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新宿グランドツアー【6】内藤新宿と太宗寺(2)太宗寺 [新宿グランドツアー]

【6】内藤新宿と太宗寺
(2)太宗寺
街道から少しだけ北に入った所にある太宗寺(浄土宗)は、内藤新宿第一の寺院です。その起源は、慶長元年(1596)ごろ、太宗という来歴不明の僧侶がこの地にやってきて草庵を作り住み着いたことに始まるそうです。寛永6年(1629)、信濃高遠藩(3万3千石)5代藩主内藤正勝の葬儀がここで行われて以来、内藤氏の菩提寺になり、寛文8年(1668)には8代藩主内藤重頼が7396坪の寺地を寄進して、霞関山本覚院太宗寺という立派な寺院になりました。現在でも、墓地のいちばん奥に「内藤家墓地」があります。

太宗寺は内藤新宿の設置と発展にともない、宿場の人々や江戸の庶民の信仰も集めるようになり、多くの参詣の人々で賑わうようになりました。境内に入ると、すぐ右手に、「江戸六地蔵」の第3番とされる像高267cmの銅製「大地蔵」(正徳2年=1712)が鎮座しています。
内藤新宿・太宗寺11.JPG
ところで、明治の文豪夏目漱石の生母千枝は、太宗寺の真向かいにあった老舗の旅籠(実態は妓楼)「伊豆橋」の娘でした。漱石自身も、幼いころ、明治になって廃業し空家同然になったその家に留守番として住んでいた時期がありました。その頃、太宗寺の大地蔵に上って遊んだらしく、その様子が晩年の自伝的小説『道草』に描写されています。

「彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向ふには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其処(そこ)からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉(つか)まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
(夏目漱石『道草』38)

その左手の閻魔堂には、都内最大(高さ5.5m)の「閻魔像」(文化11年=1814)と、地獄に堕ちた人たちの着物を脱がせる「脱衣婆(だつえば)像」(明治3年=1870)が納められています。ちなみに、この「脱衣婆像」、着物を脱がせるという共通性から妓楼の商売神にされました。

閻魔堂の周囲の玉垣は、昭和8年(1933)の造営で、新宿遊廓の妓楼の名をいくつも見ることができます。戦災でほとんど何も残さず地上から消えてしまった新宿遊廓の唯一の名残です。
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門を入って左手には「百度石」があり、その正面には、願いがかなうと塩を備える「塩掛け地蔵」があります。かっては、「百度石」からお堂まで、百回往復するお百度詣をする人も多かったのでしょう。いえ、「塩掛け地蔵」がいつも真新しい塩で埋もれていることを考えると、信仰は現代にも生きていると思います。
内藤新宿・太宗寺12.JPG

また、庫裏の前には、昭和27年(1952)に内藤家墓地が改修された際に発見された江戸時代中期の織部灯籠が置いてありますが、この灯籠の下部に刻まれているのがマリア像ではないか?という推測があり、隠れキリシタンの遺物かもしれないということで、「キリシタン灯籠」と呼ばれています。しかし、果たしてそうなのか真偽のほどは不明です。
内藤新宿・太宗寺13.JPG

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