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2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」) [石山寺縁起絵巻]

2011年02月09日 石山寺縁起絵巻を読む(石山寺の「龍穴」)

2月9日(水) 夜中から早朝まで雨、曇りのち晴れ 東京 9.1度 湿度 57%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルデニッシュとコーヒー。

化粧と身支度。
白地に細かな豹柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

9時45分時、家を出る。
ちょうど雨が上がったタイミング。
路面がしっかり濡れるほど、雨が降ったのは、ほんとうに久しぶり。

駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第6段に入る。
2-6-1.jpg
『石山寺縁起絵巻』巻2の第6段は「当寺の西北の角に当たりて、龍穴(りゅうけつ)あり。水澄み、波静かにして、誠に往昔の霊池と見えたり」と始まる。
そして、こんなファンタジックな説話を記す。

暦海という高徳の僧が、この池の畔で「孔雀経」を転読した。龍王の段になって、龍王の名を読み上げると、それに随って諸龍が池の中から現れ、歴海の側に侍った。
暦海が草庵に帰ろうとすると、龍王たちが暦海を背に負うて行き、草庵でも身近に給仕すること、まるで奴僕のようであった、と。

絵は、池の畔の丸い石に半跏した暦海が読み上げる「孔雀経」に応じて、紺碧の池の中から、青龍が出現した場面。
すでに、白龍や赤龍、さらには龍王とその眷属たちが歴海の左右に侍している。
2-6-2.jpg
↑ 「孔雀経」を読む行海の側に侍る赤龍。
右側の赤い服の龍頭人身の人物?は赤龍の従者だろうか?
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↑ 池から出現する青龍。
やはり、後ろに従者と思われる龍頭人身の人物?が従う。
服の色は主人に合わせている?
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↑ 砂州状の池畔に侍す龍王たちと白龍。
立派な黒髭の束帯姿で背に龍を負っているのが、一番偉い龍王だろうか。
その左の頭上に蛇が乗っている人物?の服装は、一見、南蛮人風でかなり変わっている。

ところで、『石山寺縁起絵巻』の各段の説話は、ほとんど必ず年次か、天皇の代を明記し、ほぼ時代順に配列されている。ところが、この段だけは年次も天皇の代も記されず、説話の主人公の暦海も「上古の寺僧」とだけ表現されていて、いつの人かわからない。

暦海については、『平安時代史辞典』などで調べてみたが出ていない。
そこで、少し違う方向から考えてみた。

実は、この段の後半は、絵にはまったく描かれていないが、石山寺中興の祖である淳祐内供)の弟子の真頼という僧の臨終の説話になっている。
そして、その臨終の仕方が、「保胤の往生伝」に載っていることを記す。

「保胤の往生伝」とは、平安時代中期の文人で、浄土教の初期の信者であった慶滋保胤(?~1002)が著した『日本往生極楽記』のことだ。
実際、同書の巻20には、僧真頼の往生伝が載っている。

『日本往生極楽記』の成立は、寛和年間(985~987)であることが確実なので、真頼はそれ以前の亡くなっている人で、また淳祐(890~953)の弟子であることから、だいたい10世紀の中頃、朱雀・村上天皇代(923~967)に活躍した人と見ることができる。
下っても冷泉・円融天皇代(968~985)までだろう。

この真頼について調べていて、「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」という史料に、

淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什

という継承が記されていることに気づいた。

ここに至ってやっと歴海が出てきた。
真頼より二代後の人ということになる。
二代といっても、血縁(親子)関係ではなく、師弟関係なので、せいぜい40年ぐらいを見ればいいだろう。
真頼を村上朝の950年代の人とすれば、歴海は990年代の人、つまり、およそ一条朝の人と推測できる。

巻2の第5段は、寛和2年(987)の円融法皇石山寺行幸で、第7段は「永延」(987年~989)の話になっている。
その間の第6段の主人公暦海が、およそ一条朝の人ということになれば、時代順の配列がそれほど乱れることはない。

まあ、落ち着くところに落ち着いた訳だが、ここまで考証するのはけっこう大変だった。

現在でも石山寺の境内の「西北の角」には、八大龍王社があり、「龍穴の池」の中央にお社がある。
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↑ 石山寺境内図。左上に赤い鳥居があるところが「八大竜王社」

龍穴とは、もともとは単に龍が出現する穴のことなのだろう。
しかし、神獣・霊獣である龍が出現するぐらいだから普通の場所ではない。

古代道教や陰陽道ではある種のエネルギーが地上に噴き出す場として神聖視された。
有名な龍穴としては、室生の龍穴(大和国宇陀郡)が広く知られていて、延喜式内社の「室生龍穴神社」があるが、近江石山にもこんな由緒ある龍穴があったのだ。

