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新宿グランドツアー【7】遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌- [新宿グランドツアー]

【7】 遊廓から「赤線」、そしてゲイタウンへ-新宿2丁目の変貌-

(1)新宿遊廓の成立と発展
明治35年(1902)頃、内藤新宿の上町(大木戸~太宗寺入口)には、甲州街道の北側に18軒、南側に9軒、計27軒の貸座敷(実態は妓楼)が軒を連ねていました。また仲町にも17軒の貸座敷があり、新宿全体では53軒を擁していました。

ところが、明治39年(1906)、内藤氏の下屋敷跡が宮内省によって「新宿御苑」として整備され、皇族をはじめとする国内の貴顕と招かれた外国の賓客の遊宴の地になると、御苑に近い街道沿いに娼家が連なっていることが、問題視されるようになります。

娼家を恥ずべきものとして、皇族や外国賓客の目から遠ざけたい政府(警視庁)は、仲町・下町の街道から北に引っ込んだ一帯にあった乳牛牧場「耕牧社」が大正2年(1913)に廃業し、その跡地が「牛屋の原」と呼ばれているのに注目しました。そして、大正7年(1918)、新宿の娼家に「牛屋の原」への集団移転を命じます(大正10年までの期限付き)。

最初は移転を渋っていた娼家も、大正9年の大火で娼家数10軒が焼けたことがきっかけとなり、ようやく動き出し、期限内の大正10年(1921)3月に集団移転が完了しました、ところが、移転直後の3月26日、追分の俵屋倉庫から出火した火事で新築したばかり娼家は全焼してしまいました。仕方なく、もう一度建て直すのですが、短期間に2度も建て直せるだけ、荒稼ぎした貯えがあったということでしょう。こうして大正11年(1922)春、59軒の新築妓楼がうち揃い、盛大なお披露目となりました。新宿遊廓の成立です。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、下町の二大遊廓「新吉原」(台東区千束)、「洲崎」(江東区東陽町)や、私娼窟の「玉の井」(墨田区向島)、「亀戸」(江東区亀戸)は全焼し壊滅的な被害を受けました。大きな被害を免れた新宿遊廓は、東都の遊客を一手に集める形になり、急速に台頭していきます。

昭和4年(1929)刊行の上村行彰著『日本遊里史』の巻末付録「日本全国遊廓一覧」によると、新宿遊廓は、貸座敷56軒、娼妓570人(1軒あたり10.2人)となっています。

昭和になって中央通りや追分に新宿モダン文化が花開くと、積極的にモダン趣味を取り入れ、江戸時代以来の伝統と格式を誇る「新吉原」を凌いで、実質的にモダン東京で最も賑わう遊廓に成り上がったのです。

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↑ 昭和10年(1935)頃の新宿と「新宿遊廓」の位置

新宿遊廓の所在地は、現在の町割では新宿2丁目と3丁目に股がっています。現2丁目に3分の1、現3丁目に3分の2くらいで、メインストリートの「大門通り」は現3丁目の「要通り」に相当します。

これは、昭和20年(1945)の空襲で新宿遊廓が全焼し、さらに昭和24年(1949)に遊廓地区を分断する形で「御苑通り」(新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たるグリーンベルトがある道路)が作られ、さらに昭和43年(1968)1月1日に、2丁目と3丁目の境界線が東に移動して「御苑通り」が境界になったためです。

(2)新宿2丁目「赤線」地帯
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の方針で「娼妓取締規則」など、戦前の遊廓制度が解体され、指定された地域内に限って特殊飲食店の営業を認め、買売春を黙認する「赤線」のシステム(1946~58)が始まります。新宿では、旧新宿遊廓のエリアの内、「御苑通り」の東側が「赤線」指定地(仲通りの西側。現:新宿2丁目16・17・18番地)になります。そして、その南側などに非合法買売春地区である「青線」(12番地)が成立します。
二丁目「赤線」3「ひとみ」(1953).jpg
↑ 「柳通り」南側にあった「ひとみ」(1953年)

「赤線」全盛期の昭和27年(1952)年末の統計によると、新宿の「赤線」は、業者74軒、従業婦477人(1軒あたり6.5人)で、規模(従業婦数)では、新吉原、洲崎に次ぎ都内3位でした。
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↑ 通りの左側が二丁目「赤線」の中心部。
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ほぼ同じ場所の現在(2015年)。

