ムーラン・ルージュ」は、パリ・モンマルトンの「本家」と同様に赤い風車(フランス語でムーラン・ルージュ)が目印で、左卜全(1894~1971)や益田喜頓(1909~93)が活躍していました。
「ムーラン・ルージュ」の場所は、現在の「新宿国際劇場」のあたりです。今のこの界隈には映画館街の面影はありませんが、「武蔵野館」だけはビルの中に健在です。

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↑ 現在の「武蔵野館」(黄色の看板)

また、「三越裏」には約40軒のカフェーが立ち並び、カフェー街を形成していました。「ミハト」「ツバメ」「ミカサ」「メロン」「シロクマ」・・・、こうして店名を並べてみると、現代の私たちには、むしろ古風にさえ感じさえしますが、これが当時はモダンな店名だったのです。
女給さんの数は新宿全体で2000人を数えるほどで、女給と喫茶ガールの群は新宿の名物のひとつでした。しかし、当時の文献には「銀座あたりのバー。喫茶店のヲンナの子とくらべて遥かに地味である」「流行のサンプルは銀座を歩いても新宿には決して現れない」と評されていて、ファッションセンス的には、まだまだ二流でした。でも、その分、林芙美子のように上京してきたばかりの田舎娘でも、女給になって都会生活の第一歩をスタートすることができたのです。

2「三越裏」7 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)  (2).jpg
↑ 織田一磨『画集新宿風景』新宿カフェー街(1930年)

昭和4年(1929)のヒット曲「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千夜子)は、1番銀座、2番丸の内、3番浅草の順で4番に新宿が歌われています。

シネマ見ましょうか お茶のみましょうか
いっそ小田急(おだきゅ)で 逃げましょうか
変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る

かっての武蔵野がデパートを核とし、映画館と喫茶店、郊外電車に象徴される盛り場に変貌していった様子が巧みに歌われています。

その2年後の昭和6年(1931)の「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)でも、1番銀座、2番神田、3番浅草に続いて、新宿は4番で歌われています。

夜更けにひと時寄せて なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか 気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都 夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

モダン東京の盛り場としては、まだ4番手、新興の、どこか性的な雰囲気が漂う二流の盛り場としての新宿の位置付けがよくわかります。

昭和20年(1945)5月25日のアメリカ軍による山の手大空襲で、新宿一帯は焼け野原になります。そして、8月15日の敗戦後、このエリアには典型的な焼け跡闇市が成立します。東口の高野や中村屋の周辺には尾津組の「竜宮マート」が、東口から南口にかけての線路際には和田組マーケットの露店が軒を連ねました。

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↑ 新宿駅東口~南口の闇市地図

闇市には、日本軍が本土決戦に備えて蓄積していた物資や、アメリカ進駐軍の物資が、なぜか(横流しされて)出回り、敗戦後の窮乏した社会の中で「お金さえあれば、なんでも手に入った」という不思議な空間が出現します。また食糧難の時代、闇市のシチュー(実は、進駐軍の残飯を煮込んだもの)が人々の空腹を満たし、エチルアルコールではなく、人体に有害なメチルアルコールが入った怪しげな密造酒を売る飲み屋が、酒好きの人たちを引きつけました。

焼け跡の露店街は、進駐軍の命令で昭和25年(1950)末までに強制的に立ち退かされ、姿を消しました。しかし、その系譜は、その後の新宿を語るに欠かせない地下水脈になっていきます。

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↑ 巨大な闇市「和田組マーケット」

夕暮れ時になると、東口から南口にかけて、闇市の周囲の街角には、戦災で保護者や生活の糧を失った女性たちが立ち始めます。そうした街娼たちも、次第に路上から屋内の「飲み屋」に拠点を移していき、旧カフェー街だった「三越裏」は、敗戦後、非合法買売春地区である「青線」化していきました。

そう言えば、このあたりには、1990年代中頃まで、怪しげなレストハウスが残っていました。あれ、なんでそんなこと知ってるんだろう・・・?

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↑ 「三越裏」界隈(今はもう「三越」はない)

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↑ こんな寂しい路地もある。

現在の「三越裏」界隈は、もう「三越」は無くなってしまいましたが、普通の飲食店街で、猥雑な感じはまったくありません。通り沿いには、ほとんど古いお店は見かけなくなりましたが、老舗の天麩羅屋「船橋屋」(明治末期の創業)と「つな八」(大正12年=1923創業)があり、漂ってくる胡麻油の香りが、お腹が空いているときにたまりません。

路地を右に折れて中央通りに出て少し行くと、明治通りに突きあたります。その直前の左手のビルには夕暮時になると、ニューハーフ・ショーハウスの看板が出ます。後でまたご案内しますが、ニューハーフ/女装系の店というのは、ゲイ系のお店と違って一カ所に集まってなく、普通の町並みの中に紛れるように、さりげなく存在しているのです。

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↑ ニューハーフ・ショーハウス「Guppy(グッピー)」の看板。

新宿グランドツアー【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー [新宿グランドツアー]

新宿、性社会史グランドツアー

― 江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理―

    案内人:三橋 順子 
 
【1】新宿駅東口広場 -ツアーをスタートする前にー

(1)新宿駅の立地と歴史

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今日は、「江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理、新宿、性社会史ツアー」にご参加くださり、ありがとうございます。私が案内人の三橋順子です。よろしくお願いいたします。

皆さんが今、降りてこられた新宿駅は、明治18年(1885)、日本鉄道品川線(品川~赤羽:現在のJR山手線の原型)が開通するにともなって設置されました。明治5年(1872)に、新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通してから13年後のことでした。

駅の場所は、宿場町(内藤新宿)の西の外れの「追分」から、さらに西に行った所で、地籍は内藤新宿を外れて、豊多摩郡角筈(つのはず)村でした。つまり、新宿駅は、厳密には新宿ではなく「角筈の停車場」だったのです。

開業当時、駅の周辺には民家は1軒もなく、ほとんど畑地と欅(けやき)の森でした。宿場町の中心から約1kmも離れていて不便だったため、乗降客は1日に50人程度でいたって少なく、もっぱら貨物中心の駅でした。現在の新宿駅の平均乗降者数は、346万人で日本一、いや世界一です。この130年間の新宿駅の大発展が、どれだけすさまじいものであったかがわかります。

当時の新宿駅で取り扱っていた貨物は、材木、薪炭が中心で、あとは野菜や米などでした。駅の周辺には、貨車から下ろされた材木や炭を扱う問屋が何軒か立っていました。現在、東口の新宿通り沿いにビルを構える「紀伊国屋書店」も、材木商→薪炭問屋→書店という来歴をもっています。

さて、その後の新宿駅ですが、明治22年(1889)、甲武鉄道が新宿から八王子までの路線(現:JR中央線)を開通しますと、新宿駅は2線が接続する乗換駅になります。

明治36年(1903)には、東京市電の新宿駅前~月島通八丁目(後の都電11系統)と新宿駅前~岩本町(後に両国駅前まで延伸して都電12系統)の2路線が新宿駅東口に乗り入れます。さらに角筈~万世橋(後に水天宮前まで延伸して都電13系統)が加わります。

大正期になると、私鉄の新宿乗り入れが始まります。まず、大正4年(1915)に京王電気軌道(起点は八王子。現:京王電鉄)が南口の甲州街道上に、大正12年(1923)には帝国電灯西武軌道線(起点は荻窪。後の都電14系統杉並線。1963年廃止)が東口に、そして昭和2年(1927)には小田原急行鉄道(起点は小田原。現:小田急電鉄)が西口に、それぞれ新宿駅を開業します。

大正12年9月の関東大震災後、被害が大きかった都心部から武蔵野・多摩地域(郡部)へ移り住む人たちが増え、東京の市街は西へ発展していきますが、これらの私鉄路線は、そうした郊外の人たちの都心への足になり、新宿駅が東京西郊のターミナルとして発展する契機となりました。

戦後になると、まず、昭和27年(1952)に、西武鉄道新宿線が高田馬場から延伸して、歌舞伎町に西武新宿駅を設置します。西武鉄道としては、新宿駅東口に直接乗り入れたかったのでしょうが、すでに新宿駅の東側には余地がありませんでした。