最近のパワースポットブームで、龍穴を訪れる人も増えたらしい。
前回、石山寺を訪れたときは、時間がなくてここまで行けなかった。
次回は、ぜひ訪れてみたい。

12時、講義終了。
--------------(以下の画像はネットからお借りしたものです)----------------
2-6-9.jpg
http://uminoyakusoku.shiga-saku.net/e180227.html
2-6-8.jpg
http://shigino2006.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_8f2c.html
2-6-10.jpg
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Biwako1/Ishiyama.html

2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸) [石山寺縁起絵巻]

2011年01月12日 石山寺縁起絵巻を読む(円融法皇の石山寺行幸)

1月12日(水) 晴れ 東京 9.5度 湿度 35%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
黒のカシミアのショール

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第5段に入る。
円融法皇(959~991)の石山寺行幸の話。
2-5-1.jpg
絵巻は、まず円融上皇の石山寺参詣を知って遣された天皇の勅使(藤原斎信)と、誦経料(布施)の布・綿が入った3つの長櫃を石山寺に運ぶ人夫の姿を描く。
2-5-2.JPG
↑ そして上皇一行は、石山寺に参籠する。
画面上の御簾からわずかにのぞく香染の衣の人物が円融法皇(↓)。
2-5-3.JPG
2-5-4.JPG
円融天皇は、永観2年(984)8月27日に、花山天皇に譲位し、翌、寛和元年(985)8月、寛朝大僧正を導師として出家した。
まだ、27歳だった。

天皇が位を離れて上皇になり、行動の制約が少なくなって、寺社参詣を名目に諸所に行幸する例は、宇多天皇などに典型的に見られるが、円融上皇もそういう方向を志向したらしい。

そうした意味では、石山寺行幸があってもおかしくはないのだが、円融上皇が石山寺に上皇したことは、なぜか同時代の史料にほとんど見えない。

僅かに藤原公任の私歌集「前大納言公任卿集」に見えるだけ。

「ゑにう院の石山におはしますに、殿上人うきはしといふところに、いきてかへるとて、

われたにも 帰る道には 物うきに いかて過ぎぬる 秋にか有らん
                          (藤原)為頼
               
たなかみや やまの紅葉は 数しあれば 秋におふとも のどけきをみよ」

では、どんな史料に見えるかというと、300年ほど後の13世紀末頃に編纂された『百錬抄』という年代記に見える。
それと、この『石山寺縁起絵巻』(巻2の成立は1324~1326年頃)。
2つしかなく、成立年代も近い(30年ほど?)。
当然、両者の継承関係が疑われる。

宇多上皇の先例を引用する際、『百錬抄』が「亭子院臨幸紀伊国之間」と記すのに対し、『縁起絵巻』は「亭子院、紀伊国に臨幸の時」と、「臨幸」という漢文脈的な表現を使っているところなどは、絵巻の詞書の作者が『百錬抄』を見ているようにも思う。

ところが、そう簡単にはいかない。
両者の記述内容にはかなり相違がある。
『百錬抄』は円融上皇の参詣を寛和2年(986)9月29日として、10月3日に帰洛の途中、近江崇福寺に寄ったことを記す。
つまり、石山寺には3泊している。
そして、記事で問題になっているのは、送物(誦経料)の勅使の先例。

それに対して『縁起絵巻』では、寛和元年(985)10月1日のこととして、1泊して翌2日に勅使があったように記している。
そして、問題にしているのは、勅使の服装(布衣でいいのかどうか?)という具合で、微妙にズレがある。

ということで、『縁起絵巻』の元が『百錬抄』であると判定するのは、ちょっとためらう。

行幸の日時については、平安時代後期の公卿、藤原為房(1049~1115年)の「為房卿記」長治元年(1104)2月15日条に
「寛和二年、円融院令籠石山給之間、以頭中将斎信卿、被奉綿布、便被修諷誦」
(寛和二年、円融院、石山に籠られたまふの間、頭中将斎信卿を以て、綿布を奉られ、便ち諷誦を修せらる。)
とあるので、『百錬抄』がいう寛和2年でよさそうだ。

そうなると、勅使を遣した天皇は、花山天皇ではなく一条天皇ということになる。

12時、終了。

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-) [石山寺縁起絵巻]

2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-)
11月12日(金)

私は、猫好きだ。
平安時代末期~鎌倉時代の絵巻の読み解きを、もう10年以上続けているが、ごく稀に出てくる猫の姿が気になっていた。
そこで、ちょっとまとめてみることにした。

日本の野生ネコは、ツシマヤマネコ(長崎県対馬)とイリオモテヤマネコ(沖縄県西表島)だけで、日本本土にはヤマネコが生息していた形跡はなく、猫はいなかった。
だから、日本の猫は、いつの時代にか、アジア大陸から人為的にもたらされたものということになる。
問題は、それがいつの時代かということ?

