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新宿グランドツアー【3】天龍寺・雷電神社と旭町スラム [新宿グランドツアー]

【3】 天龍寺・雷電神社と旭町スラム

中央通りは、明治通りに突き当たってお終いなので、少し道を戻って、元の「三越南館」(現:大塚家具)の角を曲がりましょう。この場所には、昭和4年(1929)開場の「新歌舞伎座」という劇場がありました。「新宿第一劇場」「新宿松竹座」と名を変え、戦後は青年歌舞伎の本拠となり、昭和35年(1960)の閉場まで、新宿における古典劇の中心でした。

さらに右手の路地に入ります。この路地には、任侠映画専門の名画座「新宿昭和館」があり、その地下は成人映画専門の「昭和館地下劇場」でした。この「昭和館」は、昭和7年(1932)の創業という新宿では「武蔵野館」に次ぐ老舗だったのですが、2002年に閉館してしまい、現在は「K's cinema」というミニ・シアターになっています。

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↑ こういう景色も、気づくと、ずいぶん減っているような・・・。

路地を抜けると、堂々と成人映画の看板を掲げている「新宿国際劇場」の前に出ます(現在、解体中)。ここは「ムーラン・ルージュ」と「新宿座」の跡地です。そこを左折すると、新宿駅東南口の広場です。この場所は1980年代の末頃まで駅周辺の再開発から取り残され、「御大典記念碑」を囲むように闇市時代を偲ばせる安飲み屋や金券屋、さらには営業しているのか定かではないヌード劇場などが立ち並ぶ、「桜新道」と呼ばれるいかにも怪しげな一画でした。
新宿「桜新道」.jpg
↑ 「御大典記念碑」と「桜新道」

内部に入らなくても、甲州街道の陸橋の上から見下ろせたので、ご存知の方もいらっしゃると思います。今では見違えるようにきれいになり、当時を知らない若者たちで賑わっています。こういう形で街の「浄化」「再開発」が進むのは、基本的には悪いことではないのでしょうが、一抹の寂しさも感じます。
新宿駅東南口1.jpg
↑ 現在の「東南口」。
上の写真とほぼ同じ場所。

さて、甲州街道の陸橋を潜って、現在の新宿4丁目(旧:旭町、さらに以前は南町)に入りましょう。
ここは江戸時代には、天龍寺の門前町(寺社地)で、甲州街道とほぼ並行する玉川上水が流れる街でした。現在、甲州街道の陸橋の南側に沿うJRAの馬券売場前の道は、玉川上水に蓋をした道路で、「堀端通り」と呼ばれています。

明治通りを渡ったところに護本山天龍寺(曹洞宗)があります、その起源は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母、西郷局(於愛の方)の実家(戸塚氏)の菩提寺である遠江国西郷村(現:静岡県掛川市)の法泉寺です。家康が江戸に入府する際に、遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移され、同時に法泉寺の近くを流れていた天龍川にちなんで名を天龍寺と改めました。その後、天和3年(1683)の大火で焼失し、現在地に寺地12000坪、門前町5000坪という規模で移されました。江戸城の裏鬼門(坤=ひつじさる=南西)を守護する役割を担わされていたと言われています。

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↑ 天龍寺の山門。
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↑ 扉には徳川家の御紋(三つ葉葵)。

徳川将軍家所縁の寺の格式を感じさせる立派な山門は昭和の再建で、元は甲州街道に面し、その前には、玉川上水を渡る天竜寺橋がありました。橋の位置は、現在の甲州街道と明治通りの交差点のあたりになります。昭和の初め、明治通りが開設される際に境内の一部を削られ、山門を明治通りに面する形に建て直したものです。

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↑ 天龍寺の鐘。鋳造は多摩郡谷保村(現:国立市)の鋳物師「関孫兵衛」。

鐘楼の鐘は、明和4年(1767)に牧野備後守貞長(常陸笠間藩8万石)が奉納したもので、上野寛永寺、市ヶ谷八幡の鐘とともに「江戸三名鐘」と言われました。また天龍寺の鐘は、江戸に9カ所あった「時の鐘」のひとつで、内藤新宿に時を知らせる役目をもっていました。ただ、この地は江戸城からかなり遠いので、定時に鐘を打つと、登城する武士が遅刻しかねないので、少し(30分ほど?)早くついたそうです。そのあおりで、内藤新宿の旅籠屋で飯盛り女(実態は遊女)との夢を見ていた遊び人たちは、30分早く起こされることになり、そのため「追い出しの鐘」とも呼ばれたそうです。

ところで、天竜寺の門前町だった新宿南町は、明治20年(1887)の「宿屋営業取締規則」で木賃宿営業許可地域に指定されます。これは、東京中心部に近い所にあった「目障りな」細民街(芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋など)を、より都市縁辺部に追い立てようとした明治政府の政策で、これがきっかけになり、南町は急速に貧民窟(スラム)化していきます。

木賃宿(きちんやど)とは、自炊、宿泊客が米などの食材を持ち込み、薪代相当の金銭(木賃)を払って料理してもらうのが原則の最下層の旅籠でしたが、明治以後は、単に安価で粗末な安宿を意味するようになります。近代化の中で東京や大阪などの大都市に流入したものの、定まった家を持てない貧困層の人々は、日々の泊り賃を払って木賃宿の狭い一室に長期滞在することになります。こうして木賃宿を核に、低賃金工場労働者、日雇い労働者・廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、密淫売の街娼や女装の男娼、そして彼らの家族などが集積するという形で、スラム街が形成されていきました。

