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新宿グランドツアー【4】追分 -宿場の場末の大発展- [新宿グランドツアー]

【4】 追分 -宿場の場末の大発展-

天竜寺から明治通りを少し戻り、明治通りとの交差点に出ると、右手前方にコーナーを大きく面取りしたちょっと特徴的なビルが見えます。「京王新宿追分ビル」です。

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↑ 「京王新宿駅」のホームがあった「京王新宿追分ビル」

現在、京王電鉄京王線は新宿駅の西口に入っていますが、大正4年(1915)の開業時の起点は西口ではなく、甲州街道を走って省線(現:JR山手線など)の線路を陸橋で越えて新宿追分交差点南側の路上にまで乗り入れて、新宿通りを走る東京市電と乗り換え可能でした。昭和2年(1927)に「京王新宿ビルディング」(現:京王新宿三丁目ビル)を建てて起点を移し、「京王新宿駅」を名乗りました。駅ビルには、テナントとして「武蔵屋呉服店」が入り、ターミナルデパートとなっていました。その「京王新宿駅」の3線5面のホームがあった場所に建てられているのが「京王新宿追分ビル」なのです。

では、なぜ西口に起点を移したかというと、昭和20年(1945)5月の空襲で新宿~初台間の天神橋変電所が被災し電圧が下降したため、陸橋の急勾配を電車が越えられなくなってしまい、やむなく西口に仮設駅を設けたのが、そのまま居ついてしまったというちょっと情けない事情なのです。甲州街道の陸橋をトコトコ越えていく京王電車、見てみたかったです。

さて、江戸城半蔵門を起点に西へ、四谷大木戸(現:四谷三丁目交差点付近)から内藤新宿の宿場町を抜けてきた甲州街道は、内藤家下屋敷の敷地が尽きるあたりで、右手に青梅街道を分けると、西南西に向きを変え、天龍寺の門前を抜けて次の宿場高井戸を目指しました。

街道の分岐点である追分には、早くから茶店があったと思われますが、その伝統を今に伝えているのが新宿の名物「追分だんご」です。ただし、今の「追分だんご」の店は意外に新しく昭和15年(1940年)の創業なのですが・・・。

追分は、内藤新宿の上町の外れで、いわば宿場の場末です。その場末の街が、昭和になると、単なる街道の分岐点から人が集う繁華な地へと大発展していきます。そのきっかけは、明治通り(環状5号線)の開通でした。

明治通りは、昭和4年(1929)に追分から南へ渋谷までが、同6年には追分から北へ大久保までが開通します。追分の北西角には、昭和元年(1926)から地上6階地下1階の「ほてい屋」デパートが営業していましたが、明治通りの開通以後、追分周辺には次々と大きな建物が建てられていきます。

まず、追分の少し先、新宿通りに面して「三越」デパート(昭和4年)が進出します。ほぼ同時に明治通りと甲州街道が接する場所(現:大塚家具)に新宿最初の本格的劇場である「新歌舞伎座」(昭和4年。後の新宿第一劇場)が、さらに追分の南西角に5階にダンスホールを備えたルネサンス様式の「帝都座」(昭和6年、現:丸井新宿本館)が、北東角には5階建ての食堂デパート「三福」(昭和6年、現:三和東洋ビル)が開業します。そして、昭和8年に「ほてい屋」デパートの隣に「伊勢丹」デパートが開業しました。

こうして、追分は東京西部の新興の商業拠点として、浅草や銀座と並んでモダン東京の消費活動の一翼を担い、黄金時代を迎えることになります。「伊勢丹」は、経営者の自殺などで経営が傾いた「ほてい屋」デパートを昭和10年(1935)に吸収合併し、同12年には、双方の建物を接合した巨大デパートになり、追分の盟主の地位に就きます。

この「伊勢丹」による「ほてい屋」合併については、「伊勢丹」の建設時に建物を「ほてい屋」の壁面と隙間なく建てたり、各階の高さを「ほてい屋」に合わせるなど、当初から将来の「乗っ取り」を策していた?という話がありますが、真偽のほどはわかりません。

「伊勢丹」の外観をよく観察するとおかしなところがいくつかあります。まず○に「伊」のマークの大看板が立って、いる場所です。普通なら交差点を行きかう人の目にいちばん止まる屋上のコーナー部分に立てそうなものですが、かなり新宿駅寄りに引っこんでます。つまり、そこまでが元々の伊勢丹で、そこから交差点寄りは「ほてい屋」だったのです。これでも「伊勢丹」としては精一杯、交差点寄りに○に「伊」のマークを設置したのです。

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↑ 追分交差点からみた「伊勢丹」。
塔屋と〇に「伊」のマークの位置に注目。

また外壁の1・2階部分の列柱を見ていくと、新宿通りの「ISETAN」の看板の前後で間隔が乱れ、柱の間が極端に狭くなる部分があります。そこが「継ぎ目」です。よく観察すると、水平ラインも交差点寄り(ほてい屋側)が少し高く段差があります。さらに仔細に見ると、壁面装飾が似てはいるものの微妙に違うことに気づきます。一見、ひとつの巨大デパートに見える建物が、二つの建物の接合だったという来歴が壁面に残されているのです。

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↑ 「ほていや」と「伊勢丹」の接合部分。
柱間隔が極端に狭くなり、水平にも僅かですが段差がある。

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↑ (上)「旧・ほてい屋」(下)「旧・伊勢丹」
こうして並べてみると、よく似たロータス紋だけども、細部がかなり異なることがわかる。

つい数年前まで、「伊勢丹」デパートのB1階には、フロア-の真ん中に段差があり、4段ないし5段ほどの階段になっていました。これは、2つのデパートの壁面を取り払って接合した名残りの段差なのです。地上部分の各階の段差はわずかでしたが、「ほてい屋」の地階は「伊勢丹」の地階よりかなり浅かった(天井までの高さがない)のです。残念ながら、2007年の地下売り場の大改装で段差はなくなってしまい、今はもう見られません。「伊勢丹」にしてみると、72年目にして「乗っ取り」、もとい「合併」の痕跡を消すことができたのです。

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↑ 「伊勢丹」の地階にあった段差。
館淳一「狷介老人徘徊日記・伊勢丹地下の秘密」(2003年1月撮影)より
http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/isetan.html

ところで、「追分」の名は俗称であって、行政地名ではありません。そのせいか、もうほとんど人々の意識から消えかかっています。「伊勢丹」前の「新宿追分バス停」は、いつのまにか「新宿伊勢丹前(新宿追分)」になってしまいました。あとは「追分だんご」「京王新宿追分ビル」「四谷警察署追分交番」・・・そのくらいでしょうか。交差点の名前も「新宿三丁目」になってしまい、「追分の交差点で降ろしてください」と言っても、タクシーの運転手さんにはもう通じません。「追分」だけでなく、「角筈」も「新田裏」も消えつつあります。新宿の由緒ある地名、せめて、交差点の名前には残して欲しかったです。
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