昭和34年(1959)には、新宿で最初の地下鉄、営団地下鉄(現:東京メトロ)丸ノ内線が開通しました。すこし間を置いて、昭和55年(1980)に都営地下鉄新宿線(京王線と相互乗り入れ)、平成9年(1997)に都営地下鉄大江戸線と続き、そして、平成20年(2008)には東京メトロ副都心線が開通し、新宿は地下鉄網でもターミナルになります。丸ノ内線、新宿線には新宿駅と並んで新宿三丁目駅も設けられました(副都心線は新宿三丁目駅だけ)。JR新宿駅と地下鉄駅を結ぶ形で、新宿の地下道・地下街は充実していきます。

ところで、新宿の歴史地理を考えるには、留意しなければならないことが2つあります。

1つは、今まで新宿駅のことを述べてきたことと矛盾しますが、新宿の歴史地理は、新宿駅を中心の考えてはいけないということです。先ほど述べたように、新宿駅は、もともと宿場町のド外れです。本来の地理感覚は、今の地理感覚とはまったく逆で、お江戸の中心部→四谷大木戸→内藤新宿(新宿1丁目・2丁目)→新宿追分(新宿3丁目)→新宿駅(現在は新宿3丁目ですが、本来は角筈村)という感覚でした。ですから、この「新宿性社会史ツアー」も、ほんとうはJR四谷駅から歩き始めると、本来の地理感覚に近くなるのですが・・・まあ仕方ないでしょう。

2つ目の留意点は、新宿の歴史地理を考える基本線は、江戸城半蔵門と宿場町内藤新宿、さらに新宿駅を直結して、ほぼ東西に走る「新宿通り」だということです。現在、都心部と新宿とを結ぶ幹線としては、「新宿通り」の北を並走している「靖国通り」(都道302号線)がよく知られていますが、昭和8年(1933)に一部が拡幅されるまでは、細い裏道に過ぎず、内藤新宿のあたりでは「北裏通り」と呼ばれていました。全面的に拡幅されて、今のような幹線道路になったのは戦後になってからのことです。「新宿通り」は追分までは甲州街道(国道20号線)、そこから先、新宿駅前までは「青梅街道」(都道4号線)で、この道筋こそが、新宿の歴史と深く結びついているのです。

この2つの留意点を頭に置いて、さあ、出発しましょう。

(2)新宿駅の向き

今日の集合地点、今、私たちがいる「アルタ」前の広場は、「新宿駅東口広場」ということになっています。振り返って新宿駅を見ていただいて、駅の向きに注意してみてください。ちょっと変ではありませんか?

新宿駅1.jpg
↑ 現在のJR新宿駅「東口」

今、私たちが出てきたのは、線路に沿って横に長~い駅ビルの短かい方の辺、一般の建物だと間口ではなくて、妻(つま)側(箱型構造物の狭い方の側面)なのです。方角でいうと北側です。思い出していただきたいのですが、皆さん、いちばん大きな改札口(東口改札)を出た後、まっすぐ正面に進まずに左方向に行きましたね。そしてここに出てきました。つまり、今、私たちがいるのは、南北に細長い新宿駅の北東隅なのです。東口と言うよりも「東北口」と言うべき場所なのです。

新宿駅の駅舎は、開業当初は、角筈の原っぱの中にある小屋(初代駅舎)で、次いで明治38年(1905)に宿場町(内藤新宿)に比較的近い甲州街道口(現在の南口)に、左右に三角屋根があるこ洒落た駅舎ができました(二代目駅舎)。それが大正14年(1925)に東口に移され新築されます(三代目駅舎)。この駅舎は、車が青梅街道(新宿通り)に出る便を考えて北向き(北正面)に造られました。当然、車寄せも北側にありました。

昭和初期になると駅の東側の「三越」「伊勢丹」などのデパートが立地する追分や、映画館やカフェーが連なる「三越裏」界隈が賑わうようになり、大勢の人が、駅を出ると新宿通りを東へ、あるいは一度南に戻ってから武蔵野館の通りを東へ歩いていきました。しかし、今、歌舞伎町になっている地域(旧:角筈1丁目)には、戦前は東京府立第五高等女学校と大久保病院くらいしか施設はありませんでしたから、北東方面への人の流れとしては、住民、第五高女の生徒さん・教職員、大久保病院への見舞客・職員くらいで、今、見るような大勢の人の流れはありません。どうも人の流れからすると、駅があさっての方向を向いていた感じは否めません。

ちなみに、その頃の大久保方面への道筋は、あそこに見える三井住友銀行(現在、工事中)とみずほ銀行(旧・富士銀行)の間の細い路地でした。指形が彫られた石の道標があったので、「指差し横丁」と言われていました。

新宿駅2.jpg
↑ 大久保方面への旧道「指差し横丁」

ついでに、説明しておきますと、線路の向こうに「小田急デパート」が見えていますが、あそこが西口です。新宿駅に西口が設けられたのは、けっこう後で、大正12年(1923)のことです。正確に言うと、「青梅街道口新宿駅」と言って、品川方面から着た電車は、甲州街道口の新宿駅に停まった後、青梅街道口新宿駅に停まりました。関西の近鉄橿原線(奈良県)に大和八木駅と八木西口駅というのが隣り合ってありますが、あれに似ています。あっ、これ以上は鉄分が濃くなり過ぎるので止めておきましょう。

西口の商業地化が進むのは、明治31年(1898)以来、西口の土地の大部分を占めていた淀橋浄水場が昭和40年(1965年)に東村山に移転して、その濾過池の跡が再開発されて以後のことです。西口に林立する超高層ビルの最初である「京王プラザホテル」(地上47階地下3階、高さ171m)が完成したのは、昭和46年(1971年)のことでした。

(南方向に移動しながら)

さて、話を東口に戻しますが、東京オリンピックを前に、新宿駅は大改造され、昭和39年(1964)現在のステーション・ビル(マイシティ)がオープンします(4代目駅舎)。新しい駅ビルは、線路に沿って南に長く延びる東向きに建てられ、東側に玄関(車寄せ)が作られました。それまでの正面だった青梅街道(新宿通り)に向いた出口は脇出口に格下げになりました。

新宿駅3.jpg
↑ 本当は、こちら側が新宿駅の正面

はい、ここまで来ると、新宿駅ビルの長い側、間口の側が見渡せます。こちら側が現在の新宿駅の正面です。車寄せがちゃんとありますね(白い庇があるあたり)。

ところが、皮肉なことに、駅ビルが東を向いた1960年代中頃から、人の流れが東から北へと変わってきます。1950年代に生まれた歌舞伎町が新宿の中心的な盛り場に成長し、駅「東北口」からモア街(戦前の「駅前新道)、そして「コマ劇場」に突き当たるセントラルロードが人の流れの中心になっていきます。

現在の新宿駅を見ると、駅の脇(北側)に出る人の流れが圧倒的で、駅正面(東側)ははっきり言って寂れています。どうも新宿駅は人の流れを読むのが苦手のようです。その遠因を、明治の昔、この駅が人ではなく貨物中心の駅として出発したことに求めるのは、考えすぎでしょうか。


【論文】「着物趣味」の成立 [論文・講演アーカイブ]

一般社団法人現代風俗研究会・東京の会の研究誌『現代風俗学研究』15号「趣味の風俗」(2014年3月 ISSN2188-482X)に掲載した論文「『着物趣味』の成立」のカラー画像入り全文。
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日常衣料だった「着物」が非日常化し、さらに「趣味化」していく過程を、和装文化の展開を踏まえて、まとめてみた。
欲張った内容なので不十分な点は多々あるが、自分が考える和装文化の衰退と「着物趣味」の成立の流れを、まとめることができたと思っている。

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「着物趣味」の成立             三橋 順子

【概要】
 本来、日本人の日常の衣料であり、洋装化が進んだ戦後においても時と場を限定しながら衣料として機能していた着物(和装)の世界に、2000年頃からひとつの変化が現れる。それは着物の趣味化である。「着物趣味」は戦後の和装世界で形成されたさまざまな規範を超越しながら、ある種のコスチューム・プレイとして新たな展開をみせていく。本稿では、近代における和装文化の流れを踏まえながら、着物趣味の成立過程をたどってみたい。
キーワード  着物  趣味化  コスチューム・プレイ