林芙美子の『新版 放浪記』(昭和21年=1946)には、大正12年(1923)頃、同棲相手に捨てられた20歳の芙美子が旭町の木賃宿に泊ったことが記されています。
「夜。新宿の旭町(あさひまち)の木賃宿へ泊った。石崖(いしがけ)の下の雪どけで、道が餡(あん)このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。」
「まるで明治時代にだってありはしないような部屋」の宿代は一泊30銭でした。当時の物価は、山手線の初乗りが5銭、ざるそばが8銭、うな重が50銭でしたから、30銭は1500円見当でしょうか。相当な安宿です。

その晩、芙美子は、「臨検」(警察による臨時の抜き打ち検査)に出会います。
「夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。『済みませんが……』そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返(いちょうがえ)しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。『オイ! お前、おきろ!』やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々(ばくばく)とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。『今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……』薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗(な)めながら、私の枕元に立っているのだ。『お前はあの女と知合いか?』『いいえ、不意にはいって来たんですよ。』」

密淫売の取締りのため宿に立ち入ってきた刑事に危うく娼婦と間違われそうになるのですが。ようするに、そういう場所だったのです。

戦後の混乱期には、旭町を寝ぐらとする街娼たちが、新宿御苑沿いの道にズラリと立ち並んでいたそうです。高度経済成長期になっても、旭町は、山谷と並ぶ東京のドヤ街(ドヤは宿の転倒語)として知られていました。私が新宿の街を歩き始めた1990年代初め頃でも、冬の夜には労務者のオジさんがドラム缶たき火をしていたり、甲州街道のガード下にはあやしいお姐さんが立っていたり、とても「女の子」が入り込める状況ではありませんでした。

1963年の住宅地図を見ると、天竜寺の墓地の東側から南側の路地には、「小泉」「大和田支店」「第一相模屋」「第五相模屋」「大和田分店」「ま志ふく」「さがみ」「やまと」「花嶋館」「中田家」「すえひろ」など小さな旅館が軒を並べています。この内「第五相模屋」は昭和10年頃に作成された地図にも屋号が見え、木賃宿に起源を持っています。

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↑ 1963年頃の新宿4丁目(『新宿区 1963年度版』 住宅協会地図 1963年11月)。
小さな旅館(薄緑色)が集中している。

現在の新宿4丁目は、西半分が新宿駅新南口の再開発で見違えるようにきれいになって、ドヤ街だった面影はほとんどありません。しかし、東半分には、かってのドヤが姿を変えたビジネスホテルやウィークリー・マンションがいくつか残っています。先に名前を挙げた「旅館」の内、「さがみ」「中田家」「すえひろ」はなお健在です。

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↑ 右側が旧ドヤ街、左側が天龍寺の墓地、遠く代々木のドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)。
ちょっと、シュールな取り合わせ。

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↑ わずかに残るドヤ街の名残り「中田家」。
1階は普通の高さですが、2階に相当する部分の窓を見ると、2層になっているのがわかります。
玄関の料金表は「1泊 1800円 個室2200円」。

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↑ いかにも木賃宿っぽい名前の「相模屋」はユースホステルに。
昭和10年頃の地図には、この場所に「相模屋旅館」と記されている。

さて、天龍寺の門前から甲州街道と明治通りの交差点に出て、右手の道を新宿高校の方に進むと、すぐ右手に雷電稲荷神社の赤い鳥居が見えてきます。祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)ですが、鎮座の由緒は明らかでありません。ただ、地元には「源義家が奥州征伐にむかう途中雷雨にあい、この社殿で雨宿りをしていると、どこからか白狐が一疋あらわれてきて、義家の前まできて頭を三度下げた。するとたちまち雷鳴が止み空が晴れあがった」という話が伝わっているようです。

今ではほんの小さな社地(40坪)になってしまっていますが、江戸時代後期には、天龍寺の鎮守社として、境内で芝居興行が行われたくらいの広い社地(400坪)を持っていました。すぐ前を流れる玉川上水の土手は、春は桜、夏は蛍の名所で、雷電神社は参詣の人が絶えなかったそうです。

明治に神仏分離令以降は、新宿南町の総鎮守となりましたが、氏子圏である南町の貧民窟化によって町財政がひっ迫し、大正年間には、神社の維持管理が難しくなってしまいました。結局、10年近くのすったもんだの末、ついに昭和3年(1928)、まるで神社ごと身売りするかのように、社殿と社地の大半を売却し、花園神社に合祀されてしまいます。氏子が貧困化すると神様も没落してしまうという哀しいお話です。

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↑ 雷電稲荷神社の旧社地。
社殿は売られてしまっても、信仰は生きている。

今のお社は、その名残なのですが、昭和58年(1983)に安藤清春という方が80歳の記念に建立した立派な石の標柱が立ち、「平成二十二年初午」に寄進された赤い幟がはためき、信仰は今でも生きています。地元の人たちにとっては、今でもこここそが「雷電さま」なのでしょう。

それにしても、木賃宿地域への指定、門前町を真っ二つにする道路計画など、徳川将軍家所縁の寺に対する明治政府の意地悪が感じられるように思うのは、気のせいでしょうか。

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↑ 雷電稲荷神社の親子狐。

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