一般には、飛鳥時代、仏教が日本に伝来した後、お経を鼠の害から守るために猫が日本にやって来たということになっているが、これはほとんど民話的な話で、まったく証拠がない。

考古学的には、2008年に長崎県壱岐市勝本町のカラカミ遺跡から、紀元前1世紀(弥生時代中期)の猫科の動物の大腿骨など12点が出土した。
鑑定の結果、年代は約2100~2200年前(C14年代測定)、猫の年齢は1歳半~2歳、現在のイエネコの骨格と酷似していることがわかった。
これが、ほとんど唯一の例。

これが家猫だとしても、朝鮮半島などとの交易が盛んな壱岐の事例であり、本土の弥生・古墳時代の遺跡に猫の痕跡がまったくと言っていいほどないことからしても、日本全体に一般化できるか疑問に思う。

猫らしき動物が文献に登場するのは、奈良時代末期~平安時代初期に編纂された仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』。

上巻の第30話にこんな話がある。

都がまだ藤原にあった文武天皇の慶雲2年(705)、豊前国宮子郡の少領の膳臣広国(かしわでのおみ ひろくに)という人が急死してしまい、地獄で父親に出会う。

地獄で責められている父親は、息子にこう訴える。

「飢えた私は、7月7日に大蛇の姿になって、お前の家に行き入ろうとしたら、杖で打たれて棄てられた。5月5日には赤い狗(いぬ)になって再び家に行ったが、お前は飼犬を呼び寄せて私を追い払った。それで正月1日に今度は『狸』になって家に入り、やっと供養の物をたくさん食べることができ、飢えをしのぐことができた」

広国は、この後、生き帰り、父親のために供養をするのだが、問題は話の中に出て来る「狸」。

一般的な注釈では、「狸」に「たぬき」ではなく「ねこ」と訓をつけている。

現代の感覚では、「たぬき」と「ねこ」はぜんぜん違う動物だが、たしかに、「狸」を「ねこ」と読んだらしい。

現存する日本最古の字書である『新撰字鏡』(898~901年)には次のようにある。

狸 (中略)猫也。似虎小。(中略)祢古。

やはり、「狸」は「ねこ」らしい。
家に入ってきても追い払われなかったことからも「たぬき」ではなさそうだ。

実は、「狸」という字で「ねこ」を表すのは、中国ではごく一般的な用法で、『日本霊異記』もそれに従っただけ。

ちなみに、『新撰字鏡』には「猫」の項目はない。

「猫」が最初に出てくる字書は『本草和名』(923)で、

猫 家猫。一名猫。和名祢古末。

とある。「祢古末」は「ねこま」である。

ここまでは、「狸」=「猫」=ねこ、ねこま、という図式でよさそうだ。

ところが『類聚名義抄』(1081年以降)をみると、「狸」の字に「タヌキ、タタケ、ネコマ、イタム」という訓が施されていて、「たぬき」と「ねこ」が混乱していて、そう単純にはいかないことがわかる。

さらに『伊呂波字類抄』(1180)の「猫」項目には「子コ、子コマ、家狸」とあって、中国の用法(狸=ねこ)を知らないと、まるで家タヌキ?が猫のようにも見える。

ここまでは、猫大好きの国文学者田中貴子さんの『鈴の音が聞こえる-猫の古典文学誌』(淡交社 2001年)を参考にさせていただいた。

田中さんは、「12世紀ころには『狸』は野生の猫、『猫』は家で飼われている猫、といった区別がつけられるようになった」と推測している。

ただ、そうだとすると、鎌倉時代以降、狸=野生猫の用例がほとんどないのが気になる。

では「狸」=たぬきの用例はいつから出てくるのだろう?
「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱は生じなかったのだろうか?

という疑問は残るが、まずは『日本国現報善悪霊異記』上巻の第30話を日本最初の猫文献として良さそうだ。
ただ、なにぶん説話(しかも地獄がらみの)であって、今ひとつリアリティに乏しい。

ところで、宇多天皇(在位:887~897)の日記『寛平御記』の寛平元年(889)2月6日条には、天皇が愛猫について詳しく記した文がある。

宇多天皇が可愛がっていた猫は墨のような深黒の猫で、大宰少弐(九州を管轄する大宰府の次官)の源精(みなもとのくわし)が、唐の商船から手に入れ、光孝天皇(在位:884~887)に献上したもので、父天皇から息子の宇多天皇に譲られたもの。

宇多天皇の記述は
「其屈也、小如秬粒、其伸也、長如張弓(その屈するや小さきことキビの粒が如く、その伸ぶるや長きこと張弓の如し)」とか、
「其伏臥時、団円不見足尾、宛如堀中之玄璧、其行歩時、寂寞不聞音、恰如雲上黒龍(その伏し臥す時は、団円にして足尾を見えず、あたかも堀の中の玄璧[黒い玉]の如く、その行き歩く時は、寂寞として音聞こえず、あたかも雲上の黒龍が如し)」とか、少し大袈裟だが、猫の姿態をよく捉えている。

