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新宿グランドツアー【11】ゴールデン街・花園街 -「青線」の街、そして、女装コミュニティの発祥の地- [新宿グランドツアー]

【11】ゴールデン街・花園街 -「青線」の街、そして、女装コミュニティの発祥の地-

花園神社の本殿の脇を通り裏門を抜けると、木造建築の小さな飲み屋が密集するエリアがあります。昭和の残り香が色濃くただよう「ゴールデン街・花園街」です。
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↑ 上から見た「ゴールデン街・花園街」

ゴールデン街・花園街には、東西方向に6本の路地があり、奥でそれらが南北方向の道(まねき通り)で連ねられています。たとえると、櫛の形に似ています。路地は、靖国通りに近い方(南側)から、無名の路地(G1通り)、ゴールデン街(G2通り)、花園一番街、花園三番街、花園五番街、そして少し離れて花園八番街で、名のある路地は入口にアーケードがあります。
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この街の成り立ちは、やや複雑です。昭和24年(1949)の秋、GHQから露店取払い命令が出ました。期限は昭和25年(1950)3月末日まで。新宿駅東口から南口にかけて転化していた「和田組マーケット」の露店業者たちも立ち退きを迫られました。その移転先に選ばれたのが花園神社裏の三光町の薄や葦が生える原っぱでした。彼らは1軒あたり約3.5坪の木造(外観)2階建ての棟割長屋を建て「花園小町」と名乗ります。これが今の「花園街」の起源です。

続いて、新宿2丁目の「赤線」地区の周囲で露店商売をしていた業者がやはり立ち退きにあって移転してきました。彼らは「花園小町」の南側に4戸が一組の連棟式長屋の店舗兼住居を建てて住みつき、「花園歓楽街」と名乗ります。これが今の「ゴールデン街」の起源です。店舗の面積は少し広く1軒あたり約4.5坪でした。

この地区には、両者合わせて240軒ほどの店が密集していますが、こうした成り立ちを反映して、現在でも花園一番街を境にして北側が「新宿三光商店街振興組合」、南側が「新宿ゴールデン街商業組合」という2つの組合に分かれています。
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↑ 1984年の「ゴールデン街・花園街」。
「花園一番街」を境界線が走っている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。

ところで、この地域は、今でこそ繁華な盛り場である歌舞伎町の一角になっていますが、移転当時は新宿駅からも遠い辺鄙な場所で、酒を売るだけでは客が呼べませんでした。そこで生活のために考え出されたのが、「春を売る」ことでした。

ゴールデン街・花園街の建物は、1階が飲食店、2階が店主の住居という基本設計になっていますが、実はさらに上があります。花園街のある店の2階から急角度の階段を上がると(75度ですから階段ではなく梯子です)、1畳半ほどの、蒲団を1組敷くのがやっとの屋根部屋が2つあります。いちばん高い所でも1m50cmほどで、立つと頭がつかえます。
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↑ 新宿「ゴールデン街」に残る3階の娼婦部屋と、敷きっぱなしになっていた布団。
1畳半ほどの部屋が2つ並び、入口は棟木側。天井は低いが窓もあり、「3階」の体裁になっている。
(渡辺英綱『新編 新宿ゴールデン街』ふーじょんプロダクト・ラピュタ新書 2003年)。

今でも、ゴールデン街・花園街の建物の軒下を観察すると、細い隙間状の窓が見えるところがあります。屋根裏部屋の明かり&空気取りです。外観は2階建てでも、実は3階(2階半)建てという巧妙な仕組みになっています。

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店の前に立つ女性に誘われた男性客は、飲食を装って店に入り、女性とともに屋根部屋に上がって、Sexをするというシステムでした。もし、警察が踏み込んできても、梯子を屋根裏に引き込んで上げ蓋を閉じて、息を潜めていれば、なんとかなるだろうという発想でした。

こうして、新宿最大の「青線」(非合法買売春地区)「花園街」が成立し、昭和33年(1958)3月31日の「売春防止法」完全実施まで、淫靡で猥雑でそして妖しい魅力をもつ「売春の街」として大いに賑わうことになります。
   
