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新宿グランドツアー【13】歌舞伎町の成り立ち [新宿グランドツアー]

【13】歌舞伎町の成り立ち

ヘテロセクシャルの大歓楽街歌舞伎町のど真ん中にかなり目立つ建物があります。歌舞伎町のランドマークのひとつ「王城ビル」です。
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その傍らに「歌舞伎町公園」という小さな公園があります。「弁天公園」とも言われるように、そこに琵琶を奏でる弁天様の銅像があります。この弁天像、すぐ背後にある「歌舞伎弁天堂」に祀られている弁天様のレプリカなのですが、ではなぜ歌舞伎町に弁天様なのでしょうか?
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明治の頃、このあたりは、大村伯爵の邸宅でした。大村伯爵家は、旧:肥前大村藩2万8千石、天正遣欧使節を送り出した切支丹大名大村純忠の子孫です。そのお庭には、蟹川の流れを引き込んだ、鴨猟ができるほどの大きな池があり、その池の中島に、上野の不忍弁天堂を勧進した弁天様が祀られていました。
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↑ 明治42年(1909)の地形図に見える大村伯爵邸。
大きな池と中島が確認できる。

大正の初め、大村伯爵邸は、尾張銀行の頭取の峯島氏の手に渡り、鴨池は淀橋浄水場の工事で掘り上げた土で埋め立てられてしまいました。「大村の池」は「尾張屋の原」に変わりましたが、弁天堂は旧位置のまま残され、大正12年(1923)3月には峯島氏によってお堂の大改修が行われます。現在の「弁天公園」の入口の石柱に(左側)「奉納 株式会社尾張屋銀行」、(右側)「大正十二年三月吉日」と刻まれているのは、歌舞伎町が「尾張屋の原」だった時代の貴重な証言者です。
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弁天堂は、戦災によって焼失してしまいますが、弁天像は岡本たか子さんという女性が厨子を背負って救い出し、戦後しばらくは彼女のアパートの一室に安置されていました。そして、昭和21年(1946)、旧位置に再建されたお堂に収まり、周囲の歓楽街の喧騒の中で、静かに鎮座しています。だから、現在の歌舞伎町でいちばんの先住者は、この弁天様なのです。

今、歌舞伎町と呼ばれるこのエリアは、明治12年(1879)のコレラ流行に対応して避病院(伝染病専門病院。現:都立大久保病院)が東大久保に建てられたように、いたって寂しい場所でした。「大村の池」が「尾張屋の原」に変わった後の大正9年(1920)に東京府立第五高等女学校が建てられ、周囲は、閑静な住宅街になりました。しかし、昭和20年(1945)5月の大空襲で、角筈一丁目一帯も焼け野原になってしまい、校舎を焼失した第五高女は、中野区富士見町に移転し、二度と戻ってきませんでした(現:都立富士高校)。
まあ、その後の街の変遷を考えると、教育環境的には、戻ってこなくて正解だったと思いますが・・・。

焼け野原になった地に大きな夢を描いたのが、軍に佃煮などを納入して財を築いた鈴木喜兵衛という男でした。彼は、終戦後すぐに旧住民に働きかけて借地権利を委ねる「復興協力会」を設立し、さらに大地主の峯島茂兵衛の協力も取り付けます。

こうして土地の権利をまとめた上で、鈴木喜兵衛は、大規模な区画整理をした上に劇場・映画館などを集中させる大興行街のプランを作り上げます。その目玉が歌舞伎座の誘致でした。昭和23年(1948)4月1日、角筈一丁目は、町名を歌舞伎町に改め、昭和25年(1950)、歌舞伎町を中心に「東京文化産業博覧会」が開催されました。しかし、結果的に、歌舞伎座の誘致は失敗し、博覧会は大赤字を出し、鈴木喜兵衛のプランは頓挫してしまいます。

ただ、博覧会の建物が転用されて映画館街が作られ、歌舞伎座誘致の障害になった大規模建築の規制が昭和29年(1954)に解除されると、ようやく興行街の建設が軌道に乗り始めます。昭和31年(1956)、東宝が同心円状に配された三重の廻り舞台を備えた大規模劇場「コマ劇場」をオープンします。コマの名は、回り舞台が独楽の回る姿に似ていることに由来し、独楽はコマ劇のシンボルマークになりました。

これらの興行施設が中核になり、三越裏の繁華街から客を奪い、1960年代後半には、歌舞伎町は新宿における新興の盛り場としての地位を確立します。つまり、歌舞伎町は、鈴木喜兵衛のプランによって、町名も町割もまったく新しく人工的に作られた盛り場なのです。
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↑ 新宿歌舞伎町(2014)

現在、歌舞伎町には3000軒を数えるバー、キャバレー、性風俗店、ラブホテルなどが密集し、おそらく世界最大の歓楽街を形作っています。その甘い汁に群がる暴力団の事務所が100ヵ所前後もあると言われ、また、外国人マフィアの進出も活発化しています。歌舞伎町が「不夜城」、「欲望の迷宮都市」、「日本一危ない街」「マフィアの棲む街」などと言われる所以ですが、その一方で、石原慎太郎都知事(当時)は、歌舞伎町の「浄化」に執念を燃やし、地元でも歌舞伎町再生の動きが出てきています。

長らく歌舞伎町のランド・マークだったコマ劇場は、平成20年(2008)の大晦日、「第41回年忘れにっぽんの歌」の生放送を最後に52年に及ぶ歴史を閉じました。歌舞伎町は、新しい時代を迎えようとしています。
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↑ 「コマ劇」跡の「新宿東宝ビル」ビル。
31階建ての高層ビルで、970室の大規模ホテル「ホテルグレイスリー新宿」やシネコンが入っている。
「コマ劇」があった頃に馴染んだ人は、まったく景色が変わってしまい驚くと思う。 
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↑ ゴジラは近くに寄り過ぎると見えにくい。

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