宇多天皇は、よほど猫好きだったように思える。
この「日記」は、日本最初の「愛猫記」として不動のポジションにある。

それに続くのが、清少納言の『枕草子』にみえる、一条天皇の愛猫「命婦の御許」。

この五位の待遇を与えられ乳母まで付けらえた高貴な猫と、「翁丸」という犬の話は高校の古文のテキストに出てきたりして有名。

ただ、宇多天皇の黒猫や、一条天皇の「命婦の御許」は、超高級猫(唐猫)であって、こういう猫が宮中で飼われていたからといって、平安京の庶民が猫を飼っていたということにはならないように思う。

ここで、やっと、文献史料から絵画史料(絵巻)に目を移すことにしよう。

日本最初の猫の絵ということになっているのは、『信貴山縁起絵巻』(1160年代)下巻に描かれたもの。

弟の命蓮(信貴山の開山)を探し歩く姉の尼公が奈良の街で道を尋ねるシーン。
糸を紡いでいる女性の背後の板の間に、紐で繋がれた動物が見える。
猫1.JPG
猫3.JPG
う~ん、なんか変・・・。
顔が妙に尖がっていて、猫に見えない。
手を前に伸ばした座り方もどこか犬っぽい。
むしろ、狸(たぬき)に似ているような気がする。
そこで、思いだされるのは、先ほど「ネコ=狸=タヌキ」という図式。

以下は、私の推測。
これが猫だとしても、絵師は実物の猫を参考にして描いてはいないように思う。
しかも、絵師の頭には「ネコ=狸=タヌキ」というような混乱があったのではないだろうか?

次に猫が描かれるのは『鳥獣人物戯画』(12世紀末~13世紀)。
猫2.jpg
戯画なので、一般的な絵巻とはちょっと性格が違うかもしれないが、甲巻に烏帽子をかぶり擬人化された猫が1場面1匹だけ出てくる。
たくさん描かれている、兎、蛙、狐、猿などに比べるといたって影が薄い。

3つ目は、『春日権現験記絵』(1309)巻6の場面。
蛇を苛めた少年が重い病にかかるシーンで、祈祷のために「老巫女」と山伏が屋敷に呼ばれているが、その脇に箱座りしている猫が真後ろから描かれている。

背中は黒っぽいが、よく見ると、側面に縞があるようで雉虎猫かもしれない。
猫4.JPG猫5.JPG
ちなみに、この場面の「老巫女」、頭頂部が完全禿げていて、私は「怪しい」と思っている。
「怪しい」とは、つまり、女装した男性の巫人「持者」ではないか?ということ。
「七十一番職人歌合絵巻」(1500年ごろ)では、「山伏」と「ぢ者」が番えられているが、その「持者」とこの「老巫女」はよく似ている。

猫に戻ろう。
4つ目が、『石山寺縁起絵巻』(1325~26)で、巻2と巻5の2か所に猫が描かれている。

巻2は、源順が石山寺参詣に向かう琵琶湖湖畔大津の浜の民家の入口に赤紐の首輪をした虎縞猫が繋がれている。
この猫、青緑の目をしていて、ちょっと怖い。
2-4-9.JPG
猫7.JPG
猫8.JPG
巻5は、富裕な受領藤原国能の館の場面の最後の部分。
裏庭の井戸端で少年が猫を抱いている。
猫の顔が真正面から描かれているのが面白い。
猫9.JPG猫10.JPG
ちなみに、『石山寺縁起絵巻』の絵師は『春日権現験記絵』を描いた高階隆兼と推測されている。

2つの絵巻に描かれた3匹の猫を見ると、高階隆兼はちゃんと実物の猫を見て描いているように思う。
あるいは、彼の家には猫が飼われていたのかもしれない。

ところで、『信貴山縁起絵巻』の猫?と『石山寺縁起絵巻』巻2の猫は紐で繋がれていた。

平安~鎌倉時代に、猫が紐で繋がれて飼われていたことは、紫式部の『源氏物語』で、柏木中将があこがれの女三宮(光源氏の正妻)の姿を垣間見るシーンからもうかがえる。

柏木に、普段は人前に出ない高貴な女人の姿を見るという、思いがけないチャンスが訪れた原因は、女三宮の飼猫が庭に飛び出そうとして紐が簾に引っかかり、簾がまくれあがってしまったため。

紐付き猫が作ったチャンスから不義密通と柏木の破滅が始まり、運命の子「薫」が生まれることになる。

どうも、全体的な印象として、猫が一般庶民の家で広く飼われるようになったのは、今まで思われている以上に遅いのではないか?という気がする。

具体的には、平安時代も後期(11世紀代)になって、やっとではないだろうか?
あるいは、平安末期(12世紀代)かもしれない。

気がするだけで、何も証拠はないのだが・・・。
「居なかった」という証拠を提示するのは、とても難しいし・・・。

ただ、猫が奈良~平安時代人にポピュラーな存在だとしたら、もっと文字なり絵なりに記されてもいいのではないだろうか?