はじめに
 まず「趣味」とは何か、ということを考えておこう。「趣味」を辞書で引くと、「①仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。②どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(『大辞泉』)というように、だいたい2つの意味が出てくる。ここで論じる「着物趣味」の「趣味」は①である。さらに、人間だれしもが持っている時間に注目すれば、趣味とは、食事や睡眠などの生活必要時間、仕事や職業、家事などの労働時間以外の自由時間(余暇)に営まれるものと言うことができる。たとえば、私のように、ほぼ毎日、自分と家族のために食事を作っている人は「料理好き」かもしれないが、それは家事労働であって「料理趣味」ではない。料理趣味とは、日頃、家庭で料理をしない人が、休日などの余暇を利用して日常の食べ物とはちょっと違うレベルのものを料理することを言うのだと思う。
 次に「着物趣味」の成立の要件を考えてみたい。着物が生活衣料である間は、着物を着ることは日常に必要な営みであって、趣味にはならない。私の明治生まれの祖母は2人とも、生涯、ほとんど和装しかしなかった人で、毎日、着物を着ていたが、それは「趣味」とはまったく遠い。そうした着物が日常衣料だった時代にも、裕福で高価な着物をたくさん誂える人はいたが、それは「着道楽」であって、「着物趣味」とは言わなかった。つまり、着物が趣味化して「着物趣味」が成立する前提、第1の要件として、着物が日常衣料としてのポジションを失うことが必要になる。
 最初の辞書的定義のように「趣味」は本来、個人のものだ。しかし、個人が孤立している間は、ほとんど社会性を持たない。「趣味」がある程度の社会性をもつためには、同じ「趣味」をもつ「同好の士」が集まることが必要になる。つまり、「着物趣味」の同好の士が横のつながりをもって集うことが「着物趣味」の成立の第2の要件になると考える。
 そして、その仲間たちの間で、「着物趣味とはこういうものだ」という意識、ある種の規範が共有される。その共有された規範が仲間としての意識を強化していく。こうした特有の規範の成立を第3の要件と考えたい。

Ⅰ 日常衣料としての和装の衰退 ―趣味化の前提として―
1 洋装化と和装の衰退
 明治の文明開化とともに日本人の洋装化が始まる。西欧近代文化の輸入と模倣に懸命な新政府は鹿鳴館(1883)に象徴される洋風文化を演出するが根付かなかった。洋装化は軍人の軍服、巡査の制服、官公吏の上層部や洋行帰りの学者など、男性のごく一部に止まり、女性の洋装化はほとんど進展しなかった。
 大正後期から昭和初期(1920~36)になると、洋服を着たモダンボーイ(モボ)とモダンガール(モガ)が最新の流行ファッションとして注目されるようになる。とりわけ、女性の洋装化の端緒となったモガへの社会的注目度は高かった。しかし、それは都市における尖端文化ではあったが、全国的・全階層的な広がりを持つものではなかった。
 一方、この時代は和装にも大きな変化があった。化学染料と力織機の普及により銘仙やお召などの絹織物の大量生産が可能になり、それまで木綿の着物しか着られなかった階層にまで絹織物が普及していく。
 昭和初期に大都市に出現するデパートは、絹織物としては安価な銘仙を衣料品売り場の目玉商品に据える。そして、産地と提携した展示会などを開催して積極的に「流行」を演出していった。
主要な産地(伊勢崎、秩父、足利、八王子など)は、デパートが演出する「流行」に応じるために熾烈な競争をしながら、デザインと技術のレベルを高めていった。その結果、アール・ヌーボーやアール・デコなどヨーロッパの新感覚デザインが取り入れられ、「解し織り」(経糸をざっくりと仮織りしてから型染め捺染した上で織機にかけて、仮糸を解しながら、緯糸を入れていく技法)など技術の進歩によって多彩な色柄を細かく織り出すことが可能になった。こうして、従来の着物とは感覚的に大きく異なる、華やかで斬新な色柄の銘仙が大量に市場に供給され、銘仙は都市大衆消費文化を代表する女性衣料としての地位を確立する(三橋2010)。

銀座1932年(左).jpg銀座1932年(右).jpg
【写真1】銀座4丁目交差点(昭和7年=1932年) 
出典:石川光陽『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社 1987年)

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【写真1拡大】
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【写真1拡大】
 写真1は、1932年(昭和7)の銀座4丁目交差点である(石川1987)。男女とも和装・洋装さまざまな服装の人が行き交い、この時代の服飾文化の豊かさを思わせる。右側、仲良く連れ立った2人の女性の1人は、典型的なモガ・ファッションだが、もう1人は大きな麻の葉柄の振袖で、おそらく銘仙と思われる。また左側の袴姿の女子学生の着物は直線を交差させたアール・デコ風の銘仙だと思う。そしてその右の男の子を連れた母親は縞お召、もしくは縞銘仙を着ていると思われる。
 この時代における銘仙・お召の流行が見て取れるが、日本近代の服飾史を洋装化の歴史としか見ない従来のファッション史のほとんどは、モガの出現に注目するあまり、この時代が大衆絹織物の普及による女性の和装文化の全盛期であったことを見落としている(註1)。
 日中戦争から太平洋戦争の時代(1937~45)になると、軍服や国民服の着用によって男性の洋装化が進行する。また戦時体制への移行にともない繊維・衣服の統制が行われ、「贅沢は敵だ!」のスローガンのもと、女性の和装文化が抑圧されていった。また、戦地に赴く男性に代わる労働力として、「非常時」への対処として、女性の衣服にも活動性が求められ、そうした社会的要請から着物の上に履くズボン型衣料としての「もんぺ」が普及する。そして、戦争末期には、アメリカ軍の空襲によって繊維製品生産と流通機構が破壊されてしまう。
 戦後混乱期(1945~51)は、戦災による物資の欠乏に始まり、繊維素材・製品の統制が衣料品の不足に輪をかけた。そうした中、日本を占領した進駐軍がもたらしたアメリカ文化への崇拝、日本の伝統文化否定の風潮が強まり、和装は旧態の象徴になっていく。その結果、戦時中に進行した男性の洋装化に加えて、女性の家庭外での洋装化が大きく進行する。
 そして高度経済成長期(1960~75)になると、経済効率を優先した社会システムの画一化が進む。衣服における画一化はすなわち洋装化であり、企業にでも学校でも洋装が一般化・標準化する。同時に、家庭生活の洋風化も進行し、それまでは外では洋装、家では和装が主流だったのが、家庭内においても男女ともに洋装化が進んだ。
 こうして、和装は生活衣料としてのポジションを失っていった。その時期は、地域によって差はあるが、東京などの大都市では1960年代後半から70年代前半の時期に押さえることができると思う。

2 女性着物の多層性の崩壊
1960年代後半から70年代前半に起こった注目すべき現象のひとつは、女性着物の多層性の崩壊である。
(表1)着物の階層性
着物の階層性.jpg
 着物を着る場が大きく狭まった結果、礼装・社交着としての着物は残ったものの、街着・家内着・労働着としての着物(お召・銘仙・木綿・麻)は洋装に取って代わられ衰退した。新たに茶道などの「お稽古着」が登場し、色無地や江戸小紋が好んで用いられるようになる。また、本来は家内着だった紬は高級化して社交着化する。階層性の崩壊と同時に、着物の材質も多様性が失われ、木綿・麻・ウールなどは、ごく一部が高級化して残った以外は姿を消し、着物と言えばほとんどが絹という状態になっていく。