「赤線」は、昭和31年(1956)10月に成立した「売春防止法」によって、その命脈を絶たれることになりました。それでも新宿の「赤線」は、最末期の昭和32年(1957年)3月でも70軒、451人(6.4人)の規模を保ち(洲崎を抜いて2位)、最後まで旺盛な需要があったことがわかります。昭和33年(1958)3月31日、「売春防止法」が完全施行されたことで、新宿の「赤線」の灯は消えました。その最後の日の様相は、白鳥信一監督「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(1974年、日活)に再現されています。

(3) ゲイタウンへの変貌
昭和30年代後半(1960~65)になると、「赤線」が廃止されて空洞化した2丁目に、「ぼんち」「蘭屋」などのゲイバーが進出するようになります。新宿のゲイバーは、それ以前にも、新宿駅東口「二幸」(現:アルタ)裏にあった「夜曲」(戦前?~1962)、明治通りの「大映」の裏にあった「イプセン」、区役所通りの「アドニス」などがありましたが、当然のことながら、「赤線」「青線」というヘテロセクシュアルな性愛の街である2丁目には、1軒もありませんでした。

その後も2丁目に開店するゲイバーの数は増し、昭和46年(1971)には、仲通りと花園通りの交差点の北西側の旧「赤線」地区を中心に約64軒のゲイバーが密集するようになります。さらに1980年には170軒、バブル経済全盛の1990年前後には250~300軒に達し、現在でも約200軒が営業しています。
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現在の「ゲイタウン」の中枢部は、かっての「赤線」指定地域に見事なまでに重なります。こうして、ヘテロセクシュアルな遊廓→「赤線」の街だった新宿2丁目は、わずか15~20年ほどの間に、世界最大のホモセクシュアルの盛り場「(新宿)二丁目ゲイタウン」へと変貌を遂げました。

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↑ ゲイ・グッズの専門店

暖かな季節の週末(金・土曜)の夜、2丁目の仲通りに足を踏み入れると、不思議な体験ができます。まず、路上に立っている男の数がやたらと多いのに気づきます。男性は、そうした男たちから発せられる、今まで感じたことのない、品定めされるような性的な視線が全身に絡みつくのを感じるでしょう。逆に、女性はどんなセクシーなファッションをしていても、あっさり無視されか、「あんた、来る場所が違うわよ」という冷たい視点がさらされます。ここでは、多くの人たちが「常識」だと思っているセクシュアリティが反転します。だからこそ一般社会ではマイノリティであるホモセクシュアルの人たちにとっては、かけがえのない大切な街なのです。

2丁目の一画(15番地)、仲通りが靖国通りに出る少し手前、右手に入るL字形の小さな路地があります。この一角は旧「青線」で「墓場横丁」と呼ばれていました。1970年代移行、「Madonna」「agit」「HUG」など数軒のレズビアンバーが集まっていることから「レズビアン小路」と呼ばれるようになりました。
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レズビアン(女性同性愛者)系の店の数は、新宿全体でも20軒ほどと思われ、ゲイ(男性同性愛者)系の店に比べて格段に少ないのが現状です。業界の規模はおそらくゲイ業界の20分の1程度で、女装系とほぼ同程度ではないでしょうか。
ほぼ同じ比率で存在するとされるゲイとレズビアンの間に、これほどの大きな差があるのは、社会的顕在化の違い、遊びに費やせる財力・時間・自由の違いによるのでしょう。

ところで、遊廓や「赤線」の入口には、必ず交番が設置されます。現在、御苑通りと靖国通りの交差点(新宿5丁目東交差点)にある「四谷警察署御苑大通交番」は、もともと新宿「赤線」の見張り番でした。
おもしろいのは、その交番の近くに、というか、すぐ後のビルにソープランドが入っていることです。ソープランドの営業許可地の多くは、旧「赤線」地区に由来しています(歌舞伎町は例外)。現在、新宿2丁目には「赤線」時代の建物は、まったく残っていません。交番とソープランドだけが、2丁目が「赤線」だった時代の、かすかな名残なのです。

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↑ 二丁目北西端。交番(四谷警察署御苑大通交番・右下)のすぐ後ろに、ソープランドが入っているビルがある(「角海老」の広告のあるビルと、その左の「多恋人」のビル)。
すっかり「ゲイタウン」化した新宿二丁目の中で、「新宿遊廓」→「二丁目赤線」と受け継がれた数少ないヘテロセクシュアルの性風俗の場。

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