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新宿グランドツアー【8】成覚寺 -内藤新宿の裏側- [新宿グランドツアー]

【8】 成覚寺 -内藤新宿の裏側-

新宿2丁目の靖国通りに面して、2つの寺院が並んでいます。ともに文禄3年(1594)創建の成覚寺(じょうかくじ)と正受院(しょうじゅいん)です。
東側の正受院は、明了山正受院願光寺(浄土宗)といい、幕末までは会津松平家の菩提寺でした。境内の「奪衣婆像」は、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があることから「綿のお婆」と呼ばれています。また、針供養でも知られる寺です。

西側の成覚寺は、十劫山無量寿院成覚寺(浄土宗)といい、内藤新宿の「投げ込み寺」でした。「投げ込み寺」とは、遊女や行き倒れ人など身寄りのない(無縁)の人の遺骸を運びこんで、埋葬・供養した寺のことです。

「投げ込み寺」というと、「大きな穴を掘って遊女の遺体を牛馬のように投げ込んだ」などと記した本がありますが、「投げ込み」という言葉から勝手なイメージを膨らませた大間違いです。運び込まれた遺骸は共同墓に埋められましたが、寺では一人一人ちゃんと過去帳に付けて供養をしています。また、遊女の場合は、身売りの時に、年季の間に死亡した場合は、戒名だけを郷里に送り、遺骸は遊廓の近くの寺に埋葬する契約になっていましたので、楼主が、特別に悪辣なことをしていたわけでもありません。

成覚寺には、江戸時代を通じて、2200~3000人の「飯盛女」(宿場女郎)が埋葬されたと推定されています。境内中央左手には、万延元年(1860)に内藤新宿の楼主たちが建てた「子供合埋碑」があります。
成覚寺1.JPG
「子供」とは楼主が抱えの遊女を呼んだ言葉です。明治26年(1893)にも貸座敷の経営者たちによって「亡娼妓招魂碑」が建てられましたが、戦災にあって現存しません。

門を入って左手には、江戸時代の戯作者、恋川春町(こいかわ はるまち 延享元~寛政元年 1744~89)の墓があります。春町は『金々先生栄花夢』で後に黄表紙といわれるジャンルを開拓した人ですが、松平定信の「寛政の改革」を茶化したことで咎めを受け、自殺してしまいます。

その隣には、旭町(現:新宿4丁目)の玉川上水北岸から移動した「旭地蔵」があります。
成覚寺2.JPG
旭町の名は、この旭地蔵に由来します。寛政12年(1800)に内藤新宿の名主高松氏のよって建立されたもので、台座には寛政12~文化10(1800~13)に玉川上水で死亡した18名の男女の名が刻まれています。その内、男女6組12人は心中(情死)者と思われます。

成覚寺は、賑やかな内藤新宿の裏にある悲しい歴史を垣間見せてくれます。

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