3 「着付け教室」の登場と規範化
 この時期に起こったもうひとつの注目すべき現象は「着付け教室」の登場である。1964年(昭和39)に「装道礼法きもの学院」が、1967年に「長沼静きもの学院」(当時は「長沼学園きもの着付け教室」)が、そして1969年には「ハクビ京都きもの学院」が創立され、「着付け教室」として全国的に展開していく。現在に続く大手の「着付け教室」が1960年代後半に創立されたことは偶然ではなく、それなりの社会的理由が有ったからだと思われる。
 男性の着付けに比べて女性の着付けは帯結びが複雑・多様であるが、それにしても、着物の着付け、帯の結び方は、母や祖母から娘が生活の中で教わり習い覚えるもので、月謝を払って習うようなものではなかった。しかし、戦中・戦後混乱期に着物を思うように着られなかった女性が母親になった時、成長した娘に着物の着付けを伝授できない事態が発生したと思われる。
 たとえば、1925年(大正14)生まれの女性は、戦間・戦後混乱期(1941~50)には16~25歳だった。23歳で娘を産めば、1967年には母親42歳、娘19歳である。成人式が間近になった娘に着付けを教えようと思っても、自分の和装経験が乏しく自信がないというようなケースである。祖母がいれば助けてもらえるだろうが、都会で核家族となると、そうもいかない。どこか教えてくれる所はないだろうか?
 この時期に「着付け教室」が次々に創立された背景には、そうした戦争による母から娘へという和装文化の継承断絶が生んだ需要があったのではないだろうか。
 着物の着付けは、いたって不器用な私の経験からして、単に着るだけなら、3日も習えば、なんとか着られるようになり、後は反復練習である。器用な人なら1日で覚えられるだろう。しかし、それでは月謝を取って教える「着付け教室」の経営は成り立たない。したがって、「着付け教室」では手っ取り早い簡便な着付けを教えず、いろいろと複雑な手順で教える。さらにごく日常的・庶民的な着付け法ではなく、戦前の上流階級の着付け法をベースにして伝授する。その方が付加価値が高いからである。
 実際、この時期の著名な着付け指導者には、戦前の上流階級の女性が多かった。1970年にベストセラーになった『冠婚葬祭入門(正)』(カッパ・ホームス)で「着付け」法を広めた塩月弥栄子(1918~)は裏千家14世家元碩叟宗室の娘であり、1973年から「ハクビ総合学院」の学長を務めた酒井美意子(1926~99)は旧加賀藩主で侯爵の前田利為の娘で、旧姫路藩主で伯爵の酒井忠元の妻だった。
 こうした戦前の上流階級の女性たちによって、自分で働かなくてよい上流階級の「奥様」「お嬢様」の非活動的な着付けがマニュアル化され、「着付け教室」で教えられ規範化していった。その結果、着物の着方がすっかり様式化し「こう着なければいけない」という形ができ上がる。
 本来、生活衣料であった着物には、その状況に応じた着付け方があった。働く時には身体を動かしやすいように楽に緩めに着付けし、たくさん歩く時には裾がさばき易いように合わせを浅めにしてやや裾短かに着付けるなどといった着付けの融通性が失われてしまった。こうして、働けない、身動き不自由な、皺ひとつ許されないきっちりした、着ていて苦しい着物の着付けが成立する。
 習わなければ自分で着られない衣服は、もう日常の生活衣料とは言えない。こうした過程をたどって、着物は日常の衣服としての機能を喪失していき、特別な場合、たとえば、お正月、冠婚葬祭(成人式、結婚式、葬儀、法事)などの非日常の衣服となり、あるいは特殊な職業の人(仲居、ホステスなど)の衣服になってしまった。

Ⅱ 「美しい着物世界」の成立 
 1 高級化と「美しい」の規範化
 着物が生活衣料の地位を失い、特別な衣服になったことで、着物の生産・流通業界は、安価な大量生産中心から高価な少量生産へと転換していく。かっての主役だった銘仙やお召はまったく見捨てられ、手作業のため少量生産しかできなかった各地に残る紬が見出され、そのいくつかが付加価値がある織物として高級品化していった。
 たとえば、1933年(昭和8)に秩父産の模様銘仙は5円80銭~6円50銭だった。当時の6円は現代の21000~24000円ほどと考えられ、中産階層なら1シーズン1着の購入が可能な値段だった(三橋2010)。ところが、1999年(平成11)に八丈島特産の黄八丈の反物は48万円もした。平均的な収入の人だったらローンでも組まない限り購入は難しい。
 こうした着物の高級品化時代に主な情報媒体となったのが婦人画報社(現:ハースト婦人画報社)の『美しいキモノ』(1953年創刊・季刊)に代表される着物雑誌である。この種の着物雑誌の中身は、高価な着物のオン・パレードであり、安価な着物やまして古着などはけっして登場しない。高価な着物を売りたい着物業者と、そうした高価な着物を購入できる富裕な奥様・お嬢様の「美しい」「上品な」着物世界である。私はこれを「美しい着物世界」と呼んでいる。
 「美しい着物世界」の特徴は、誌名通り「美しさ」と「着物」とが過度に結合したことである。『美しいキモノ』は、創刊以来毎号、高価な着物を着た女優さんが表紙を飾るのが通例で、中の誌面もほとんどがプロのモデルの着物姿である。その姿はたしかに美しく、なるほど誌名にふさわしい、と思ってしまう。しかし、着姿が美しいのはもともと美しい女優やモデルが着ているからであって、同じ着物を一般の女性が着ても必ずしも美しくなるとは限らない。
 着物が日常の衣料であった時代、そんなことは考えるまでもなく誰もが解っていることだった。ところが、着物が非日常の衣服になるにつれて、わざわざ着物を着て特別の装いをするのだから、きっと美しくなるに違いない、というある種の期待が生まれてくる。実際にはそうなる場合もそうならない場合もあるわけだが、着物業界は、そうした期待感を利用して、着物雑誌の誌面を通じて「着物を着ている人は美しい」というイメージを流布し、「着物を着れば美しくなれる」さらに「高価な着物を着ればより美しくなれる」という幻想(錯覚)を喚起し、売り上げの向上につなげるという戦略をとった。
 「着物を着ている人は美しい」というイメージは、やがて「着物を着ている人は美しくなければならない」という非現実的な意識に転化していき、必ずしもそうならない女性たちを着物世界から遠ざけることになった。

2 色・柄の衰退
 日本の女性の和装文化は、江戸時代には遊廓の高級遊女(花魁)がファッションリーダーであり、明治以降も芸者をはじめとする玄人筋が大きな比重を保っていた。着物が生活衣料としての地位を失っていく時代になっても着物を着続け、着物業界の売り上げのかなりの部分を担ったのは銀座や北新地に代表されるクラブ・ホステスたちだった。にもかかわらず、「美しい着物世界」では、こうした玄人の着物は徹底的に無視・排除される。間違っても「銀座クラブママの着こなしに学ぶ」などという特集は組まれない。
 「美しい着物世界」の着物のコンセプトは、あくまでも「上品」である。これを意訳すれば「玄人っぽくない」ということになる。具体的には、色味の弱い色、小さ目の柄、つまり自己主張の弱い「控えめ」が上品とされる。色については、原色や強い色は忌避され、薄い色、さらには無彩色(白・黒・グレーの濃淡、銀)が好まれる、柄は巨大柄・大柄が避けられ、比較的小さめの柄を反復する小紋や、細かな点で小さな意匠を全面に置く江戸小紋、さらには柄が消失した色無地が好まれるようになる。また、日本の伝統的な意匠である縞も、太縞や棒縞のようなシンプルで大胆なものは忌避され、細縞やよろけ縞のような控えめなものが好まれる。太縞や棒縞がもつ粋なイメージが玄人(粋筋)を連想させるためと思われる。
 こうした傾向は着物の階層性が崩壊し、「お稽古着」の比重が増した結果、万事派手を嫌い、地味を上品とする茶道の世界の「趣味」が着物全体に影響を及ぼすようになったことが作用していると思われる。その結果、戦前の着物に比べて、現代の着物は、色は淡く、柄は小さく、色柄のバリエーションが少なくなり、創造性が失われ類型的となり、個性的でなく画一化が進んでしまった。服飾デザインという見地からすれば、明らかな退化であるが、商業的にはそうした無個性な無難な着物でないと売れなくなってしまったのである。