あまりにも、猫がいた痕跡が乏しいように思う。

また、飼い方にしても、数か少なく貴重だからこそ紐で繋いだと思われる。
そこらにいくらでも猫がいる状況だったら、余程の高貴猫以外は、猫の性質からしても、自由にしていたと思う。

12世紀中頃の『石山寺縁起絵巻」で大津の民家で猫が繋がれていたということは、まだその時代には、庶民にとっては猫は貴重な存在だったと思う。

私が思うのは、少なくとも、平城京や初期の平安京の大路・小路を猫が闊歩していたという情景はなかったのではないか?ということだ。

猫好きにとっては、ちょっと寂しい気もするが・・・。

【追記】2009年、兵庫県姫路市の見野6号墳(6世紀末~7世紀初頭)から須恵器に猫と思われるの足跡がついているのが発見された。
猫足跡2.jpg
「杯身(つきみ)」と呼ばれるふた付き食器の内側に直径3cm程の爪の無い5個の肉球と掌球がくっきり付いている。
須恵器の制作工房で未乾燥の状態の器の上を猫が通過していったものと思われる。
須恵器は渡来系の技術なので、朝鮮半島から渡ってきた工人が猫を連れてきたのかもしれない。


2010年11月10日 石山寺縁起絵巻を読む(大津の浜の情景-洗濯・店・紡錘・猫-) [石山寺縁起絵巻]

2010年11月10日 石山寺縁起絵巻を読む(大津の浜の情景-洗濯・店・紡錘・猫-)
11月10日(水) 晴れ  東京 18.9度  湿度 32%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白で草花文?のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ
黒のカシミアのショール。

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段、『万葉集』の訓読事業を命じられた源順(したごう 911~985)の話。
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琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行の背後に描かれている民家の様子を読み解く。
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↑ 畝をたてて野菜を栽培している菜園。
なかなか管理が行き届いている様子。
季節は夏~初秋、植えられているのは何?
放射状に広がった葉は、菜っ葉? それとも大根?
2-4-6.JPG
↑ 自宅前の道端で洗濯する女性。
足踏み洗濯ではなく、曲げ物の桶で手洗い。
まだ洗濯板は発明されていない。
井戸端ではない。
水は、目の前の琵琶湖から汲んでいる?
裸ん坊で這い這いしている子供
これは古代中世には一般的。
2-4-7.JPG
↑ 仮設の棚に果物を並べて売っている店(たな)。
並んでいる果物、左は縞瓜?、右は梨?、奥の赤いのは葡萄?
棚の上には、草鞋(惰円と丸型の2種類)が吊り下げられている。
いかにも街道沿いの店らしい。
2-4-8 .JPG
↑ 糸(麻糸)を紡ぐ年配の女性。
紡錘車を回して糸に撚りをかける作業。
座った足もとに置かれている2つの器具(木製)の使い方がわからない(紡錘車に回転を与える道具らしい)。
糸車はまだ発明されていない。
2-4-9.JPG
↑ 差し上げ窓から、往来の行列を望む父親と息子?
室内は板張りの高床。
戸口には紐で繋がれた虎縞の猫。
赤い首輪をしている。
2-4-11.JPG
↑ 道端に積まれた大量の石。
平らなものが多い。
なぜここに積まれているのだろう? 
用途不明、道路などの敷石用材だろうか?
2-4-10.JPG
↑ 湖岸にもやわれた舟。
少し手を加えているが、基本構造は丸木舟。

読み解けないものが多く、勉強不足を痛感。

で、残りの時間、「日本古代・中世の猫」について話をする。
 
12時、終了。

2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話) [石山寺縁起絵巻]

2010年10月13日 石山寺縁起絵巻を読む(源順の説話/広幡御息所が「沓冠歌」の謎を解く話)

10月13日(水) 晴れ  東京 26.1度  湿度 59%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
ジラフ柄(焦茶)のロングチュニック(長袖)、黒のレギンス(7分)、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ

9時50分時、家を出る。
駅前のコンビニでレジュメの印刷。

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第4段の読み解き。
2-4-4.jpg
第4段は、広幡御息所(源計子)が村上天皇に勧めて『万葉集』の訓読事業をすることになり、それを命じられた源順(したごう 911~985)の話。

源順が訓読に悩んだ歌がなんだったのか、話には出てこないのだが、『万葉集』巻12(3142番)の「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」という歌らしい。

この歌、訓読は「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日・・・」だが、最後の「左右二」がどうしても読めない。

悩んだ順は、仏の助けを得ようと石山寺に参籠することを思い立つ。
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↑ 琵琶湖湖畔、大津の浜を行く源順の一行

その道中(たぶん帰路)、大津の浦(琵琶湖湖畔)で、馬で米俵を運んでいる一行とすれ違う。
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↑ その時、一行のリーダーらしき翁が、馬の背の俵を左右の手で押し直しながら、「おのがどち、まてよりつけよ」(皆の者、両手で荷をおさえるんだ)と言った。

それを聞いた順は、「左右=まて」という訓を思いつくという話。
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↑ 馬による米俵の運搬の仕方がよくわかる。
見習いの馬子が、口に入れているのは、携帯食料の干し米(糒)か?