1990年代中頃、不動産バブルの時代、ゴールデン街も地上げ攻勢にあいました。それと関わるのか、放火でゴールデン街一角が焼けたことがありました。消防署が調べると、焼け跡から2組ほどの蒲団が出てきました。1階も2階も店舗のはずなのに・・・? 現在の店主に問いただしても「知らない」と言います。それは、長らく封鎖されていた屋根裏の売春部屋の蒲団だったのです。「知っていても、やっぱり言えないよね」と知り合いの店主が言っていたことを思い出します。

ところで、花園五番街を入ってすぐの左側に鉄平石を貼った特徴的な入口の店があります(1階が「蛾王」というバーになっている建物)。こここそが、新宿女装コミュニティの原点である女装バー「ふき(梢)」があった場所です。内部はすっかり改装されていますが、鉄平石貼りの外観はほぼ当時のままです。
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「ふき」は、1960年代前半に読売新聞社に勤務するかたわら、女装秘密結社「富貴クラブ」の有力会員として活躍したアマチュア女装者、加茂こずえが昭和42年(1967)2月に開店した店です。当初はその店名が示す通り「富貴クラブ」との提携のもと、その理念に基づき女装者と女装者を愛好する男性(女装者愛好男性)とが気楽に飲める店として出発しました。

ゴールデン街・花園街には、それ以前から女装男娼やゲイボーイ出身のプロの女装者が男性客を接客する小規模なゲイバーが何軒か存在していましたが、「ふき」はそれらとは異なり、アマチュア女装者が客あるいは臨時従業員(ホステス)として女装者好きの男性客と空間をともにする形を採りました。つまり、店が女装者と女装者愛好男性との「出会い」の場になるという新たな営業スタイルを作り出したのです。

「ふき」は、昭和44年(1969)9月に「梢」と改称し、1970年代前半に全盛期を迎えます。こうしてプロフェッショナルな女装世界(女装系のゲイバー)と純粋なアマチュア女装世界(富貴クラブ)の中間に、セミプロ的色彩を持つ第三の世界、「梢」を拠点とするアマチュア女装者と女装者愛好男性のコミュニティ「新宿女装世界」の原型が形成されました。

私の新宿ホステス時代(1990年代後半)には、「梢」はすでに伝説の店となっていましたが、それでも「梢」出身の先輩女装者や、「梢」で遊んだことのある男性客は、まだ何人か残っていて、当時の思い出を語ってくれました。「梢」に通ったということは、90年代の女装世界では、この世界の重鎮であることを示すステイタス・シンボルでした。

昭和53年(1978)10月、新宿花園五番街の「梢」の隣(花園神社寄り)に女装バー「ジュネ」が開店します。「ジュネ」は昭和59年(1984)年にそれまでオーナーだった中村薫がママになると、経営が乱れた「梢」に代わって新宿の女装世界の中核に成長していきます(「梢」は1982~83年頃に閉店)。
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↑ 「ジュネ」の名を受け継ぐ女装バー「Jan June」(花園三番街)

ゴールデン街を西に抜けると、そこに緩やかなカーブを描く石敷きの遊歩道があります。現在は「四季の道」と呼ばれているこの道は、実は都電13系統の専用軌道の廃線跡で、かってここには踏切がありました。
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↑ ゴールデン街・花園街の裏手の都電線路跡(遊歩道「四季の道」)
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↑ 靖国通りから見た「四季の道」の入口(右側のビルの谷間)。
左側のビルの谷間は「区役所通り」。

踏切だった場所を渡って(「四季の道」を横切って)、「ゴールデン街」のアーケードを潜ると、すぐに新宿区役所通りに出ます。その右側の「丸源54ビル」(現:三経55ビル)の2階に1994年5月に花園五番街から移転した老舗の女装スナック「ジュネ」がありました(2003年12月閉店)。平成7年(1995)夏頃から同10年(1998)年末までの約3年半、私が週1~2度、お手伝いホステスとして新宿歌舞伎町の夜を過ごした店です。
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↑ 「ジュネ」時代の私(1997年11月)。店の前の廊下で。

深夜、お客さんを見送った後、眠気覚ましに散歩した「四季の道」で見上げた冴え冴えとした冬の月。ここに立つと、私にとっての遅い青春時代だったその頃を懐かしく思い出します。

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