3 高級化の帰着と「趣味の着物」
 こうした着物の高級化は、着物の世界をますます狭めていった。何10万円という衣料を次々に購入できるような富裕層がそんなに多いはずはない。「和装が好き、着物を着たいけど高くて手が出ない」という階層の方がずっと多かった。それでもバブル経済期(1980年代後半)はまだよかった。驚くほど高い着物が売れた。たとえば、染色家の久保田一竹(1917~2003)の一竹辻が花の訪問着が1200万円とか。しかし、購入された高価な着物が実際に着られたかというと必ずしもそうでもなく、多くは「箪笥の肥やし」と化し、着物世界が再び拡大することにはつながらなかった。そして、バブル崩壊後、着物業界は大量の在庫を抱えたことに加えて、バブル期の「箪笥の肥やし」がリサイクル市場に放出されることで、新規需要の落ち込みに苦しむことになる。
 ところで、1980年代には「趣味の着物」を看板にする店が現れる。目の肥えた顧客を相手に、普及品ではなく高級紬や作家物など厳選された商品を扱う店である。しかし、この「趣味」は、「はじめに」で紹介した辞書の②の意味「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」と解釈すべきだろう。「良いお着物の趣味でいらっしゃいますわね」の「趣味」である。この時点では、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という①の意味での「着物趣味」はまだ成立していなかった。

4 男性の和装の(ほぼ)絶滅
 写真2は、1959(昭和34)正月のある一族(東京在住)の集合写真である(小泉2000)。

ある家族のお正月(1954) (2).jpg
【写真2】ある一族のお正月(昭和34年=1959年)
出典:小泉和子『昭和のくらし博物館』(河出書房新社 2000年)

 成年女性8人はすべて和装である。これに対して成年男性4人は家長と思われる1人が和装なだけで他の3人は洋装である。また子供たちも女児6人が和装4、洋装2であるのに対し男児2人はいずれも洋装だ。つまり、男性の和装はおじいちゃんだけという状態で、男性の洋装化=和装の衰退が女性のそれよりもかなり早く進行したことがはっきり見てとれる。
 お正月ですらこの状態なのだから、平常時において男性が和装する機会はいよいよ乏しくなっていった。歌舞伎役者、茶道家、落語家、棋士など一部の限られた職業の男性の需要に応じた生産は続けられていたが、1970年代後半から80年代になると、男性の着物は高級品を除き店頭から姿を消していく。和装趣味の青年が着物を着たいと思っても、(彼の手が届く範囲では)「どこにも売っていない」状況になり、着付けのマニュアル本からも男性向けの記述はほとんどなくなってしまう(早坂2002)。こうして、1980年代後半から90年代前半には、男性着物はほぼ絶滅状態になり、着物は女性の物という社会認識が定着し、着物世界におけるジェンダー的な乖離は極限に達した。

 こうして、着物趣味の成立の第1の要件である日常衣料としての地位の喪失は、少なくとも1980年代末には完全に達成されていた。しかし、まだこの時期には、着物世界の人間関係は、着物を売る着物屋と着物が好きで買う客の商業的関係であり、着物好きの客同士の横のつながりは、ほとんどなかった。第2の要件である着物好き同士の横のつながりができるまでには、もう一段階が必要だった。

Ⅲ 情報革命と着物世界 ―趣味化への胎動―
1 「着ていく場所がない」
 着物を着て家を出ると、顔見知りの近所の奥さんに「あら、お着物でお出かけ? 今日は何かありますの?」と興味津々に尋ねられる。多くの着物好きの女性が経験したことだ(男性の場合はさらに不審がられて声も掛けられない)。1990年代になると、日常性を完全に喪失し衣服として特殊化してしまった着物には「着る理由」が必要とされるようになってしまった。「ただ着物を着たい」、「着て出かけたい」ができない状況が生じたのである。
 「近所でジロジロ見られるので、着物で出掛けられない」、「変わり者扱いされるので(着物のことは)周囲の人に黙っている」、そんな話を聞いて「なんだ、女装と同じではないか?」と思ったことがある。冗談ではなく、1990年代には、着物のファッション・マイノリティ化はそこまで進行していた(三橋2006)。
 実際、堂々と着物を「着られる場所」「着る機会」は少なかった。お正月は年に1度だし、結婚式に呼ばれる機会もそうはない。そうした状況の中で、「鈴乃屋」や「三松」のような大手の着物チェーンが「着物を着る場」としてイベントを企画・開催するようになる。しかし、お商売だから当然なのだが、そうしたイベントは着物展示会と併設されていたり、そうでなくても「お出かけ」の度に着物を作ることを勧められ、結局、多大の出費をすることになる。そうした制約なしに、「気楽に着物を着る場・機会があればいいのに」と、着物好きの多くが思うようになっていた。

2 パソコン通信からインターネットへ
 1997年8月、パソコン通信「NIFTY-Serve」の中に「きものフォーラム」が開設される。「NIFTY-Serve」のサービス開始(1987年4月)から10年も後のことだった。そして11月25日には東京赤坂の「全日空ホテル」で「きものフォーラム」の「オフ会」(オフライン・ミーティング)が20名の参加者で開催された(早坂2002)。
 これはパソコン通信と趣味の世界の結合としてはかなり遅い。たとえば女装趣味のパソコン通信「EON」(主宰:神名龍子)は1990年に創立され、その活動を通じて1995年頃にはすでに「電脳女装世界」ともいうべき女装仲間の横のつながりが形成されていた。1996年4月に開催された「EON」ボード上に設置された「クラブ・フェイクレディ(CFL)」(主宰:三橋順子)の「オフ会(FL3)」には77名が参加している。そんなものと比較するなと言われるかもしれないが、パソコン通信を通じての仲間の結合という点で、この時期の「着物仲間」は「女装仲間」よりもずっとマイナーな存在だったことがわかる。
 1996~97年頃から日本でもようやくインターネットが盛んになると、1997年に秋田県在住の「澤井夫妻」がインターネット上に「きものくらぶ」を開設する。これが日本最初のインターネット着物サイトと思われ、私が最初にアクセスした着物サイトも「きものくらぶ」だった。同年12月には早坂伊織氏が「男のきもの大全」を立ち上げ、これが最初の「男着物」専門サイトになった。
 こうして、パソコン通信、次いでインターネットを媒介にして、日本各地に孤立、散在していた「着物好き」が結びつき、仲間化していくことになる。

3 「男着物」の復活と男性主導の「オフ会」
 パソコン通信時代から代表的な「着物好き」として活躍する早坂氏の本業が「富士通」のシステムエンジニアだったように、また「きものフォーラム」の中に「男のきもの」会議室が設置されたように、パソコンの普及度、パソコン通信やインターネットへのアクセス率は、その初期においては男性の方が圧倒的に高かった。したがって、インターネットによる仲間化や「オフ会」の開催は男性が先行する。
 早坂氏が主催する男着物の「オフ会」である「男のきもの大全会」が開催されたのは1998年10月だった(参加者50名)。1999年12月には、毎週土曜日に着物男性が銀座に集まる「きものde銀座」の第1回が開催される(参加者14名)。この集まりは1999年11月に開催された第2回「男のきもの大全会」から派生したものだった(早坂2002)。
 こうした経緯をたどって、1990年代末に、ほぼ絶滅状態だった男着物が復活し仲間同士の横のつながりが形成されていった。1990年代末から2000年代初頭にかけて、着物趣味成立の第2の要件が整ったことになる。

4 「ふだん着きもの」への志向
 「インターネットきもの」の初期に多くのアクセスを集めたサイトに「あみさんのきもの」(主宰・鳥羽亜弓)があった。このサイトの特徴は、地方在住の子育て中の主婦が毎日着物を着て生活しているという「特異性」にあった(鳥羽2001)。着物で日常を過ごし、家事を行い、子供を育てるという戦前期の日本の多くの主婦がしていたことが、すっかり特異なことになってしまったのである。
 2002年に『天使突抜一丁目―着物と自転車と―』を出版したマリンバ奏者の通崎睦美も、着物で自転車に乗るという「特異性」で注目された(通崎2002)。明治~大正期のハイカラ女学生がごく普通にしていたことなのに。
 また、現代風俗研究会の古参会員である磯映美は、「華宵」の名義で、2001年から2003年にかけて、散歩きもの普及員会ニュースレターとして「着物で、ぶらぶら」を刊行した。
 こうした「ふだん着着物」、あるいは日常的な「着物暮らし」への志向は、日常性を喪失した和装文化に反発・逆行するものであり、その方向性はその後の「趣味化」の中に受け継がれていくことになる。