例の歌の訓読は「左右」を「まて」と訓ずると、「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに」となって意味が通る。

ただ、この説話、今のところ、他に典拠が見出せない。

広幡御息所が『万葉集』の訓読事業を村上天皇に勧めた話は、『十訓抄』巻7にあるのをやっと見つけたのだが・・・。

続いて、日本最初の百科事典ともいうべき『倭名類聚抄』の著者であり平安時代中期を代表する文人・学者である源順の経歴を解説。

それにしても、嵯峨源氏大納言定(さだむ)の孫で、文人・歌人としての盛名の一方、73歳まで生きて従五位上能登守という順の官歴は、あまりに不遇。

よほど世渡りが下手だったのだろう。

また、村上天皇の後宮で、聡明さで知られた源計子(宇多源氏。斉世親王の三男中納言庶明の娘)の逸話も紹介。

村上天皇が後宮の女性たちに「逢坂も はては行き来の 関もゐず 訪ねて問ひこ 来きなば帰さじ」という歌を与えた時、ただ一人、それが「沓冠歌」であることを見抜き、天皇に薫物を送った女性。

「沓冠歌」というのは、「冠」=語句の頭、「沓」=語句の末尾に、意味のある文字を置いた歌。

つまり、

ふさか
てはゆきき
きもゐ   
づねてとひ
なばかへさ  

は、「あはせたきものすこし」=「合わせ薫物少し」の意味になる。

そんな話をしているうちに、肝心の絵の解説が時間切れに。 
12時、終了。


2010年09月22日 石山寺縁起絵巻を読む(「かげろう日記」の分析にフロイトはいらない) [石山寺縁起絵巻]

2010年09月22日 石山寺縁起絵巻を読む(「かげろう日記」の分析にフロイトはいらない)
9月22日(水) 晴れ  東京 32.7度 湿度 54%(15時) 

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
朝食は、洋梨のデニッシュとコーヒー。

化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の花柄(菊?)のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ

9時50分、家を出る。
今日も暑い。
テレビでは「今日が最後の夏」と言っていたが・・・。

途中、コンビニでレジュメを印刷。

午前中、自由が丘で講義。

『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
通常、第2水曜日のこの講義だが、今日は、某大学のゲスト講義で潰れる12月分の補講。
巻2の第3段の解説。
第3段は、藤原倫寧の娘(『蜻蛉日記』の作者)の石山詣の場面。
『蜻蛉日記』の該当部分を読む。

なかなかな通ってきてくれず、しかも他の女の所に通い始めたという噂を耳にして悲嘆にくれた「蜻蛉の女」(藤原倫寧の娘=藤原道綱の母)は、半ばは気晴らし(同時に、夫への当てつけ)、半ばは仏に祈願するために石山寺に詣でる。

観音堂に参籠して2日目の明け方、疲労でまどろんだ彼女の夢に、老僧が現れ、銚子(柄のついた酒器)から、彼女の右膝に水を注いだ。
「この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかく(沃く=注ぐ)と見る」
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どういう意味がある夢なのだろう?

ところが、「古典文学集成」(新潮社 1982年)次のような注釈を付している。
「『銚子―膝―いかく』は、明らかに性的な象徴であろう」

はぁ~??
さらに
「『抑圧された願望の昇華されたもの』を読み取るには、おそらく正しい」
と続く。
なんだ、このフロイトの亜流みたいな説明は?

西欧キリスト教文化に基盤を置くフロイト(Sigmund Freud、1856~1939年)の「近代的な」夢分析が、900年前の平安時代の仏教徒の女性に心理分析に適用できるって、この注釈をした国文学者(犬養廉お茶の水女子大学教授)は本気で考えているのだろうか?