Ⅳ アンティーク着物ブームと「着物趣味」の成立
1 女性主導の「オフ会」の盛行
 当初、男性主導だった着物「オフ会」も、女性のインターネットアクセス率が上がるにつれて、女性の参加が増加していった。男性主導の「オフ会」には、男性だけで語り合いたいホモ・ソーシャルなタイプと、主催者が「女好き」で積極的に女性の参加を勧誘するタイプとがあった。2000年頃に何度か開催された村上酔魚堂の「オフ会」は後者のタイプだった。

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【写真3】「村上酔魚堂・浅草オフ会」(2000年9月)。
ここで後の「うきうききもの」の初期中核メンバーが出会う

 そうした場で着物好きの女性たちが知り合い、その横のつながりをベースに、2001年頃から女性主導の「オフ会」が盛んに開催されるようになる。その代表は、東京を中心とした首都圏では「うきうききもの」(主宰:古川阿津子、2001~10)、京都を中心とした関西圏では「夏海の遊び着」(主宰:夏海、2001~ )であり、最盛期には月に数回ペースで「オフ会」を開催した。

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【写真4】「うきうききもの」秩父銘仙オフ会(2002年4月)。
中央が主宰の「あつこ女将」

 こうした「オフ会」は心置きなく好きな着物を着られる場であり、着物に関する様々な情報や工夫が交換され、またお互いの着こなしが参照され相互に影響を与えあった。そして、「オフ会」の様子がインターネットサイトにレポートされることで、新しい参加者を引きつけていった。2000年代前半は、インターネットと「オフ会」を通じて、女性の着物仲間が横のつながりを形成していった時代だった。
 私も参加した「うきうききもの」では、初期のメンバーの間には、既存の着物世界への飽き足らなさ、不満が共通意識としてあった。地味=上品に固定化され、「着付け教室」が作り上げた厳格な着用規範に反発し、「もっとどんどん、自由に、楽しく着物を着たい!」「(ミセスだって)派手な着物を着てもいいじゃない!」という思いである。「美しい着物世界」とまったく異なる着物への志向・嗜好がそこにはあった。

2 アンティーク着物ブーム
 女性主導の「オフ会」の盛行とほぼ時を同じくして、アンティーク着物ブームが起こる。その火付け役は「別冊太陽」(平凡社)の「昔きもの」シリーズだった。2000年3月の『昔きものを楽しむ(1)』に始まり、『昔きものを楽しむ(2)』(2000年11月)、『昔きものと遊ぶ』(2001年8月)、『昔きものを買いに行く』(2002年12月)、『昔きものの着こなし』(2003年4月)、『昔きもの 私の着こなし』(2004年5月)とほぼ1年1冊ペースで計6冊が刊行された。
 このシリーズ、最初は「骨董を楽しむ」シリーズの1冊として刊行されたように、骨董的な価値のあるアンティーク着物を「収集して楽しむ」というスタンスだった。ところが途中から、アンティーク着物を「着て楽しむ」という方向に変化していった。表紙も最初は着物の意匠だったのが、3冊目の『昔きものと遊ぶ』は着姿になっている。
 「別冊太陽」の「昔きもの」シリーズによってアンティーク着物への関心が急速に高まり、骨董屋や骨董市の露店で、古い着物を漁る人々が出現するようになる。とくに現代の着物に比べてデザイン性に富み、派手な色柄の銘仙やお召が注目され、それまで二束三文(500円以下)だった銘仙の古着がたちまち値上がりしていった。
 そうして探し出し手に入れた古着を洗い繕って、場合によっては仕立て直す。手間暇を惜しまない。そして、その着物を「オフ会」で仲間たちにお披露目する。すると、「わ~ぁ、すてき、どこで手に入れたの?」「いくらだった?」と仲間から質問が飛ぶ。「○○の露天市でね、500円だったの。けっこう汚れていたから(着られるようにするのが)大変だったけど…」。こう答えるとき、それまでの労苦が報われ、ある種の達成感がある。
 探す→洗う・直す→着る→仲間に見せる、このサイクルが毎月のように繰り返される。傍目から見れば、いい大人の女性が古着を漁り集め、着ることに夢中になっているわけで、いったいウチの娘(もしくは妻)は何をしているのだ、と呆れられることになるが、まさにそれが「趣味」なのである。
 2002年6月には、アンティーク着物に特化した着物雑誌『Kimono道』(祥伝社、後に『Kimono姫』と改題)が創刊される。そのコンセプトは「アンティーク&チープ」であり、表紙に記されたリードは「キモノのはじめてはアンティークから」だった。
 アンティーク着物の場合、値上がりしたと言っても、せいぜい1000円から5000円程度で千の桁で納まり、万の桁になることは少なかった。稀に数万円という高級アンティーク着物もあったが、当時、市販の現代着物の多くは20~50万円の価格帯だったから、それでも10分の1である。30万円の現代着物1枚を買う値段で、露天商から3000円のアンティーク着物が約100枚買える計算になり、すさまじい価格破壊ということになる。
 安価なアンティーク着物がブームになったことは、それまで経済的な理由で着物を思うように着られなかった「着物好き」にとっては大きな福音であり、とくに20代、30代の比較的若い人たちが着物世界に参入できるようになった。20世紀後半の50年間一貫して長期低落傾向にあった着物人口は、21世紀に入って一時的にせよ増加に転じたのである。これは「趣味化」というある種の「突然変異」かもしれないが、長い和装の歴史の中で、やはり画期的なことだと思う。
 2000年代のアンティーク着物ブームによって、東京白金の「池田」、原宿の「壱の蔵」などのアンティーク着物専門店はおおいに賑わい、コレクターとしても知られた店主の池田重子(1925~)や弓岡勝美の名も高まった。とりわけ池田は、新宿伊勢丹や銀座松屋などで「池田重子コレクション―日本のおしゃれ展―」(1993~2011)を何度も開催し、アンティーク着物の社会的認知を高めた。池田のコレクションとコーディネートは、アンティーク着物ファンの垂涎の的になった。
 また、リサイクル着物の「ながもち屋」や「たんす屋」がチェーン展開するのもこの時期である。しかし、アンティーク着物ブームは既存の着物業界にはほとんど影響しなかった。

3 銘仙への注目
 アンティーク着物ブームの中で、とりわけ人気度が高かったのが銘仙だった。銘仙とは、先染(糸の段階で染める)、平織(経糸と緯糸の直交組織)の絹織物である。その詳細については別稿に譲るが(三橋2002,2010)、大正~昭和戦前期においては、安い価格と豊富な色柄が、中産階層のお嬢さんの普段着、女中さんの晴れ着、もしくは、女教師の銘仙+女袴(行燈袴)、牛鍋屋の仲居の赤銘仙、カフェの女給の銘仙+白エプロンといったような職業婦人の仕事着として好まれ大流行した。戦後も生産は続いたが、主な着用層だった「お嬢さん」や職業婦人が真っ先に洋装化したこと、粗悪品の流通によりイメージが低下したことで徐々に衰退した。それでも、大柄で色鮮やかな模様銘仙は、自分を「広告塔」にする女性、具体的には「赤線」(黙認買売春地区)の「女給」(実態は娼婦)たちに愛用された。
 着尺としての銘仙の生産は、1960年代末までにほぼ途絶え、工場生産品ゆえに伝統工芸・美術品になることもなく、技術もほとんど断絶してしまった。つまり、銘仙はいったん滅んだ織物だった。
 ところが、アンティーク着物ブームにより、女性の和装文化の最盛期だった大正・昭和初期の着物文化が再評価された結果、その最盛期を担った銘仙がにわかに注目されるようになる。2002年1月に主要産地だった埼玉県秩父市に初めての銘仙資料館「ちちぶ銘仙館」がオープンし、それを受けて2003年5月に三橋順子が「艶やかなる銘仙」を『Kimono姫』2号に執筆した(三橋2002)。2003年6月には銘仙コレクターの木村理恵と通崎睦美の「銘仙コレクション2人展」が東京中野の「シルクラブ」で開催される。そして2004年12月には秩父市在住の木村理恵のコレクションを紹介した『銘仙―大正・昭和のおしゃれ着―』が「別冊太陽」(平凡社)の1冊として刊行され、銘仙ブームはひとつの頂点を迎える。
 その後も銘仙ブームは続き、銘仙をメインにした企画展が各地で立て続けに開催された(註2)。そして、2009年5月には銘仙を主な展示品とする「日本きもの文化美術館」が福島県郡山市にオープンし、2010年4月には同美術館から『ハイカラさんのおしゃれじょうず-銘仙きもの 多彩な世界』が刊行された。
 こうした銘仙ブームは、現代の着物にはまったく失われてしまった大胆で前衛的な大柄と、原色を多用し多色を巧みに配した強烈な色彩感覚が作り出す華やかで艶やかなイメージに多くの着物好きが魅せられたからであり、銘仙そのものが現代着物へのアンチテーゼとなっている。銘仙のそうした性格は、2000年代に成立する「着物趣味」の方向性と合致し、それゆえに重要なアイテムとなったのである。