私は、彼女が京の自宅に帰って、信頼している巫女(もしくは陰陽師)を呼んで、夢解きをさせるのだと思う。
フロイトの出番じゃあないのだ。

基本的な話として、どうも西欧近代の学問には、人間の感性は古今東西同じである=西欧近代の感性が普遍で正しい、という思い込みがあるように思う。

そんなのは、傲慢な勘違いだということを示すのが、本当の学問だと思うが、なぜか日本の学者は、平然と「傲慢な勘違い」に同調してしまう。
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↑ 縁先でまどろむ侍女と警護の武士2人。

12時、終了。


2010年09月08日 石山寺縁起絵巻を読む(貴族女性・蜻蛉の女の石山詣) [石山寺縁起絵巻]

2010年09月08日 石山寺縁起絵巻を読む(貴族女性・蜻蛉の女の石山詣)
9月8日(水) 雨  東京 30.5度 湿度 91%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
青と白と黒の変な柄のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ

10時、家を出る。
台風9号の接近の影響で、超久しぶりの雨。
調べてみたら、8月9日(24.5mm)以来、約1ヵ月ぶり。
気温はずいぶん下がったが、湿度がものすごく汗が止まらない。
(10時、26.4度、82%)

午前中、自由が丘で講義。
『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。
巻2の第2段の解説の後、第3段に入る。

第3段は、藤原倫寧の娘(『蜻蛉日記』の作者)の石山詣の場面。
詞書を読んだ後、『蜻蛉日記』の該当部分を読む。

この石山詣、夫(藤原兼家)がなかなかな通ってきてくれず、しかも他の女の所に通い始めたという噂を耳にして悲嘆にくれていた「蜻蛉の女」が、半ばは気晴らしに、半ばは仏に祈願するために、出掛けたもの。
夫や妹にも知らせず、ごく少ない供まわりで、しかも牛車や馬を使わず、徒歩で出掛けたあたり、かなり衝動的というか、夫への当てつけ的行動のように思う。

夜明け前(3時頃)に家を出て、おそらく二条の末で賀茂川を渡り、粟田で東山を抜け、山科に入り、逢坂山の「走井」で休憩・食事、逢坂関を通過して、打ち出浜で琵琶湖湖畔に出て、そこから舟に乗って、瀬田川に入り、疲労困憊しながらも、日暮れ前の申の終わり(17時頃)に、石山寺に着いている。

京→石山寺、所要14時間、足弱な貴族女性でも、早出をすれば、その日の内に、到着できたことがわかる。

彼女は、休憩と沐浴の後、中夜(夜半前後、22~2時)、後夜(夜半から夜明け前、2~4時)に観音堂に参籠している。
当時の参籠・祈願が深夜であることがわかる。

12時、終了。

2010年08月11日 石山寺縁起絵巻を読む(絶対に会えない人が・・・) [石山寺縁起絵巻]

2010年08月11日 石山寺縁起絵巻を読む(絶対に会えない人が・・・)
8月11日(水) 晴れのち曇り  東京 31.9度 湿度 63%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー

化粧と身支度。
白・黒・オリーブ・紫色の直弧文のような変な柄のカシュークルのワンピース(2分袖)、黒のサンダル、黒のトートバッグ

10時、家を出る。
腰から左脚にかけて坐骨神経痛が出ている。
駅まで歩く途中、痛くて歩行が辛くなり、路地に入って屈伸運動。
人気がないと思ったら、おばあさんにしっかり見られてしまった・・・。
少し回復して、なんとか駅までたどりつく。

午前中、自由が丘で講義。

最初に30分ほど、「延喜縫殿寮式・雑染用度」に記されている茜染について話す。
(詳細は12日に掲載)

続いて、『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

今日は、巻2の第2段の読み解き。

比叡山(天台宗)の有名な学僧「谷の阿闍梨」皇慶(台密谷派の祖)が、石山寺普賢院(真言宗)の淳祐に教えを請いにくる話。
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↑ 質素な淳祐の住坊「普賢院」。縁先にあるのは閼伽棚。

2人の生没年を調べると、「普賢院内供」淳祐が寛平2~天暦7年(890~953)であるのに対し、「谷の阿闍梨」皇慶は貞元2~永承4年(977~1049)で、ぜんぜん時代が違う。

生存年代は完全にずれていて、2人がこの世で出会った可能性はゼロ。
絵には、2人の老僧(淳祐と皇慶)が対面している場面が描かれているのだが・・・まったくの嘘。
寺社の「縁起」には歴史事実に反するものもときどきあるが、ずいぶん無茶な話をでっち上げたものだ。
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↑ 会うはずのない二人。左が淳祐、右が皇慶。
淳祐の机の側には巻子(巻紙)が山積みになっていて、彼の勉学・著述への専念ぶりがうかがえる。

詞書では、皇慶は、淳祐に授法を断られた後、淳祐の弟子である元杲(延喜14~長徳元年 914~995)から教えを受けたことになっているが、これでもぎりぎり(元杲の没年に皇慶はまだ19歳)。

なぜこんな無理な話を絵巻の題材にしたかと言えば、台密の一派の祖になる高僧が、真言密教の教えを石山寺に請いに来た、という話を残したかったのだろう。

また、それは、比叡山(山門)、園城寺(寺門)という天台宗の二大派閥が競う近江国で、真言宗の寺院である石山寺が生き残っていくために必要なことだったのだろう。

12時、終了。


2010年07月14日 石山寺縁起絵巻を読む(神仏のお告げの方法) [石山寺縁起絵巻]