4 「規範」を越えて ―「着物趣味」の成立―
 2000年代前半のアンティーク着物ブームの中で成立する「着物趣味」の基本コンセプトは、大正・昭和戦前期の着物文化の再評価とそれへの回帰である。それは、1970年代以降に形成された地味=上品に固定化された「美しい着物世界」や、「着付け教室」が流布する厳格な着用規範への反発と表裏一体だった。それはまた、すっかり特別な場の衣服になってしまった着物から、本来の日常性を取り戻す方向性だった。和装文化の伝統を意識しつつも、戦後の着物世界が作り上げた規範から自由に、好きな着物を着たいように着る、というスタンスだ。
 日本の女性着物は、既婚か未婚かの区分が明瞭で、それが身分標識にもなっていたが、アンティーク系の場合、そうした境界も越えてしまう。ミセスであっても、派手な着物、目立つ帯を厭わない。振袖だって着てしまう。白半襟、白足袋という「美しい着物世界」の「常識」に対し、色半襟・刺繍半襟、色足袋・柄足袋が好まれる。着物と帯、そして小物類(半襟、帯揚、帯締、足袋)の色合わせ・柄合わせや帯結びに凝る。髪も、お正月やイベントには、すでに見かけることも稀になった日本髪を結う。
 「美しい着物世界」の人に比べて行動性が高いので、着付けも前合わせは浅く、したがって襟のy字は深く半襟をたくさん露出し、襟もかなり抜く。「着付け教室」で「下品なのでやってはいけません」と教えられることばかりである。そして、いつでも(仕事以外)どこにでも着物で出掛ける。休日、近所に買い物に行くのも着物だし、国内旅行はもちろん、海外旅行も着物で行く。履物は、たくさん歩くので、草履より下駄が好まれる。なにより、着物も帯も「値段の高きをもって貴しとせず」で、その人の個性に合ったコーディネートや創意工夫が評価される。
 こうした方向性・嗜好は、ほとんどすべて「美しい着物世界」への明確なアンチテーゼである。したがって、当然のことながら、従来の規範を順守する「美しい着物世界」の人たちからの反発も大きかった。ネット上で「ぼろ着て何が楽しいの?」「お女郎さんの集まり」「座敷牢から抜け出してきたみたい」と批判されるのは常のことで、銀座で集まっていた時、見知らぬ中年女性(洋装)にいきなり「ここは銀座なんだから、日本の恥になるようなみっともない着方はしないで!」と面と向かって言われたこともあった。単なる好奇の視線には慣れっこだが、さすがに「日本の恥」とまで言われるとは思っていなかった。
 しかし、そこまで強く反発されるということは、従来の着物世界の規範を越えた、新しい、そして特有の方向性が成立したということである。既存の着物世界から批判されたことで逆に「私たちの着物趣味とはこうなんだ、これでいいんだ」という意識が仲間たちの間で共有化されていった。こうして、第3の要件が満たされ2000年代前半に新しい「着物趣味」の世界が成立した。

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【写真5】アンティーク銘仙のコーディネート。
モデル:(左)小紋、(右)YUKO
2人とも「アラフォー」のミセス(2005年3月)

Ⅳ 新しい着物世界 
1 着物趣味イベントの開催
 2000年代中頃になると、「着物趣味」の成立を背景に、従来の「オフ会」からさらに発展した着物趣味イベントが開催されるようになる。ここでは東京で開催され、私も参加したことがある代表的な2つの着物趣味イベントを紹介してみたい。
① 「きものde銀座」
 「きものde銀座」は毎月1度銀座で開催される「着物好き」の集会イベントで、「男のきもの大全会」の派生イベントとして1999年12月に第1回が開催された。最初は毎週土曜日開催、着物男性だけの集いだったが、2000年2月からは月1回(毎月第2土曜)となり、着物女性も参加するようになった。主催者はなく、当初は「旦那さん」(牧田氏)が事務局を担当していたが、2006年以降は有志の当番制で運営している。着物で集まる人も会員制ではなく、まったくの任意参加である。
 15時に銀座4丁目交差点「和光」前で待ち合わせ、「歩行者天国」の中央通りを1丁目方向に歩き「ティファニー」前で集合写真を撮影、その後は自由行動で、なにかイベントがあれば行きたい人はまとまって行く。17時半頃から「土風炉・銀座1丁目店」で懇親会(会費3000円)となり、20時前後にお開き、希望者は二次会へという毎回同じスケジュールで、途中参加・離脱も自由である。
コンセプトは文字通り「銀座で着物を着る」ということだけ。参加者の着物のスタイルもアンティーク系、「ふだん着着物」系から「美しい着物」系まで様々であり、どんな着方であっても批判しないことになっている。
 2008年4月8日に第100回を迎え、2013年12月には168回となる。台風でも大雪でも中止せず(連絡方法がないため)、東日本太平洋沖大地震の翌日(2011年3月12日)にも20数名の参加者で開催された。最初期には参加者1名ということもあったが、近年は集合写真を見る限り40~60名くらいだろうか(註3)。
 主催者がいない有志持ち回りの運営と、参加も着方も自由度が高い「緩い」形態が「着物趣味」のイベントとして最も長続きしている秘訣だと思う。

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【写真6】第100回「きものde銀座」(2008年4月8日)

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【写真7】2009年1月の「きものde銀座」。
日本髪を結い大振袖を着て築地・波除神社に初詣

② 「日本全国きもの日和」
 「日本全国きもの日和」は、「きものであそぼう」をスローガンにした着物ファンの手作りイベントで、「玉龍」こと西脇龍二氏を中心とした「実行委員会」が運営している。メンバーの多くは「きものde銀座」で出会っている。11月3日を「きもの日和」として全国各地で着物イベントの開催を呼びかけ、第1回は7都市、第2回は20都市、第4回は25都市で「きもの日和」が開催され、「着物趣味」の地方への波及に大きな役割を果たした(註4)。
 メイン会場である「きもの日和TOKYO」は、恵比寿のイベントホール「EBIS303」で2004年から2008年まで5回開催され、入場者は第1回が1500人、第3回(2日開催)は3000人だった。モデルもスタッフもすべて着物仲間で構成する本格的な「きものファッションショー」は観衆の注目の的だった。さらに、着物写真集『Kimono人』(2005、2006、2007の3冊)を自費出版した。
また、中心メンバーは、毎年5月に開催される静岡県下田市「黒船祭」に出張し、「賑わいパレード」に参加し、野外ファッションショーを開催している。
 しかし、2007年の第4回から入場者、出店、広告が減少し赤字となり、経済不況(リーマン・ショック)もあって2009年11月に計画された「きもの日和TOKYO」は延期になってしまう。2010年3月に「きもの日和with目黒雅叙園」として開催されたが、2011年4月の開催予定が東日本大震災の影響で中止になった後は復活していない。

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【写真8】「きもの日和TOKYO 2004」の冊子(2004年11月

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【写真9】「きもの日和TOKYO」の「きものファッションショー」(2006年11月)

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【写真10】「下田黒船祭」の野外ファッションショー。
「ペリー・ロード」の橋の上が舞台(2007年5月)