2010年07月14日 石山寺縁起絵巻を読む(神仏のお告げの方法)
7月14日(水) 曇りときどき晴れ  東京 31.3度 湿度 62%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の花柄(菊?)のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒レースのレギンス(7分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ

9時40分、家を出る。
途中、コンビニで配布資料をコピー

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

巻2の第1段の詞書の後半を読む。
普賢院内供淳祐の終末についての不思議な話、そして真言宗の小野流の正嫡としての石山寺の法脈継承を語っている。

続いて、第1段の普賢院内供淳祐(寛平2~天暦7年、890~953)の絵を読み解く。
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↑ 石山寺観音堂の内部。
外陣は板張で、そこに長畳が置かれ、人々が参籠している。
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↑ 参籠しているのは男性1人に対し、女性が4人。
特に女性の信仰を集めていたことがわかる。
端坐・合掌している若い女性もいるが、他は思い思いの姿勢で眠っている。
男性は柱を背に片膝立ての座り方で居眠り。
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↑ 格子を隔てた内陣では、熟睡している少年僧(淳祐)の手を二人の老僧が取って上下に動かす、ある種の呪法?が行われている。

この夢の中で行われた呪法?(観音のご利益)によって、愚鈍でブ男だった少年淳祐は、聡明な美男子に生まれ変わる。

どうも、神仏のお告には、2パターンがあるようだ。

(1)神仏が巫人・巫女(シャーマン)など人に憑いて、人の口を借りて意思を語るパターン(憑依タイプ)。

(2)神仏が人の夢に現れて、意思を伝えるパターン(夢告タイプ)。

(1)はシャーマニズム的で、音楽や激しい舞踊、あるいは特殊な薬物などを使って、意図的にトランス状態になることで、神仏の憑依が行われる。

(2)の場合、しっかり覚醒した状態で、神仏に祈っていてもお告げは得られない。
いく日いく晩も参籠して祈り続け、疲労の末にウトウトした状態になったときに、夢中に神仏が現れるのだろう。

それにしても、少年淳祐のように、夢の中に、神仏(の化身)が出てきて、お告だけでなく、何かするというのは、珍しい?

12時、終了。


2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話) [石山寺縁起絵巻]

2010年06月09日 石山寺縁起絵巻を読む(普賢院内供淳祐の話)

6月9日(水) 雨のち曇り  東京 22.0度 湿度 62%(15時)

8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
朝食は、明太子フランスとコーヒー。

化粧と身支度。
黒地に白と茶の花模様のワンピース(3分袖)、黒に細い白のストライプの薄手のカーディガン(長袖)、黒網のストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ

9時50分、家を出る。
小雨の予報だったのに本降りの雨。

途中、コンビニで配布資料をコピー。

午前中、自由が丘で『石山寺縁起絵巻』(近江・石山寺の由来と歴史を描いた鎌倉時代末期の絵巻物)の解読。

まず、延喜17年(917)秋の宇多法皇の石山寺行幸の場面を読み解く。
これでやっと巻1を読了し、巻2に入る。

巻2の第1段は、普賢院内供淳祐の話。
まず、詞書を読み、『古事談』の関連する説話を紹介。

淳祐(寛平2~天暦7年、890~953)は、平安時代中期の真言宗の学僧。
父は右大臣菅原道真の子の淳茂。
累代の学問の家に生まれ、幼いころから書物に親しみ、般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、その法を継いだ。
法脈的には真言宗小野流(醍醐寺)の正統にあり、醍醐寺座主への就任を要請されたが、生来病弱で、足に障害があり正規の座法をとれないことなどを理由に辞退し、石山寺普賢院に隠棲して、真言密教の研究と著述、そして弟子の育成に生涯を捧げ、石山寺の中興に大きな役割を果たした人。

『古事談』の説話は、延喜21年(921)師の観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院の弘法大師の御廟を訪れたとき、淳祐も同行した。
共に御廟内に入ったが、淳祐には弘法大師の姿が見えず、師匠に導かれてその御衣膝に触れることができた。
その際、御衣の薫が手に移り、一生消えることがなく、それにより、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教(かおりのしょうぎょう)」という、という話。

なお、淳祐が書写・著述した典籍は、現在も石山寺に伝わり、「淳祐内供筆聖教」73巻1帖として、国宝に指定されている。

今も、馨が残っているのだろうか?

ところで、山城の醍醐寺と近江の石山寺は実は山続き。
西国観音霊場の古い巡礼道は、第11番の上醍醐寺から尾根道伝いに12番岩間山正法寺に通じていて、そこから山を降りると石山寺がある。

醍醐寺と石山寺の密接な関係は、そんな地理的な事情にもよっている。
そんな話をする。
12時、終了。

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