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【写真11】「下田黒船祭」の賑わいパレード(2008年5月)
日本髪は美容院ではなく自分で結う
2 着物イベントの問題点
 着物イベントに参加して、気付いた問題点を整理しておこう。第一はお金の問題である。「きもの日和TOKYO」のように、意欲的に活動を展開した結果、イベントの規模があまりに拡大してしまうと、集客や採算のような「趣味」とは性格が異なる要請が発生してしまう。また必要な経費が大きくなれば、経済・社会情勢の影響を大きく受けるようになる。「趣味」とは本来、浪費だが、あまり補填しなければならない金額が大きくなると、「趣味」の仲間では耐えられなくなる。といって、企業の協賛・支援を受ければ、商業資本の論理が入ってきて、ますます「趣味」の領域から外れてしまうジレンマがある。「趣味」としては拡大路線一筋ではなく適正規模を保つことも必要だと思う。
 第2は、着物イベントのジェンダー的な構造問題である。端的に言えば、リーダーシップをとる男性、イベントの「華」としての女性という基本構造がそこにある。たとえば、ファッションショーやパレードで、男性リーダーの指示で若手の女性や美しい女性が目立つ場所に配される傾向は明らかにあった。それもまた社会的要請なのかもしれないが、必ずしもそうでない女性たちからは不満が出ることになる。
 第3は、セクシュアリティの問題で、大人の男女が集まり、懇親会などでお酒が入ると、男性による女性へのセクシュアル・ハラスメントが発生する。その場合、運営側の男性のセクハラ認識が甘いと、結局は被害を受けた女性が泣くことになってしまう。
 第4は、和装女装趣味の男性の問題で、近年は「女装」を禁止する着物イベントが増加している。和装文化に女形が貢献してきた度合いを考えれば、まったく理不尽と言いたくなる。そして、「女装禁止」の結果、日常的に女性として生活しているMtF(Male to Female)のトランスジェンダーまでが排除されることになってしまう。これは性的マイノリティに対する不当な社会的排除である。
 第5は、高齢化の問題で、他の趣味の世界と同様に若い人がなかなか入ってこない。2000年代初頭のアンティークブームを担った30~40歳代は、10年たった現在40~50歳代であり、さらに10年たてば…である。今のままでは先細り傾向は免れないだろう。
 これらの問題、とりわけ第2~5の問題は、着物趣味の世界だけの問題ではなく、日本社会が抱える問題の投影である。しかし、比較的柔構造な「趣味」の世界の特性を生かし、しっかりした認識をもって対応すれば、ある程度は改善可能な問題であると思う。

おわりに ―着物趣味の将来―
1 着たい着物がなくなる
 現代の「着物趣味」、とりわけアンティーク派にとっての最大の不安は、近い将来、着たい着物がなくなってしまうのではないか、ということである。なんら特徴のない「つまらない」現代着物は巨大なデッドストックがあるのに、着たいと思うようなアンティーク系の着物はどんどん消えていく。和装文化の全盛期(1926~1936)に作られた銘仙・お召は、すでに80年前後が経過し耐用年数が過ぎつつあり、衣類としての寿命が尽きるのはもう遠いことではない。せめて、あと10年もってほしいと思うのだが。
 また、現代女性の体格向上により、女性が小柄・低身長だった時代に作られたアンティーク着物を着られる人が減っている。こうした状況で頼りになったのは、2000年代の銘仙ブーム期に足利・伊勢崎などの旧産地で生産された復刻銘仙だった。復刻銘仙は、問屋価格で5~6万円、小売価格では8~10万円になってしまうので、かってのような普及は無理だったが、それでも、私のように身長が高い銘仙好きにはとてもありがたかった。しかし、わずかに残っていた職人さんの高齢化や逝去によって、2010年代初めに生産が途絶えてしまった(註4)。
 先染め(糸を染めて柄を織り出す)の織物は技術的に難易度が高く、現状ではいったん絶えた技術の復活は望めそうにない。それが無理なら、せめて「全盛期(昭和戦前期)」のデザインを、後染め(糸を布に織った後で染める)の染物で再現してほしい。幸い現在ではアンティーク着物の色柄をコンピューターに取り込み、補修を加えた後に、インクジェット・プリンターで布地にプリントすることが容易になった。銘仙写しの浴衣や小紋が増えてくれればと思うのだが、現在の着物業界の沈滞した状況では、それも難しそうだ。

2 コスチューム・プレイとして
 生産面では大きな不安があるが、着物をファッション・アイテムと考えた場合、その将来に希望はなくもない。
 着物が日常の衣服としての機能を失い、着物を着る人がファッション・マイノリティになったことで、社会の服飾規範を超越する、ある種の自由を獲得できた。そもそも着物を着ていることが「変わり者」「外れ者」なのだから、細かな社会規範に縛られることはない。
 そう思いきってしまえば、着物は自己主張、自己表現の手段として、そして変身のアイテムとして絶好である。コーディネートに工夫を凝らせば、立派な会社勤めの男性が任侠系の「あぶなそうな兄さん」に、まともな会社のOLさんや良家の奥様が芸者やお女郎上がりの「あやしい姐さん」に変身できる。背景や小道具に気を使えば、あっという間に昭和初期や昭和30年代にタイムワープした写真を撮ることも可能だ(三橋2006)。
 
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【写真12】石仏に祈る村娘(昭和初期風)
モデル:YUKO 
撮影:2008年2月、埼玉県秩父市金昌寺

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【写真13】「赤線」の女(昭和28年設定)
モデル:YUKO 
撮影:20010年10月、東京「鳩の街」旧「赤線」建物(娼館)をバックに

 今や着物は、社会的立場を変え、年齢を化けて、時空すら超える力を持つようになった。それを活用しない手はない。21世紀の着物趣味は、こうした「着物で遊ぶ」、コスチューム・プレイとしての方向性をより強めていくことになると思う。
 日本人の伝統衣装という路線では、美術工芸品としてはともかく、衣類としての着物はもう生き残れない段階になっている。「着物趣味」の仲間たちが目指してきた創造性のある自己表現のファッション・アイテムという方向こそが、着物という日本人の民族衣装を次の世代に伝える道だと私は思う。

(註1)村上信彦『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社、1974年)だけが、この時代の和装文化の発展に正当な評価を与えている。
(註2)主なものを掲げると、京都古布保存会「京都に残る100枚の銘仙展」(東京世田谷「キャロットタワー」、2005年3月)、須坂クラッシック美術館「大正浪漫のおしゃれ―銘仙着物―」(長野県、2007年8月)、京都府城陽市歴史民俗資料館「銘仙―レトロでモダンでおしゃれな着物―」(京都府、2008年8月)、神戸ファッション美術館「華やぐこころ―大正昭和のおでかけ着物―」(兵庫県、2008年11月)など。
(註3)の公式サイト「着物de銀座」(管理人:京屋悟雀氏)を参照
http://www.kimono-de-ginza.net/sub2.htm
(註4)2013年段階で継続しているものとして「着物日和in信州須坂」「奈良きもの日和」「きもの日和 in TOMO」(広島県福山市鞆の浦)などがある。また「群馬きもの復興委員会」「NPO法人川越きもの散歩」のように、それぞれの地域で積極的な着物普及活動をするグループも増えた。
(註5)京都の着物問屋「きものACT」が現地の職人さんに依頼して生産していた足利銘仙は2010年頃に、NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」(2011年度後期)で話題になった「木島織物」の伊勢崎銘仙は2012年末に生産が止まった。

文献
石川光陽1987『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社)
小泉和子2000『昭和のくらし博物館』(河出書房新社)
通崎睦美2002『天使突抜一丁目 ―着物と自転車と―』(淡交社)
鳥羽亜弓2001『浴衣の次に着るきもの(アミサンノキモノ)』(インデックス出版)
日本きもの文化美術館2010『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』(日本きもの文化美術館)
早坂伊織2002『男、はじめて和服を着る』(光文社新書)
別冊太陽2000a『昔きものを楽しむ(1)』(平凡社)
別冊太陽2000b『昔きものを楽しむ(2)』(平凡社)
別冊太陽2001『昔きものと遊ぶ』(平凡社)
別冊太陽2002『昔きものを買いに行く』(平凡社)
別冊太陽2003『昔きものの着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004a『昔きもの 私の着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004b『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着物―』(平凡社)
村上信彦1974『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社)
三橋順子2002「艶やかなる銘仙」(『KIMONO道』2号、祥伝社。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
三橋順子2006「着物マイノリティ論」(『Kimono人 2006』きもの日和実行委員会)
三橋順子2010「銘仙とその時代」(『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』日本きもの文化美術館)